こづかい三万円の日々

30代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

『1973年のピンボール』

 西村健の後なら、どんな文体も鼻につかないよ! というわけで、積んであった村上春樹を立て続けに読んでいる。

1973年のピンボール (講談社文庫)

1973年のピンボール (講談社文庫)

 で、西村健のおかげかどうか知らないが、非常に面白く読めた。失ったものにどう向き合うか、というテーマを、もったいぶることなく率直に扱っていて、前作『風の歌を聴け』の数倍読みごたえがある。後半のピンボールマシンをめぐる探索譚と、「ぼく」と「鼠」の二人を交互に描く構成のおかげで、古典的な語り口を獲得できているからだろう。
 ぼくの(そして世の多くのアンチ村上派の)嫌悪する村上春樹の汚点ってのは、何かを語っているようで結局どこへも到達しない*1ことだと思う。この小説はそうなっていないし、物語の終盤では、登場人物がこんなことまで言ってしまう。

「なあ、ジェイ、駄目だよ。みんながそんな風に問わず語らずに理解し合ったって何処にもいけやしないんだ。こんなこと言いたくないんだがね……。俺はどうも余りに長くそういった世界に留まりすぎたような気がするんだ。」

 無条件に村上春樹(の雰囲気語り)を賞賛する人たちに聞かせたいせりふだねえ。片山恭一とかさ。

 で、余談になるけれども、ピンボール探索譚のくだりは、アメリカのオタクが伝説的ゲームを探してさまようD・B・ワイスの『ラッキーワンダーボーイ』を連想させた。

ラッキー・ワンダー・ボーイ (ハヤカワ文庫 NV)

ラッキー・ワンダー・ボーイ (ハヤカワ文庫 NV)

 要は、それらしい固有名詞を並べて架空の何かを語る民明書房メソッドなわけだが、それが生み出すこのグルーヴ感はなんなんだろう。明らかに嘘だとわかるものが、真実のように語られることの生み出す快感。たのしいなあ。

*1:到達しないことに価値を見出す気持ちも、ま、わかるけども。ただ、結局どこへも行かないとしても、出発点に自分はいるんだ、と訴えることは可能なわけで、それすらも忌避するのは卑怯でしょ。