こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

「ルサンチマン充」という言葉を、ぼくは口にしたくない

 『ペルソナ4』から始まって、ずいぶん離れたところの話をしている気がする。するけれども、自分の感じたところを言葉にしないと寝つきが悪いので、一週間かけて書いた。

 そういうひとたちに「絶望する必要はないのだ」ということは、たしかに余計なお世話というものだろう。かれらはけっきょく、自ら「絶望」することに満足しているのだから。ぼくは、そういうひとを「ルサンチマン充」と呼びたい。

 本当に苦しんでいるひとは、何としてでもその苦しみの沼から抜け出そうとするものだが、ルサンチマン充は逆に何としてでも沼から出るまいとする。ルサンチマンに浸っていることが快感だからである。
 全くうらやましくも妬ましい。このルサンチマン充め!
このルサンチマン充め! - Something Orange

 海燕さんの言う「ルサンチマン充」なる現象は確かにありうることだと思う。数少ないぼくの人生経験のなかでも、こういう人にはたくさん会ってきた。
 でも、そういう話じゃないのです。

 ぼくが先日のエントリで言いたかったのは、「リア充」「非リア充」として自分も他者もひとつの型に規定して罵倒したり擁護したりするような状態でないと、心の平穏を保てない、生きていけないようになってしまう外因があるんじゃないのか? そのことを考えずに「リア充/非リア充」的言説を否定しても意味がないのでは? ということだ。

 たとえば、何事にも要領が悪い人がいたとする。
 悪意はないし、それなりに向上心もあるにも関わらず、結果がついてこないゆえに、周りから叱責を受けてしまう。どんな人間でもひとつくらいはいいところがあるものだが*1、たまたまその部分が周りの目に入らなかったために、彼は次第に、自分が何事につけてもだめな人間だと思うようになっていく。

 あいつはリア充だ、おれは非モテだとというとき、人間存在のもつ多様な可能性は一気に切り捨てられ、ある一面だけがクローズアップされる。
リア充なんてこわくない! - Something Orange

 本当は、彼は他者から様々に評価されている。しかし、彼はそれを知ることができない。

 人生は一回限りで、同じ出来事を何度も体験して客観的に分析することはできない。たとえ実際に自分のおかれた状況が複雑で、他者からの評価も一面的ではないとしても、受け止める心はひとつだ。

モテとかリア充とかスクールカーストとかいった概念をばかばかしく思うのは、それらがけっきょく、本来多面体であるはずの人間を一面的に切り取る言葉だからである

ということが真実だとしても、その真実を実感するための客観性や冷静さを保ち続けるためには、相当にタフな心と経験が必要だ。すべての人にそれを期待するのは無茶に過ぎないだろうか? 

 かくして、彼は自分を「非リア充」と思い込む。すると、他者と接するにも、「リア充」か「非リア充」か(自分と同じか違うのか)という区別しかつかなくなってしまう。
 そして、「非リア充」あるいはそうした判断基準そのものから脱却を図ろうとしても、周囲に再び叱責を受け傷ついてしまったら、「ルサンチマン充」として自分の心を守ったほうが楽しい、と思い込んでしまう。
 「リア充/非リア充」、「ルサンチマン充」的な言説や態度は、こうして生まれていく。
 もちろん、外因がまずあって、その後人の「ルサンチマン充」的心が生じた、と前後をはっきりできるものではないだろう。
 もともとネガティヴだった人、なかなか勇気がなく消極的な(人に評価されにくい)行動しかできない人が、自ら「ルサンチマン充」へのルートに足を踏み入れてしまうこともあるとは思う。
 けれども、そこに少しでも外因があるならば、全責任を本人のみに押し付けて罵倒することはできないはずだ。
 これが、「リア充なんてこわくない!」に対してぼくの抱いた反感だ。

 海燕さんの「このルサンチマン充め!」という文章を全否定するつもりはない。そう単純な話ではない、というエクスキューズは文章のそこかしこに見受けられる。それでも、やはりあれは軽率だったと思う。

 海燕さんは3月11日に「自分の好きなものの欠点を認めよう。」という記事を書いている。

 自分が大好きなものの欠点を認められること。自分が大きらいなものの長所を認められること。どちらもなかなかむずかしいが、それができないひとととは話ができない。
 自分が好きなものの欠点を認めよう。その作品を、本当の意味で好きになるために。
自分が好きなものの欠点を認めよう。 - Something Orange

 自分の欠点を受け入れて、前向きに考えること。アニメやゲームでも、自分の好きなものの欠点を受け入れるのはむずかしい。自分自身のことだったらなおさら。
 そのむずかしさについて、もっと思いを馳せてほしい。

 安易に世代論に収斂させたくはないが、今の世の中、欠点を認めることは昔より難しくなっているのではないか、とぼくは推測している。
 インターネットは情報のやり取りを爆発的に増加させた。個人が何か失敗を犯せば、あっという間に批判の集中砲火を浴びる。実際に批判を受けなくても、いつ何どき、世界中から全否定されるかわからないという可能性が、人を臆病にさせる*2
 弱い人は、自分の欠点が引き起こすかもしれない事態を勝手に想像して、何とか隠そうとする。周りはそれほど気にしないのに。
 そして、周りを罵倒し続けることで、自分を守ろうとする。

 そういう状態の人に、かけるべきは、欠点を指摘する言葉だろうか。
 「ルサンチマン充め!」という言葉だろうか?
 自分を守るのに必死な人たちを、罵倒の言葉で目覚めさせることは可能だろうか?

*1:生きているということ、とか。

*2:他にも、高度経済成長の終焉や、能力至上主義の台頭、教育レベルの向上など、人を消極的・内向的にさせる要因はいくらでもある。