こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

夏の終わりに「みんな」で踊る/『ラブライブ!』をめぐる人たちのことについて・2

 夏が終わる。
 すでに9月も末が近く、季節は秋だと言っても差し支えはない。けれども、8月5日に始まったAqoursHAPPY PARTY TRAIN TOURを観てきた人たち、そして9月29日・30日に埼玉で行われるツアーの最終公演を観る予定の人たちにとっては、その二日間こそが夏の終わりだ。
 今週の金曜と土曜の夜、Aqoursの9人と、3万人の人々がメットライフドームに集まる*1。映像と音声が全国の映画館に配信される。そうして、おそらくは5万を超える人々が*2、歌い、踊り、声をあげる。
 わたしはその5万人を、どのように感じればいいのだろうか。
 夏の始まりのころ、わたしは「「みんな」とは誰か」という文章を書いた*3。その後二ヶ月のあいだ、すっかりそんなことは忘れてAqoursの魅力に熱中したときもあれば、足をとられて延々と悩んだ時期もあった。
 5万人は、『ラブライブ!』シリーズにおける重要概念「みんな」なのか。彼らはどんな人々なのか。
 夏の終わりを迎えるにあたって、わたしはもう一度、「みんな」のことを考える。


 ライブ会場に来る人たち全員と友達にならなきゃいけないわけじゃなし、誰であってもよいじゃない、というような意見は受け付けない。わたしは彼らと一緒にただ座っているわけではない。彼らと一緒に過ごすのは、もっと能動的な時間なのだ。わたしたちはライブの数時間を共有し、光景を共有する。共有することは、共感することとイコールではないから、すべての価値観と感情を同一にできるとは思わない。けれども、そのたくさんの人々と、自分との間にある、最低限の共通点くらいは確認しておきたい。
 かれらとわたしの共通点は何なのか。『ラブライブ!サンシャイン!!』について、Aqoursについて共有できるものは存在するのか。もしそうした足がかりがないのなら、わたしはなんのコミュニケーションの可能性もありえない、匿名の群衆と一晩を過ごすことになる。それはあまりに寂しい。あなたはどう思うか知らないけれど、わたしは寂しい。

 

♪♪♪

 

 まず単純に、この人々を「Aqoursが好きな人」とするのはどうだろう。
 Aqoursのライブに来ているのだから、当然この点は全員がクリアしていそうに思えるのだけど、残念ながら事態は複雑だ。『ラブライブ!サンシャイン!!』という作品の場合、好きになるポイントが非常にたくさん用意されている。同じ「Aqoursが好き」といっても、「アニメが描くAqoursが好きな人」「声優としてのAqoursが好きな人」などなど、その「好き」の対象は様々に存在する。アニメだって、「全部好き」という人もいれば、「13話だけは嫌い」という人もいる。
 作品全体への情熱のかけかたも千差万別だろう。Aqoursのライブに来るためにブルーレイを何十枚も買った人もいれば、デレマスもガルパもラブライブも並行して楽しんでいて、一応好きなキャラクターはいるけど自分からライブに行くほどではない、今日は友達に誘われたから来たよ、というような人もいないではないだろう。
 こうした人たちをすべて等しく「Aqoursが好き」または「ラブライブ!サンシャイン!!が好き」の一言でくくってしまっていいのか。


 正直に言えば、わたし自身、自分の「好き」は他の多くの人の「好き」とは違う、と思っている。昨年の初頭から、えんえんAqoursについて考え、情報を集め、よりよいファンとして振る舞おうと務めてきた。その成果がこのブログであり、Twitterの呟きである。
 そういう自分を、TLがアニメやライブ映像のスクリーンショットと、常套句のコピー&ペーストだけで構成されるような人や、沼津の街頭で喧しく振る舞うような人たちと一括りに「好き」の言葉で形容されたとしたら、ちょっとつらいものがある。彼らの「好き」を全否定する気はないけれど、わたしのとはかなり違う種類の「好き」ではないですか、同じフォルダに入れるとお互い難儀じゃないでしょうかね、と言いたい。


 このように、5万人の人々を「Aqoursが好きな人」でくくろうとすると、どうしてもわたしは他人の「好き」をはかりにかけて、自分にとっての「Aqoursが好きな人」の範疇に入るかどうか、という不毛な審判を始めてしまう。わたしは他人の「好き」を裁くようなことはしたくない。
 わたしの「好き」だって、大したものではない。わたしより精緻に作品を読み解き、キャストに深く共感し、グッズに惜しみなくお金を出す人間はいくらでもいる。そういう人たちから、お前の「好き」なんて本当の「好き」ではない、と言われる可能性もある。
 そういう不毛な競争はしたくない。

 

♪♪♪

 

 「好き」というような漠然としたものではなく、より具体的な基準をもって、5万人の人々を認識するのはどうだろうか。

 Aqoursのライブ参加者にまつわる話題として、「10人目」問題がある。Aqoursの9人に加えて、ライブ参加者たちが自分が「10人目」だと考え、振る舞うことは許されるのか否か。
 この問題は、ファーストライブの際から多くの人によって論じられてきた。今回のツアーでは特に、Aqours九人が「1!」「2!」と順に点呼を行っていく楽曲『太陽を追いかけろ!』が歌われるため、観客は彼女たちに続いて「10!」という声をあげるかどうか、明確な判断を求められている。更に、既に行われた名古屋・神戸のライブにおいては、キャストや演出が明らかに観客の「10!」を期待していることが見てとれた。
 ならば、ここで「10!」と言えるかどうかを、5万人の人々と自分との共通点として見出すのはどうか。
 神戸公演二日目を現地で経験した当時のわたしは、「10!」と声に出すことを選んだ。恐らく、埼玉でも同じことをするはずだ。アニメ一期13話で描かれた、Aqoursの9人以外へと「輝き」を広げていこうとする考え方に共感したこと、また神戸公演のさなかに、Aqoursが観客を10人目として迎え入れる行動*4を目にしたことが大きな理由だ。
 しかしここでも、ことはそう単純ではない。「10!」と口にするか否かを決めるのは、Aqoursのこうした考え方に共感する・しないの判断とイコールではないからだ。
 Aqoursの考え方に共感し、応援したいと思っていても、音楽鑑賞についての自身の価値観から、ライブでは黙って彼女たちの歌と言葉を受け取っていたい、という人もいる。
 それではライブを楽しんでいるとはいえない、声を出して参加してこそライブだというのならば、どこまでが許される参加のあり方なのか、という問題が生じる。いわゆる「家虎」*5的なコールと「10!」の境界はどこにあるのか。「「家虎」はうるさいが「10!」はうるさくないからOK」という価値観と、「「10!」のかけ声はうるさい。黙って観たい」という価値観の間に、うるさい・うるさくないを判断するもののエゴ以外の違いはあるだろうか。
 前述の通り、観客からの「10!」をAqours自身が求めている可能性は高い。この点をもって、「10!」のかけ声は許されていると言える。しかしそれは、「「10!」の声を発することが許されている」というだけで、声を発しないこと、また声を発することなしにAqoursを応援する気持ちを抱くことが禁じられたということにはならない。


 こう考えてみよう。会場で「10!」と叫ぶことがAqoursに力を与えるとして、ではライブビューイング会場で「10!」と叫ぶことに価値はあるのか。ライブビューイング会場で発せられる観客の声が、埼玉のAqoursに届くことは絶対にありえない。
 そんな声に価値はあるのか。
 当然、ある。
 アニメ一期11話で描かれたように、遠く離れたところにいる同士の人間のあいだにも、「想い」があれば、お互いの力になりうる。
 とすれば、埼玉の現場で黙って『太陽を追いかけろ!』を聴く観客が、心のなかで発した「10!」にも、同じように意味があるはずだ。


 このように、「10!」にまつわることも、あまり頼りになる基準だとは言えない。大きく「10!」と叫ぶ人も、黙ってそのあとの「OK! Let's go Sunshine!」というAqoursたちの声を聞き漏らすまいと耳をそばだてる人も、わたしには同じようにAqoursを愛しているように思える。
 逆に言えば、「10!」と言ったからといってAqoursを愛していることの証明にはならない。残念だけれど。

 

♪♪♪


 いっそのこと、5万人の大半への想像をやめてみるのはどうだろう。もっと限られた人たちのことだけを考える。
 Aqoursと『ラブライブ!サンシャイン!!』のファンとしてネット上でふるまうなかで、わたしは多くのファンの人たちのことを知った。ネット経由という覚束ないものではあるけれども、わたしが強く共感し、応援している人たち。5万人全員は無理でも、彼らのことなら、一つの「みんな」として想像できるのではないか。
 わたしは自分でAqoursについてのブログを書くから、同じようにAqoursについて長文のブログを書いている人たちには親近感を覚える。特にこの夏は、これまでブログを書き続けていた人以外にも多数の人が、新たにブログを書き始めることが多かったように思う。
 みな、Aqoursに触発されたのだと思う。自分の受け取った大事な感覚を、言葉にして保管し、共有したいと思ったのではないか。そういう、自分の書くべきことを発見した人たちの文章は、一様にある種のきらめきをもっている。整っていない部分もあるけれども、切実で、熱のこもった文章。そういう文章を読むのは楽しい。
 もちろん、今夏以前から読んでいるすばらしいブログも多数ある。ブログだけではない。音楽や、創作や、仕事にまで、Aqoursから受け取ったインスピレーションを絡めて活動している人たちが、わたしのTwitterのタイムライン上にはたくさんいる。代表的なのは沼津・内浦の人たちだ。経済の面でも精神の面でも、Aqoursが土地にもたらしたポジティブな影響を広げていこうと活動し、その様をネット上へ発信している。
 彼らはいわば、Aqoursからの「君のこころは輝いてるかい」という問いかけに対して、輝こうとしている人たちだ。自分の生活や仕事、趣味を輝かせようとしている人たち、あるいは、Aqoursの輝きを記録しようとしている人たち。
 そういう人たちを想像する。想像しやすいし、共感しやすい。これならば問題はないのではないか。


 しかしわたしはここでも躊躇する。
 それらの(一方的な)知り合いを想像するときにこそ、価値観やふるまいの小さな違いが強く意識されてしまう。ブロガーたちの長い記事のなかに、自分に似た考えを見つけて嬉しくなるときもあれば、わずかだけれど許容できない違いを知って反発してしまうこともある。
 不遜なことだと言われそうだけれど、これと同じことは、Aqours本人や作り手たちの言葉に接したときにも生じうる。先日発売された『ラブライブ!サンシャイン!!テレビアニメオフィシャルBOOK』など、その危険性のかたまりのようなものだと思う。あの本に掲載された、アニメ各話へのAqours全員と酒井和男監督のコメントは、非常に読み応えがあってすばらしい。しかしその満足感ゆえに、「あの件については触れないのか」とか、「そのコメント、ちょっと粗くないか?」といったような、より自分の読みたい言葉を求めてしまうような気持ちも芽生えてしまう。
 わたしは、自分に近しいものを好きなひとたちのなかに見つけて、自分と相手とはこんなにも接近しているのだと考えて喜ぶ。そして、好きな人のなかに自分とは遠いものを見つけたときには、自分と相手の距離を実寸以上に大きくとらえてしまう。
 好きであればあるほど、相手のなかに、自分にとても近いものと、とても遠いものとの両方を見出さざるをえない。
 共感しやすい人たち、好きな人たちだからこそ、遠く感じる部分もある。それもまたひっくるめて相手のことを知りたいと思うのだけど、そのような感情はどんどん個人的なものになって、「みんな」という全体への想像とはかけ離れていく。


 また、わたしが好きな人がみな、輝いているわけではない。輝いている人と、輝こうとしている人は同義ではない。
 受け取った輝きを前にして、うまく消化できない人もいる。そういった感情をもとに、ダークな二次創作をものする人もいれば、違和感の答えを見つけるために、長文のブログを書く人もいる。彼らは輝いていないのだろうか。わたしは、メットライフドームのなかに、ライブビューイング会場のなかに必ずいるだろう彼らのことを、考えないでいるべきなのか。


 わたしはそのようなこともしたくない。
 なぜなら、受け取り損ねたとはいえ、彼らもまたわたしと同様にAqoursの「輝き」を見た者なのだから。
 その先のことは違っても、出発点は同じだ。


♪♪♪


 ……出発点は同じなのだ。
 そういうことなのだ。
 ようやく結論が見つかる。
 問題はその5万人がどんなことをしているかではない。どんな経験をしたか、だ。


 メットライフドームにやってくる人たちが、なにを考え、なにをしてきたか、なにをするかは考えない(いや、考えてしまうけど、考えないようにする)。
 ただ、こういうことだけを考える。
 Aqoursはかつて、『君のこころは輝いてるかい』という問いを放った。一度目はファーストシングルで、二度目はアニメ一期の結末で。その問いは、ライブのなかでも何度も繰り返される。彼女たち自身が輝くことで。だからあの曲を聴かずに会場に来た人がいたとしても問題はない。

 その問いは、まさにその楽曲のかたちでストレートに投げかけられることもあれば、まったく異なる方法で投げかけられることもある。彼女たち自身が放つ輝きをもって「あなたはどうだい?」と訊いてくるのだ。
 Aqousの輝き方はμ'sとは違う。それを受け取る人もいれば、受け取れない人もいる。はなからそのような問いには応える気がない人、問い自体を認識できない人もいるだろう。しかし受け取る側のことは考慮されず、輝きと問いは問答無用で観客を射る。
 5万人はひとしく、『君のこころは輝いてるかい』という問いを投げかけられた人間なのだ。それこそが今週末に集まる「みんな」なのだ、とわたしは思う。


 Aqours自身すら、作り手すら、その問い/輝きからは逃れられない。声優としてのAqoursは、キャラクターとしてのAqoursから常に問いかけられている。そして両者ともに、そもそも最初の輝きを作り出したμ'sからの問い/輝きをずっと背負っている。


 ライブは試験会場ではない。
 Aqoursがわたしに唯一の正解を見せてくれる場ではないし、わたしが唯一の正解を見つけ、回答を提出するための場でもない。「気づき」だとか「学び」だとかをいくつ拾ったか、競う場でもない。
 幸運であればそうしたことを得られるかもしれない。しかし最初から期待することはたぶん間違っている。どんな回答を持ち帰るかで、周りの観客を判断するのも、また。
 自分がどんな回答を得られるか、得られないのではないか、と不安に思う必要もない。


 ただわたしは問いかけに身をさらすのだ。
 わたしより勇気のある彼女たちは、ステージの上で、輝いているか否かを審判するスポットライトにその身をさらす。彼女たちの身が乱反射した輝きを、わたしは少しだけ受け取る。そして同じ輝きは、ドームのなかの全員、ライブビューイング会場の全員にひとしく投げかけられる。
 それがわたしにとっての「みんな」だ。
 問いかけに自信満々で回答する人もいれば、口をつぐむ人もいるだろう。問いかけだとは思わず無邪気にはしゃぐ人も。問いのライトに照らされて「みんな」は踊る。


 それで夏が終わる。

 

 

*1:なお自分は金曜は現地、土曜はライブビューイングの予定です。

*2:メットライフドームに3万人強、全国のライブビューイングで1万人強、合計5万人強、というざっくりとした計算である。

*3:http://tegi.hatenablog.com/entry/2017/08/05/165429

*4:伊波杏樹さんは『太陽を~』で客席からの「10」の声を聴こうと両手を耳の脇にかざした。小林愛香さんは公演最後、Aqours9人が壇上で手を繋いで頭を下げるとき、空いている手を客席のほうへ差し出して掴む仕草をした。

*5:アイドルの歌唱にあわせて、「イェッタイガー」という独特のかけ声を発する風習。最近では、この言葉に限らず、「アイドル自身の歌唱が聞こえづらくなるほどに大きなかけ声をかけること」くらいの意味で使われているように思う。

Aqours 2nd LoveLive! HAPPY PARTY TRAIN TOUR 神戸公演二日目で感じたこと

 2017年8月20日、神戸ワールド記念ホールで開催されたAqoursのライブ「Aqours 2nd LoveLive! HAPPY PARTY TRAIN TOUR」について書きます。
 なお、今回のライブはkosakiskiさんに同行させていただきました。kosakiskiさんが恐るべき強運を発揮した結果、わたしたちはステージから数えて十列目という席につくことができた。kosakiskiさん、ありがとうございました。
 kosakiskiさんは9月3日に行われる同人誌即売会「僕らのラブライブ!」に参加されるそうなので、これを読んだ人は全員kosakisukiさんの同人誌を買いに行ってください。ラブライブ!をうたったすばらしい短歌をおさめた短歌集が買えるはずです。その一部が読めるブログはこちら。

  「幾百億秒の呼吸」 http://svapna.hatenablog.com/

 


 ♪♪♪


 わたしは記憶力が低い。
 あの3時間ほどのライブのあいだ、忘れたくない場面はいくつもあったが、恐らくわたしはそれらを忘れていく。
 でも忘れられない場面が一つだけある。AZALEAの『GALAXY HidE and SeeK』が歌われていたあのときの情景だ。より厳密に言うと、『GALAXY HidE and SeeK』を小宮有紗さん/黒澤ダイヤさんがたったひとりで歌っていたあのとき。
 たぶんあの感じだけは忘れないで済むと思う。


 それまでのライブは、わたしのすぐ近くの前方ステージでもっぱら行われていた。Aqours全員による3曲、学年別の3曲、そしてCYaRon!の2曲のあと、AZALEAは会場中央に設けられたステージから登場して、その場で『GALAXY HidE and SeeK』を歌う。ライブの演出はほとんどツアーの最初の会場である名古屋でのそれと同じだったから、この展開は予想できた。
 CYaRon!の『海岸通りで待ってるよ』の演奏が終わり、照明が暗転すると、わたしはセンターステージのほうを振り向いた。周りの観客たちの多くも同じように後ろを振り向く。
 『GALAXY HidE and SeeK』のイントロが響き始める。照明がセンターステージを照らす。観客たちの歓声が響き始める。みなの手元のライトは、AZALEAの三人を示す、赤・黄・緑の三色に切り替わっている。
 「もしかして ほんとうのわたしは」と歌い出す小宮さんの歌唱は、CDの音源においても、柔らかい。Aqoursの9人で歌っているときよりもAZALEAでの歌唱は柔らかく聴こえるから、これは本人も意識されているのではないかと思う。その柔らかい声が、この『GALAXY HidE and SeeK』という曲においては、世界のどこかにいるかもしれない、心を通わせられる誰かを探し求めるさまを描く歌詞を引き立てている。
 わたしが聴いたライブでの小宮さんの声は、柔らかいだけでなく、少し震えていた。歌唱後のMCで小宮さんは、「ひとりで歌っているとき、少し寂しかったよ」と言っていた。確かにそれは、大きな会場のなかでひとり歌うことの不安と、それでも必死に歌おうとする意志が伝わってくる声だった。
 わたしの席からセンターステージまでは距離がそれなりにあって、小宮さんが歌い始めても、その姿をすぐにとらえることはできなかった。やがてセンターステージの中央部がゆっくりとせりあがっていき、宙の高いところで小宮さんが歌う姿がはっきりと見えるようになった。
 スポットライトがアリーナの頂点部分から小宮さんのところへとまっすぐ光を届ける。空気中のスモークや塵が光に浮かび上がって帯のように見える。その向こう側の暗闇で、観客たちが振るたくさんの光が揺れる。
 そこにいる小宮さんは本当に、誰かを探してさまよう孤独な人に見えた。銀河で一人ぼっちの人に。
 と同時に、そこで、そうして『GALAXY HidE and SeeK』という歌を歌う小宮有紗という人が、確かに存在するんだという強烈な感覚も抱いた。
 演劇において、俳優が虚構の役柄をうまく演じれば演じるほどに、その俳優本人の存在感が際立ってきてしまうのと同じような、と言えばわかってもらえるだろうか。虚構と現実の二つの方向に向かって、存在感のエネルギーみたいなものが同時に発せられている感触があった。


 そのとき感じたのは、小宮有紗さん一人のパフォーマンスのことだけではなかった。
 それまで前方ステージを観ていたわたしは、ステージの上のAqoursだけを観ていた。いわば、「ステージの上」という枠のなかのライブを観ていた。
 それが、後ろを振り向いて、遠くのほう、ライブ会場の中心で宙に浮くようにしている小宮さんを、その周囲の情景全てとともに視界に入れたことで、それまでの枠が取り払われたのだった。わたしはそのとき、このライブそのもの――演者と、観客と、スタッフと、会場、それら全部――をまるごと体感したように思った。これがライブなんだ、なんてすごいことをしているんだ、なんて楽しいんだ、と。
 銀河の中で誰かを探す壮大な歌詞のイメージが、わたしの感じた「ライブそのもの」の感覚に重なった。
 わたしはその感覚に驚いて、ちょっとだけ、はは、みたいな乾いた笑い声を出していたような気がする。頭のなかで、なんてこった、と呟いた。一瞬だけ、小宮さんの背中を追うのをやめて、ホールの天井に視点をあわせて、より俯瞰的な感覚を持てないか試したりもした。


 熱狂的なライブにおいてはこうしたことはありがちなのだろうと思う。しかしありふれていようがなんだろうがかまわない。わたしは一昨日の夜、その感覚を感じてとにかくすばらしく楽しかったのだし、それを感じさせてくれたのはわたしの大好きな小宮有紗さんであり、黒澤ダイヤさんであり、AZALEAでありAqoursだった。そのこと以外に大事なことなんてありえない。


 『GALAXY HidE and SeeK』、小宮さん/黒澤さんのソロパートが終わるまで、彼女はずっとホールの後方を向いたままだった。わたしはずっとその後ろ姿を観ていた。ホール前方に設えられたディスプレイには、彼女を正面からとらえた映像が映し出されていたはずだ。それを観ればよかったとも少し思う。
 でもわたしは観なかった。その人が、ただ一人でホールの真ん中の虚空に立って歌っている姿を観ているべきなのだ、という気持ちがあった。
 演出された虚構のものとはいえ、そこに孤独の声を聴いたのだから、わたしは同じく孤独に(背中しか見えないという断絶された状態で)その表現を受け取るべきだと思ったのだった。
 もっと雑に言うと、ただ単に、小宮さんがこんな一所懸命に歌っているんだ、正面から聴くしかねえじゃねえかよ、みたいな気持ちだったのかもしれない。
 美しいものを見、聴いている喜びと、そこに永遠に手がとどかない辛さの両方を感じて、でもそれらぜんぶがとにかく楽しい、という感じがしていた。


 いまこうして、あの瞬間を思い返していると、小宮さんが孤独に歌を歌っているときにわたしが感じたあの感覚が、ライブ全体の記憶のはしばしに響いていくような気がする。Aqoursの9人があんなに仲良く、そしてたくさんの観客が一緒に、心底楽しい時間を過ごしたときのことなのだから、そんな感覚は間違っているようにも思うのだけど。


 伊波杏樹さんは、アンコール後の最後のあいさつで、2016年1月に行われたファーストシングル発売記念イベントの際に、Aqoursが受け入れられるかどうか不安を感じていたことを述べたうえで、「でもこの会場に来ている人たちはAqoursが大好きなんでしょ?!」*1と言った。端的に言えば、孤独のなかにあった彼女が、いまやライブ会場につめかける(そして会場に入れなかったより多くの)ファンたちからの歓声によって孤独から脱している、ということだ。
 そうなのだ、Aqoursもまた孤独だったのだ。文字にしてしまえば陳腐だ。複数のメディアで大きく扱われる、メジャーなアイドルグループが孤独?そんなばかな、と思う人もいるだろう。でも、ライブのステージ上で歌い踊るAqoursの9人は、『GALAXY HidE and SeeK』を一人で歌う小宮さんと同様に、巨大なライブ会場全体を相手に、自分の身体ひとつで戦っていた。周りにどんなにたくさんの仲間がいようと、背景にどんなに大きな企業の支えがあろうと、それでもやはりそれは孤独な戦いのはずだ。わたしはライブを観たとき、そのことを強く感じた。
 順番にソロパートを歌い継いでいくときの緊張や、照明の落ちたステージ上で行われる移動の身のこなし、あらかじめ練られたトークの言葉づかいを間違えたときにのぞく、ざっくばらんとした表情*2。やはりそこにいるのはただのひとりの人なのだ。ステージ直近の席ゆえに余計に微細に見えてしまうさまざまな風景を前にして、わたしは強くそう思った。


 『ラブライブ!サンシャイン!!』のアニメ一期は、Aqoursがそれまで獲得できなかったたった一人の人間の心を動かすところで終わる。その作劇を、一人が動いたところでどうしようもないじゃないか、と批判する視聴者もいる。気持ちはわからないではないが、今ははっきりとその意見を否定したいと思う。どんなことでもすべては一人からはじまる。Aqoursも一人が集まって9人になるのだし、一昨日の晩、神戸のワールド記念ホールに集まったのも、それぞれ全く異なる人間ひとりが八千集まった結果である。その一人をこそ大事に描いた『ラブライブ!サンシャイン!!』のAqoursだからこそ、あのようなライブになったのではないかとわたしは思う。


 ライブの終盤、アンコールパートが始まる際に流れるアニメーションでは、次のような物語が描かれる。
 Aqoursは『Happy Party Train』のプロモーションビデオで描かれたファンタジックな鉄道に乗って、次のツアー開催地へと出発しようとする。しかし列車の燃料がない。自分たちの力だけではどうしようもない、とAqoursは会場の観客に助けを求める。力を貸して、一緒に「Aqours」と声をあげて、と。これを受けて実際に会場の観客が叫ぶ。何度も何度も、嬉しそうに「Aqours」と叫ぶ。
 よく考えればこれは奇妙なことだ。なぜなら、観客が力を貸せば、Aqoursは次の会場へ向かってしまうのだ。ファンならずっと自分たちの目の前にAqoursがいてくれたほうがいいだろう。Aqoursが去れば、ふたたびわたしたちは孤独な日常に戻らざるを得ない。
 しかしファンは叫ぶ。次の会場へ、大喜びでAqoursを送り出す。
 Aqoursが、次の会場で待っている孤独な誰かを見出すために。あるいは、次の会場に満ちたたくさんのファンたちが、Aqoursを孤独から引き上げるために。


 出発の準備を整えたAqoursは、アンコールパートのパフォーマンスを開始する。わたしはその姿を、喜びと悲しみの両方を抱えて観る。こんなにも悲しいのだからAqoursはすばらしいのだし、こんなにも楽しいのからAqoursはすばらしいのだ。そのようにして、Aqoursの輝きはまったく違う方向から証明される。
 そういえば、アンコールアニメの最後、次の会場へ出発する前にここでの最後のパフォーマンスをしよう、と言ってくれるのは、他でもない黒澤ダイヤだった。わたしはそのことも、ひどく嬉しかったのだった。

 

 

 


【試聴動画】ラブライブ!サンシャイン!!TVアニメBlu-ray特装限定版ソフマップ全巻購入特典「LONELY TUNING」(歌:AZALEA)

*わたしが見た公演では歌われなかったのですが、この記事はほとんどずっと『LONELY TUNING』を聴きながら書きました。

*1:この部分に限らず、本記事で書いたことはすべてわたしの記憶にもとづくため、実際の発言や演出と異なる可能性が大いにある。ただし大意が変わらないように、可能な限りの注意を払ってはいる。

*2:小宮有紗さんが『青空Jumping Heart』について話しているとき、「みんな(Aqoursの9人)でいろいろな場所で歌い踊ってきた蓄積を、みなさん(ファン)の前で披露できたことを嬉しく思う」と言おうとしたとき、「みんな」と「みなさん」を言い間違えたときのあの感じ。たまらなく魅力的だった。

「みんな」とは誰か/『ラブライブ!』をめぐる人たちのことについて

 すごくめんどうくさい話をします。


 「みんなで叶える物語」。
 この言葉は、2010年、雑誌『電撃G's Magazine』に掲載された『ラブライブ!』の最初の記事の見出しとして用いられました。
 以来この言葉は、作品の中はもちろん、作品の外で、作品のテーマや、娯楽の商品としての特性が語られるときにも何度も何度も繰り返し口にされてきました。
 しかし、「みんな」とはいったい誰であったのでしょうか?


 μ'sの最初のシングルCD『僕らのLIVE 君とのLIFE』が当初数百枚しか売れなかった、というエピソードは有名です。その当時、「みんな」はそれしかいなかった。
 でもわたしは時々、その状況をうらやましく思います。その程度の少数であれば、「みんな」として一つになれたかもしれない、と。
 まだμ'sというグループ名すら存在しない段階で、あの9人の輝きを信じることのできた人々。まだメディア展開も少なく、雑誌誌上で公開されたキャラクター設定の要素も限られています。そのような状態なら、まだ『ラブライブ!』という作品は複雑な表情を見せていなかったでしょうし、受け取る側の受容の幅も狭くて済んだのではないか。
 本当のところはわかりません。でも、もしかしたら、ただ「『ラブライブ!』という作品が好き」というシンプルな共通項で繋がった「みんな」が存在しえたんじゃないか。憧れと寂しさとともに、わたしはそういうことを空想します。


 『ラブライブ!』のアニメが放映されたのは、雑誌掲載から二年以上の時間を経た2013年のことでした。
 恐らくは、ここで最初のおおきな「みんな」の分裂が起きた。雑誌誌上で公野櫻子の筆によって描かれてきたμ'sと、アニメで京極尚彦が描いたμ'sとの二つのμ'sが生じることになったからです。
 両方のμ'sを受け入れる人、公野版しか受け入れられない人、京極版しか知らない人…。
 そして同年、ゲーム『スクールアイドルフェスティバル』(スクフェス)の配信が始まります。『ラブライブ!』の本格的なメディアミックスの展開です。アニメから入った人、ゲームから入った人、色々な入り口から『ラブライブ!』に触れる人が生じていった*1

 それでも2013年はまだ『ラブライブ!』というコンテンツ全体が、成長途中の段階にあったように思います。アニメ放映中に秋葉原でゲリラライブを開催するなど、アグレッシブにファンを獲得していく、話題を作っていこうとする雰囲気があった。ライブも一年に二度行われています。作り手たちが逆境を乗り越えようと奮闘し、熱心なファンが口コミでその魅力を伝えていく、そういう「みんな」の一体感があったのではないか。


 そして2014年。さいたまスーパーアリーナで4回目のライブが開催されます。稀にみる悪天候のなかライブが開催され、それでもつめかけるラブライバーたちの様子が大きな話題になった。
 あの、関東が雪に覆われた週末、わたしは映画館に『アイドルマスター』を観に行っていました。同じ劇場で、μ'sのライブのライブビューイングが行われていた。すっからかんになったグッズ売り場を見て、「うわ、すげえなライバーはww」というような、呆れと尊敬と嘲笑のまざった感想を口にした記憶があります。嘲笑されるべきは、当時何度も『ラブライブ!』という作品に触れうる機会を持ちながらも見逃し続けていたわたし自身だったのですが。


 話がそれました。
 外側から見ると、あの4回目のライブの成功は『ラブライブ!』という作品の一つの達成だったのですが、同時に、「みんな」の分裂はいっそう進んでいたようです。人気が沸騰し多くのファンがチケットを入手できない一方で、チケットの付録限定の楽曲が製作され、会場で披露された。会場にいる「みんな」と、そうでない「みんな」の間に、作品のほうが線を引いてしまった。


 そしてアニメ二期の放映が始まります。アニメ一期は好きだけど二期は嫌い、とする人は一定数存在します。ここでまた「みんな」が分裂していく一方で、沸騰する人気を聞いて、二期から『ラブライブ!』に触れる人も非常に多かった。わたしはその一人です。アニメ放映と同時期にスクフェスの人気も爆発しました。明けて2015年の映画公開前後には、街中でゲームを遊ぶ人をしょっちゅう見かけたものでした。わかりやすいおたくではなく、高坂穂乃果たちと同世代の女性が非常に多かった。
 2015年の映画公開と大ヒット、そして年末の紅白出場から2016年のファイナルライブにかけての時期は、「みんな」の総数が最も大きかったのではないでしょうか。紅白に向けてNHKで特集番組やアニメが放映され、作品に触れる機会も手段も国民的になった。


 そんななかで始まったのが『ラブライブ!サンシャイン!!』です。
 最初の雑誌記事の見出しこそ「助けてラブライブ!」であり、「みんな」を大きくうたうものではなかったけれど、当然のように『サンシャイン!!』にも「みんな」の概念は引き継がれました。映画『ラブライブ! The School Idol Movie』においてμ'sが全国のスクールアイドルと一緒にイベントを行ったことをなぞるように、『サンシャイン』とAqoursはμ'sの精神を引き継ごうとする。
 それに賛同するものもいれば、μ'sのファイナルライブを期に、『ラブライブ!』から離れていく人もいた。


 μ'sファンの「みんな」は、『サンシャイン』を応援すべきなのか否か。その問題が最も「みんな」の間に複数の、深い分断を生じさせたのは、『サンシャイン』アニメ一期の放映時期であったように思います。週を重ねるごとに、劇中でμ'sが言及されるごとに、あるいはされないで物語が展開されるごとに、「みんな」は動揺した。
 同時に、『サンシャイン』においても『ラブライブ!』と同様に、公野版とアニメ版との差異を受けて作品から離れてしまう人も生じました。
 メディアミックス作品は、他メディアに展開するごとに新たなファンを獲得しますが、同時に取りこぼされるファンもいるのです。


 『サンシャイン』のメディアミックス展開において最も重要なメディアはおそらく、沼津という、作品の舞台そのものです。
 アニメも雑誌も目にしたことがなくても、沼津の街に展開されるイベントや宣伝物、ファンの振る舞いを通じて『サンシャイン』に触れる人は多数いるはずです。それはもはや一つのメディアといっていい。
 そして、生きた街と人が媒介になったとき、作品が受容される振れ幅は爆発的に広がる。様々な価値観の人が、思いもよらない方法で、作品と切り結ぶ。表現する。沼津に関するネット上の言説には常に批判と賛同が入り乱れて混沌としています。沼津における物事や人をめぐって、「みんな」は毎日のように右往左往している。


 アニメの放映終了から数ヶ月後、Aqoursは初のライブを開催しました。あのライブの演出方針の一つには、アニメで描かれたAqoursの物語をなぞり、増強する目的があったように思います。
 生身のAqoursたちが自身の物語を解釈し演じ直すことで、受け手に「これがこの物語のあり方ですよ」という一つの模範解答を与えた。これによって、放映時に特に物議を醸した13話を中心に、アニメへの再評価が高まりました。アニメで分断された「みんな」は、再び一つに戻った――と言ってもいいかもしれない。


 さてさて、そして今日は2017年8月5日です。
 Aqoursセカンドライブ――しかも今度はライブツアー――が始まる。
 なぜこのタイミングでいまさら「みんな」のことを考え直したくなったのか。いやいつだってわたしは「みんな」について考えたかったのです。だってもしそれが現実では成立しえない幻だとしたって、物語のなかの高坂穂乃果は「みんな」の物語を叶えたし、秋葉原で『Sunny Day Song』を歌い踊ったスクールアイドルは「われわれはひとつ」*2という気持ちを共有できた。
 そういう物語を愛している「みんな」がなぜ一つになれないのか。無茶な考え方だとはわかっているけれど、そう思ってしまわざるを得ないのです。でも現実として「みんな」はバラバラです。じゃあいつバラバラになったのか。そもそも一つの「みんな」なんて存在したことがあったのか。これから存在することはありえるのか。Aqoursのライブで、「みんな」は一つの「みんな」になれるのか?わたしは、あるいはわたしの隣の席のあなたは、あるいはSNSのタイムライン上のあなたは、一つの「みんな」になれるだろうか?


 当然答えはありません。
 答えがないからわたしは『ラブライブ!』という作品に惹かれるのだし、現実には不可能なことを叶えた高坂穂乃果なり、叶えようとする高海千歌に惹かれる。
 でも答えが出ないからといって、その問いが無駄なものだという道理はないでしょう。


 わたしはこれからも「みんな」のことを考え続けると思います。めんどうくさいけど。

 

 

2017/08/10追記:

 @694628 さんが本記事に対する長い感想をツイッター・ブログにて寄せてくれました。特にブログでの、「みんな」をより広くとらえようとする考え方には、わたしの記事にない視点と思考があります。ツイッターでの感想に対しては、反発する旨のリプライをしていますが、ブログでまとめられている694628さんの考え方は、わたしの悩んでいることへの一つの解答を示してくれているとも思います。何より、「みんな」についてうだうだ言っているわたしへの(賛同できない部分があるとしたうえで)共感を少しでも示していただけたことがとても嬉しかったのです。

 ぜひあわせてお読みください。

694628 on Twitter: "てぎ様(@tegit) 作
「みんな」とは誰か/『ラブライブ!』をめぐる人たちのことについて - こづかい三万円の日々 感想 https://t.co/EUlNzdhfjy"

 

「みんな」とは誰か/『ラブライブ!』をめぐる人たちのことについて 感想 再考 - 🐦

*1:もちろんそれまでも他のメディアや他作品、あるいは声優の個人活動などを通して「みんな」の行き来はあったでしょうが、最初の大きなインパクトはこのタイミングだったと思います。

*2:統堂英玲奈、大好き。

『六月生まれのスクールアイドル』

 六月に生まれた二人のスクールアイドルのことを思って書きました。


『六月生まれのスクールアイドル』

■六月九日

 理事長室の扉を開いたとき、鞠莉は机に座って窓の外を眺めていた。
 手元には何かの資料らしき紙の束があった。右の手でその開いたページを押さえて、鞠莉は遠くを見ている。
「いやな季節ね」
 こちらを見ないで鞠莉は言った。
「空と海の境がわからないの」
 まだ梅雨は始まっていない。空は果なく続く灰色の雲に覆われていた。今夜は降るかもしれない。
「来週の、この」
 私は手元のオフホワイトの封筒を振って、
「ご招待は残念ながら受けられませんわ」
 鞠莉は黙っていた。
 指が少しだけ動いて、資料の紙がかさりとこすれた。
 ぐるん、と椅子を派手に回して鞠莉はこちらに向き直る。
「ちょっと見てよー、ダイヤ」
 急激にオーバーになる身振り。高くなる声。
「これさー、今日会社の人が持ってきたの。まったくオオギョウな」
 資料をくるりと手元で回し、私のほうから字が読めるようにする。
 『浦の星女学院 再生案』という見出しが目に入った。
「まず間違いなくお母様の差し金。会社の人達が慌てて作ったのがバレバレよ。悪くないけど、肩に力が入りすぎ」
 ほら見て、と鞠莉は資料を差し出す。私はざっと目を通す。
 前半は、昨年度までの浦の星女学院の概要をまとめている。周辺地域の十五歳人口は下がる一方。教職員は高齢化し、施設は老朽化、後援会の所属人数も減っていく。通学のための交通機関も存続が危うい。
 私たちが三年になるまで学校が続いたことが、不思議に思えてくるくらいの状況。
 後半では、そんな浦の星のどこに資本を使い、入学希望者を増やすかが語られる。資料の作成者たちが選んだのは、全寮制で世界標準のハイレベルな教育を得られるハイパーエリート校に生まれ変わらせる、という方策だ。ITや語学など、特定の教育分野に集中してお金と人をつぎ込むことで、地方にあっても全国から優秀な生徒を集めることに成功したいくつもの事例が紹介されている。
「でも、わたしがしたいのはそういうことじゃないんだよね~」
 鞠莉は両の手のひらをあげて、お手上げ、というポーズを作ってみせる。
「国中から生徒が集まるようなエリートの学校になったら、名家の気弱な次女だとか、隣町の中学校にいづらくなった不思議ちゃんが出会えるような学校じゃなくなっちゃうじゃない」
 名前をあげずとも、つい最近、この学校で素敵な出会いを果たした後輩たちの話をしていることがわかる。
 私は頭のなかで鞠莉の言葉に付け足す。あるいは、地元の零細ダイバーズショップの娘と、世界的なホテルグループのお嬢様が、一緒に通えるような学校でもなくなる。
「世界、日本、東海地方、そんな大きなスケールは考えない。沼津で、みんなが行きたいなって思える学校にする。そのためのスクールアイドル。この戦略は、間違っていないとわたしはおもう。
 こっちにだって成功事例はあるんだから」
 こんなの余計なのよ、言いながら資料を閉じて、ばさん、と乱暴に引き出しに放り込む。
「十三日のことだってさ」
 学校の話――ビジネスの話――の延長のように鞠莉は言う。
「私ももっと慎ましくお祝いしてもらいたかったのよ? なのにお父様ったら、最近建てた品川の新しいホテルを会場に決めちゃって。
 海外VIP向けのゴージャスなペントハウスなんですって。そりゃ仕事関連の人のウケはいいでしょうけど、品川じゃあ内浦のみんなも来れないよね」
 私は自分の用事に話が戻ったのを幸いに、言葉を引き取る。
「ええ、ごめんなさい。私も行けそうにありません」
「わかってるわかってる。気にしないで~」
 くるりと椅子を再び回す。窓を見て、
「曜ちゃんの誕生日、楽しそうだったわね~。四月のさ。ダイヤも見たでしょ? Aqoursのブログ」
 渡辺曜の誕生日は四月十七日だった。
 まだその時点では、浦の星女学院に新たに作られたスクールアイドルグループ・Aqoursは、二年生の三人だけだった。残りの二人、高海千歌桜内梨子は、放課後、千歌の家でお祝いをしてあげたそうだ。手作りのケーキ、慎ましいけれど心のこもったプレゼント。笑顔の三人を写した写真が何枚か、ブログにアップされていた。
「ほほえましかったですね」
「部屋の飾りつけ、曜ちゃんが海好きだからって大漁旗を使うのは正直ないよね~」
「でも、渡辺さん、とても嬉しそうでしたわ」
「けっきょく三人でお泊りしちゃったんでしょ? まったく、まるで――」
 まるで。
 鞠莉はそのまま、黙ってしまう。私も何も言わない。何と言いかけたか、訊かずともよくわかったからだ。
 まるで私たちみたい。
 ――二年前、私たちも同じことをした。
 鞠莉の誕生日、六月十三日に、何日も前から私と果南は用意周到に準備を進めた。果南が自分でケーキを作ると言い出して、松月のお姉さんにレシピを教えてもらったにも関わらず、クリームは甘すぎたしスポンジケーキは焦げていた(オーブンの温度調整を間違えたのは私だ)。
 それでも鞠莉は喜んでくれた。涙をこぼしそうにしながら。
 あの夜、彼女は言った。私はいつまでも二人と一緒にいたい。二人と一緒にスクールアイドルをがんばって、浦の星女学院がいつまでも続くようにする。何年も何年も先の後輩たちが、私たちみたいな素敵な学校生活を送れるように。
「そういえばさ、ダイヤ」
 遠い昔の記憶にとらわれて、何も言えないでいた私に、鞠莉は理事長席の向こうから訊ねた。
「μ'sってバースデイイベントのたぐいはしていたのかしら」
「――確か、矢澤にこの誕生日から行うようになったはずです。彼女は七月の生まれでしたから、μ'sが九人揃って初めて行った校内ライブと近いタイミングで、ちょうどよかったのでしょう」
 それじゃあ――と鞠莉は机の上の手帳をめくった。
「一年の津島善子ちゃんが来月の生まれね。ナイスタイミング!スケジュールに組み込んでおくよう、千歌に言っておかなくちゃ」
「μ'sをお手本にしているのですね」
「まあね。成功する人達にはそれなりの理由がある。もちろんμ'sとわたしたちは別人だけど、いいところは真似して損はないはずだよ」
「それはそうかもしれませんけど。でも、スクールアイドルとして人の心をつかむには、誰かの真似ばかりでは――」
「さっきのレポートの後半、見たでしょう? たくさんの成功事例。人を説得するには、先に成功した見本が必要なの。お金や決断できる権利を持っている人に、『こんなにうまくいっているんですからあなたも安心して』、そう言って説得するのよ。そういう意味でも、μ'sは「使える」」
 さきほど資料を投げ込んだ引き出しから、別のファイルを取り出してみせる。高坂穂乃果を始めとしたμ'sのプロフィール、大まかな活動の履歴。
「ダイヤほどじゃないけど、わたしなりに真面目に色々調べてもいるのよ。μ'sはどんな人たちで、どんなふうに活動していたのか。そこを考えていけば、μ'sみたいに人気を獲得できるはず。前は、ダイヤと果南に言われたとおりやっていればよかったけど、今は違うから」
 μ'sをビジネスの道具みたいに扱わないで、そう言いかけた私は、鞠莉の皮肉めいた言葉に口をつむぐしかない。
「あら、今日は誰かの誕生日だったみたい。ええと……ヒガシ……」
「とうじょうのぞみ」
「ふむふむ、この人も三年ね。七月、アヤセエリにつづいて最後に加入、と」
 顔をあげて、私に屈託のない笑顔を向ける。
「ほらね。二年、一年、最後に三年生。Aqoursもμ'sと同じ」
 ――そうだ、この人はあくまで、自分もAqoursに戻るつもりなんだ。
 たぶん、果南も私も戻ると思っている。さきほど、彼女がAqoursのことを「わたしたち」と呼んでいたことを思い出す。
「お手本の希さんも、誕生日はまだ一人だったのね。なら、わたしもだいじょうぶ」
 でしょ?
 鞠莉は私の顔を、見上げるように覗き込む。目と目が合う。
 笑顔だけれど、彼女が私に何を求めているのか、私にはわからなかった。
 私は必死に、何か、言葉を口にするための勇気を自分の中に探す。
「……なんてね!」
 おどけて言って、鞠莉は目をそらした。
「大丈夫よダイヤ、Aqoursはきっとμ'sみたいになれる」
 つぶやいて、くるりと椅子を向こうへ回す。
「十三日のこと、わざわざどうも」
 会話は終わり。そういう響きの言葉だった。
「どういたしまして」
 私は頭を軽く下げた。そのまま身をかえして、部屋を出る。
 扉を閉めるときまで、鞠莉はそのままの姿勢でいた。視線は窓の外のまま。
 窓は淡島の方向に向いていた。


■六月十三日

<二〇一三年七月 μ's 第三回学内ライブ/撮影者:同級生有志>

(中規模の教室。黒板にチョークで、ライブタイトルやイラストがカラフルに描かれている。その手前、教壇や机を移動して開けた空間がステージのかわりだ。楽曲のアウトロが終わり、決めポーズをとったμ'sの九人がほっとした表情でもとの姿勢に戻る。盛んな拍手と歓声が客席から投げかけられる。特に、絢瀬絵里を対象とした歓声が目立つ)
高坂穂乃果、ステージ中央に進み出てくる)
穂乃果「絵里ちゃん人気、すごいね……」
(穂乃果の後ろで、ありがとね、と小さく言って絢瀬絵里が手を振る。再び歓声)
穂乃果「ではここで、本日二つ目のスペシャルコーナーです!先ほどは、七月生まれの矢澤にこちゃんのお誕生日をみんなでお祝いしたわけですけれども!」
矢澤にこ「やーん、みんなありがとー!!にこ、まだ感動で泣いちゃいそうで~す」(矢澤にこ、笑顔を振りまきながら穂乃果の横に並ぶ)
(会場笑う)
にこ「笑うところじゃないにこー」
穂乃果「ま、まあまあ……でも、私たちがこうして九人になる前に、誕生日が終わってしまったメンバーがいるんです!」
にこ「そんな、にこ、誕生日をお祝いされないかわいそうな子がいるなんて耐えられないよ~!」
穂乃果「というわけで!再びのサプライズ!!六月九日生まれの東條希ちゃん、おめでとうございまーす!!」
(カメラ、東條希に寄る。驚いた表情の希)
希「ふぇっ、う、うち?」
にこ「一ヶ月遅れちゃったけど、みんなでお祝いしてあげる!」
希「え、ええんよ、うちはそんな、だって先月のことやし、うちはμ'sに入ったばかりなんやし」
穂乃果「いいからいいから!」
にこ「そうそう、素直に祝われなさーい」
(でも、と渋る希に、脇から西木野真姫が声をかける)
真姫「早くしなさいよ。あなたが祝われなきゃ、四月生まれの私も祝われないでしょ」
にこ「ちょっとあんた、なんでこの後の段取り知ってるのよ」
真姫「だってさっき、穂乃果さんが、私たちのプレゼントを用意してるの見ちゃったから」
にこ「な、なんですって~」
穂乃果「ご、ごめんね……」
(客席笑う)
穂乃果「このサプライズアイディアはにこちゃん発案なんだ。自分も祝われる側なのに、真姫ちゃんと希ちゃんの誕生日を私に教えて、二人も祝われなきゃいやだ、って」
希「にこっち……」
絵里「意外と優しいのね」
にこ「そ、そういう舞台裏はいいから!ほら穂乃果、進めなさいよ!」
穂乃果「は、はい!えーと、改めて、六月九日生まれの希ちゃん、そして四月十九日生まれの西木野真姫ちゃんをお祝いしたいと思います!」
にこ「ほら、ふたりとも、こっちこっち」
西木野真姫、ありがとうございます、と言って前に進み出る)
穂乃果「希ちゃんもほらほら、前に来て」
(絵里、希の背中を押す)
希「もー、えりちまで」
(希、真姫の横に立つ。かしこまった表情、少しだけ背中が小さくなっている。
 穂乃果が二人に向かって話し始める)
穂乃果「真姫ちゃんも希ちゃんも、誕生日からだいぶ経っちゃったけど……でも私、ちゃんと伝えたかったんです。こうやって、同じ学校に来て、スクールアイドルになってくれて、歌を、ダンスを一緒にやっている仲間に。大好きな仲間に、おめでとうって言いたかったんだ!!
 だってわたし、真姫ちゃんも希ちゃんも、大好きだもん!」
(わあっ、と一際大きく客席がわく。
 拍手と歓声のなか、舞台袖に隠してあったプレゼントボックスを、園田海未南ことりが持ってくる。真姫と希にボックスを渡す二人。ピンクと紫に飾り付けられた箱を抱えた真姫と希に、客席から更に大きな拍手が送られる)
真姫「あ、あの、ありがとうございます」
希「穂乃果ちゃん、にこっち、みんな、ありがとう……」
海未「希さんに喜んでもらえてうれしいです。みんな、あなたのことが大好きなんですから」
ことり「真姫ちゃんのことも、にこちゃんのこともね。好きな人の誕生日をお祝いしたいって思うのは、当然だよ!」
真姫「ふぁっ、ちょっとあんた、何泣いてるのよ」
(希、目元をぬぐう)
凛「あっ、真姫ちゃんも目が赤くなってきたにゃー」
真姫「泣いてないし!」
花陽「もらい泣きしちゃうよお……」
凛「か、かよちんも!?」
穂乃果「それでは会場のみなさんもご一緒に!」
(ハッピー・バースデイ・トゥ・ユー、とμ'sが歌い出す。客席が続く。希と真姫、目と顔を少し赤くしながら、歌に加わる)
「「「ハッピー・バースデイ・ディア・希ちゃんと真姫ちゃん! ハッピー・バースデイ・トゥ・ユー!!!」」」
穂乃果「にこちゃん、希ちゃん、真姫ちゃん、」
(全員が息をあわせる。全員が笑顔でいる)
「「「誕生日、おめでとう!!!」」」

 

♪♪♪

 

 私は動画サイトの一時停止ボタンを押す。
 あと十五分で日付が変わる。六月十四日になる。
 照明を落として、机上のランプだけが灯る自分の部屋で、タブレットPCの中のμ'sの笑顔を私は見つめている。数年前の彼女たちの、誕生日おめでとうという声の残響が、頭のなかで繰り返されている。
 今日、六月十三日、品川で小原鞠莉のバースデイパーティが行われているころ、私は父と勉強会に参加していた。父の知己の大学教授を囲んで、父と同じ党派の市会議員数名を筆頭に、沼津や近隣の自治体や地元企業から、百名ほどが集まった。参加者はせいぜい若くても大学生で、私は最年少だったろう。
 勉強会に誘ってくれたのは父だ。先生の専門は経済学だけれど、地方の教育についても造詣が深いんだ。ダイヤの学校のことを考えるヒントもあるかもしれない。そう聞いた私は喜び勇んで同行を申し出たのだけれど、大学教授の講演と意見交換の二時間ほど、私は話についていくだけで必死だった。話の早さと言葉の密度は、私がそれまで接したことのないものだった。できうるかぎりの事柄をノートに書き取ったけれど、様々な知識や経験を前提とし、冗談と建前と本気が入り混じった意見交換の時間はほぼお手上げだった。そこに軽々とついていき、むしろ場の空気を支配している父の姿を見て、私は自分の家を現代まで持続させてきた人達の優秀さを思い知った。
 会のあと、熱を帯びた頭を持て余している私を見て父は、打ち上げには参加せず家に帰りなさい、と笑った。残念ながら主賓のはずの先生も東京へとんぼ返りだそうだ。外の人がいないと、打ち上げは少々乱れるからね、そう言って父は、会場の一角に群れた大人たちのほうへ去っていった。
 会場のコミュニティセンターの外でタクシーを待っていると、背後から声をかけられた。講演をした大学教授だった。会の前に自己紹介を済ませていたが、私は改めて自分の立場と、今日の講演の感想を告げた。
「まだ高校生なのにずいぶんしっかりしていますね。黒澤さんといい小原さんといい、沼津の名家の娘さんは度胸がすわっている」
 突然予想もしていなかった名前に驚いている私に、
「もともと、黒澤さんとは小原さんのご紹介で知り合ったんですよ。最初に沼津に来た時は、淡島のホテルにお世話になったし」
 あの夜は楽しかったなあ、三人でバーで遅くまで飲んでね、と教授は朗らかに笑った。
「つい先日も、観光関係のフォーラムで小原さんと娘さんにばったりお会いしましたよ。高級旅客鉄道の事例紹介を聞きに来た、と仰っていたな。娘さん、最近留学から戻られたんでしょう?」
「ええ、アメリカに一年半。あちらにお住まいのお母さまと暮らしていたそうです」
「日米間で、優秀な娘さんの取り合いだね。そういえば小原さん、珍しく娘さんにわがままを言われたなんてぼやいていたけど」
「わがまま、ですか」
「ええ。彼女の誕生日パーティの会場に、真新しいホテルのペントハウスを確保させられた、なんてね。そうそう、今日だったはずですよ。私も誘っていただいたんですが、こちらの約束が先にあったから、お断りしたのだった」
 大学教授は、私がそのパーティの場ではなく沼津にいることに気づいて、怪訝そうな顔をした。彼を迎えに来たタクシーがちょうど現れて、気まずくなりかけた空気は消えた。彼を乗せたタクシーが去り、私は夜の暗闇のなかに一人残された。
 灯りの少ない沼津の夜の風景にふさわしく、私の心は暗かった。
 品川でパーティをしたのは、親の意向ではなかった。鞠莉が自ら、内浦から遠く離れたところを会場にしたのだ。
 品川なら、内浦の人々が一人も来なくても――大人はともかく、同級生ならなおさら――言い訳がたつ。わがままな娘のふりをしてまで、鞠莉は彼女の誕生日を素直に祝えない私と果南から距離を置いた。離れてさえいれば、祝福されなくても自分は傷つかないし、私たちが気に病むこともないから。
 そういうことだ。
 先週鞠莉と話したとき、その可能性に思い至らなかった自分が不甲斐なかった。そして何より、勉強会に熱中した自分が、今日が鞠莉の誕生日であることを忘れていたことに、私は強く幻滅した。
 いま、自分の部屋の暗闇のなかで、私はもう一度時計を見る。あと10分で今日が終わる。
 タブレットのなかのμ'sのみんなが、「おめでとう」と声を張り上げたままの姿勢と表情で静止している。
 私も口にしてみる。
「おめでとう」
 その声が思っていたより大きく部屋に響く。もう一度繰り返す。
「おめでとう、鞠莉さん」
 名前を口にして、胸の奥に、きゅ、とつぼまる苦しさが芽生えた。
 ――途端に後悔が襲ってきた。
 なぜこの言葉を直接言わなかったのだろう。
 いや、言えないような状況に、なぜわたしたちはいるのだろう。
 やりきれなくて、私はタブレットの画面を指で弾いた。また動画が再生される。流れるμ'sの賑やかな声。
 おめでとうとありがとうが行き交うステージを、カメラはズームアップする。祝われている三人が順に大写しになる。満足そうなにこちゃん。照れながらも、脇の凛ちゃんと花陽ちゃんにありがとね、と小さく伝える真姫ちゃん。
 希ちゃんは黙って、胸元にかかえた大きなプレゼントボックスを、見つめていた。
 目が潤んでいた。眉間に少しだけ力が入って、困っているような、自分で自分を持て余すような笑顔だった。カメラが移動する直前、彼女は両の腕で、もう一度、ぎゅっとプレゼントボックスを抱きしめた。
 私はタブレットを置いて、スマートフォンを取り上げる。
 メッセージアプリを開く。
 画面をスクロールする。一昨年の夏からずっと、一度も言葉のやり取りがなかったメッセージグループを開く。果南と鞠莉と私の、二年間ずっと空白だった場所。
 希ちゃんの顔を見て私は思い知った。私は言うべきだ。何かを。言葉を。おめでとうという言葉は、その言葉で伝わった気持ちは、誰かを幸せにできる。希ちゃんの表情が絶対の証拠だ。
 あんな顔を見たあとで、言わないでいるなんてできない。
「鞠莉さん、誕生日おめでとう」
 テキストを打ち込む。送信する。二十三時五十五分。
 お願い、鞠莉、スマートフォンを見て。
 お願い、果南。
 二十三時五十八分。
 私のメッセージの横に、「既読」のマークがついた。
 続けて、「既読2」のマーク。
 二人が見てくれた。
 間に合ったんだ。
 放心している私の前で、画面が更新される。果南のメッセージ。「おめでとう」。
 鞠莉が入力中であることを示すアイコンが表示された。明滅するそれはしばらくのあいだ変わらない。鞠莉はきっと、どう返すか悩んでいる。二年ぶりに交わす言葉だ。私も何か言いたい。でも言えないでいる。
 ようやく鞠莉がメッセージを返してきたのは、日付が変わる前のさいごの数十秒のことだった。
「ありがとう」
 一言だけ。
 それだけだった。
 私と鞠莉と果南が、交わした言葉はそれだけだった。スマートフォンの画面のほとんどはまだ空白のまま。
 あと数秒で今日が終わる。スマートフォンの画面の端で、時計が、ゆっくりと残された時間をカウントしていく。
 けれども、これだけで十分だ、と私は思った。
 今日、とりあえず今日、この日は。
 今日はただそれだけで、私たちは十分幸せだった。

 

(おしまい)