3人はテレビゲーム仲間で、その後も数回、秋葉原を訪れたという。「楽しそうにゲームをしていた様子だけが印象に残っている。こんな事件を起こすなんて想像できなかった」。同級生の一人は語る。
http://www.yomiuri.co.jp/feature/20080608-2810266/fe_080611_01.htm?from=yoltop
「定価より高く売れるソフトもあった さすが秋葉原」
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080609/crm0806092317052-n1.htm
なぜ秋葉原だったのか。
職場でもなく、両親のいる実家でもなく、ネットのなかでもなく、なぜ、秋葉原なのか*1。
秋葉原と秋葉原が象徴するすべてのものを、加藤は憎んだのだろうか。
秋葉原に何度か足を運び、ゲームをし、メイド喫茶にも行き、そういう男が秋葉原で人を殺す、いわば秋葉原を全否定する行いに走った、ということがぼくにはいまだ受け止められない。
人を殺せば、それまでの生活は全てご破算だ。
ネットもゲームもアニメもマンガも同人誌も小説も映画もメイド喫茶もラブドールもコスプレも、すべて、すべて諦めなくてはいけなくなる(絶対そうなるとは言えないけれど、そうなる確率がかなり高くなる)。
初音ミクの新曲も聴けないんだよ? Perfumeの三人がはじける姿も目に出来ないんだよ? 『メタルギア・ソリッド4』も遊べないんだよ? ハルヒもらきすたも、エヴァも、ぜんぶぜんぶ、なにもかも!
おまえ、それでほんとうにいいのかよ。本当にそれら全部をあきらめてしまえるのかよ。お前にとって、アキハバラは/オタク文化はその程度のものだったのかよ?!
事件を起こす直前に、加藤は自身の持っていたゲームを秋葉原で売却し、更に同僚に譲り渡していたという。
その時にかれは迷わなかったのか。もう一度、それらのゲームで遊んでみたいと思わなかったのか*2。
思わなかったのだとしたら、それは、オタク文化のひとつの「敗北」だ。
加藤が抱える「絶望」に太刀打ちできなかったということだ。
オタク文化はかれの凶行を抑え留めるに足る魅力を発揮できなかったということだ。
……加藤は世に存在するすばらしいものを目にすることができなかったのだろう。
かれが秋葉原を憎んだのだとしたら、その憎しみを打ち消しうる秋葉原の美しさに、かれが気付けなかったというだけのことだろう。
しかし、やはり、たとえかれがどんなに視野狭窄だったとしても、オタク文化がその視界を開かせることができなかった、という絶望感をぬぐうことはできない。
かれの、われわれの、絶望をぬぐうものはどこにあるのか?
ぼくが――加藤と同い年で、かれと同じころに初めて秋葉原に行ったぼくが――秋葉原で初めて買ったのは『私立アキハバラ学園』*3というゲームだった。
「私立アキハバラ学園」なる学校へ通う男が、オタクたちに囲まれて恋にオタク稼業に奮闘するこの18禁ゲームのなかで、主人公の友人が語る次の言葉こそ、加藤と今回の事件へのひとつのカウンターになりえる、とぼくは思う。
寂しいからといって、周りを好きなモンで固めてるだけじゃあ、飽きがくるんだ! ほんとに寂しいときは、それじゃあ耐えられねえんだ!/ほんとに寂しいときは、何かを作るしかねえんだ/何かをつくる。それだけが、ただのオタクに過ぎない俺たちを、未来の世界に運んでくれる
「何かを作る」。
ゲームやマンガだけじゃない。人と人のつながり。日常。ヌルく、救いようがない人生でも、それでも楽しいと言える心。愛。
絶望して絶望して絶望しても、それを乗り越えることは可能なんだ、という証左。
加藤に見せつけてやろう。おまえがどんなに損をしたか、と。愚かな選択の結果、どんなにたくさんのすてきなものを失ったか、と。
まだ秋葉原は終わっていない。
まだオタクは終わっていない。
まだ、やれることはたくさん残っている。
*1:この問題に対する解答としては、id:heartless00さんの「秋葉殺人犯が殺したかったのはオタクでは?」(http://d.hatena.ne.jp/heartless00/20080610/1213066999)がもっとも頷ける内容だった
*2:id:geiinbashoku3さんは「結局サブカルチャーなんて、クソの役にも立たなかったわけだ」としている(http://d.hatena.ne.jp/geiinbashoku3/20080610/no_use)。自分のエントリを書き終わってから読んだ。確かにサブカルは役に立たなかった。だからこそ、まだやれるんだ、とぼくは思う。