こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

勃起を恥じるな!『愛のむきだし』


 映画館から帰宅して、連れ合いに映画の感想を話そうとしてちょっと困った。どうやって要約すればいいんだ。4時間弱の上映時間内、頭の中が飽和しそうになるくらい高密度な表現が展開される。盗撮魔の主人公が運命の女の子と出会って...などと言いはじめたら、あの登場人物についても語りたい、いやいやあの要素も、となって歯止めがきかない。ここはひとつ、かんたんに。タイトルが示すとおり、これは、むきだしの愛を描いた映画である。言うべきはそれくらいで、付け加えるなら、この映画が傑作だということだ。

 映画の中心となるユウ(西島隆弘)、ヨーコ(満島ひかり)、コイケ(安藤サクラ)の三人は、いずれも実の親によって自己を否定された若者である。親を愛せないまま成長したかれらは、他者の愛し方がわからず、ひたすらに暴走する。父にかまってほしいがため、また死に別れた母のおもかげを求めてパンチラ写真のマスターとなるユウ。父にレイプされかけた恐怖から逃れるため、カート・コヴァーンとイエス・キリスト以外すべての男を手当たり次第憎み、殴るヨーコ。そして、狂信的キリスト者の父に虐げられ、心を歪ませたコイケ。
 ユウが盗撮写真に興奮できないことからわかるように、かれらの暴走は欲望丸出しの行為に見えながら、実はそうではない。若者たちは愛を求めるが、親から否定され、また社会的な抑圧に耐えかねて、その愛への思いをむきだしにできないでいる。
 過剰な題材に怖気づくかもしれないが、すなわちこれは、すべての人が抱えうる普遍的な人生の問題である。誰かを愛したい、しかし愛せない。ならば、どうする? ユウとヨーコは、数々の障害をぶち壊し、その答えを見つける。愛することを恥じないこと。相手を不要に怖れたり、逆にすべてを理解した気になって驕ったりせず、ただ全力で対峙すること。
 普遍的であると同時に、このテーマは、同時代性をも伴って提示されている。映画前半で描かれる、ヨーコが妄想する「透明な戦争」。彼女いわく、いついかなるときも、世には透明な弾丸が飛び交っているという。人はいつその弾丸に打ち抜かれ、死ぬかは誰にもわからない。しかしそれゆえに、彼女は死を怖れなくなる。女子高生によるスクールシューティングのTV報道を見ながら、その現場に立つ自分を彼女は想像する。微動だにしない彼女のすぐ横を、通り過ぎていく弾丸。そのシーンの奇妙な切実感といったら! 「透明な戦争」というモチーフはその後省みられないが、同じ世代による犯罪の報道を眺める若者が抱える、言いようのない切実な感覚がここで埋め込まれたことで、2009年の日本映画としての強度は一挙に高まった、と個人的には思う。端的にいえば、これは加藤智大に勝てるフィクションなのだ。
 ついついこういう小難しく語ってしまったが、上映中はただ「お、おもしろい!」というほかない映画である。西島くんとひかりちゃんの麗しくエロい姿を眺めているだけでも充分しあわせだ。最高! 最高の映画!

 劇場では、ぼくの前の列に女子高生二人組が座っていた。アイドルでもある西島隆弘を目当てにふらふら迷い込んだのかしらん、四時間の映画に耐えられるかなと勝手に心配していたが、彼女らはエンドロールまで席を立たなかった。満島ひかりの海辺のシーンや、西島隆弘の病院のシーンなど、圧巻というほかない山場では、前のめりになってスクリーンを見つめ、息を呑んでいる雰囲気が伝わってきた。ユウやヨーコに近い歳の彼女らにもまた、この映画が届いたことを嬉しく思ったことである。

 ところでぼくは鑑賞中、コイケが『ダークナイト』のジョーカーと同じような悪役という第一印象を受けたのだが、あとでこれは誤りだと気づいた。ジョーカーは規定の倫理や価値観に挑戦する、あくまでアンチクライストな悪役だが、コイケは自身が神になろうと画策する悪役なのである。その彼女があのような結末を迎えるのはなぜか、いまいちぼくは釈然としていない。一方であの終わり方しかないよな、とも思うのだが。これは当分の宿題。