こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

物語たち

 すでに人類の多くが死に絶えて、電力供給も電話回線も途絶えたなか、朝目を覚まし、限りなくバッテリーがゼロに近づいたスマートフォンを震える手で操作して、わたしはスクフェスを起動する。ブシモ、と大きく響くμ'sのだれかの声。『HEART to HEART』のイントロ。スキのちからで、と歌声が響き始める。しかし画面は、「通信エラーが発生しました リトライします」というメッセージを表示させたまま動かない。何度もリロードさせる。スマートフォンは永遠に次の画面を表示させない。

 

***

 

 『ザ・ウォーカー』という映画は、デンゼル・ワシントン演じる主人公が人間の死に絶えた街のなかで目を覚まし、大切に持ち歩いている携帯プレーヤーで音楽を聴く、というシーンではじまる。全体に粗いところも多い映画なのだけれども、そうした身につまされる終末描写が印象に残る。
 ソーシャルゲームをするようになって、その場面をたびたび思い出すようになった。しかしソーシャルゲームの場合、文明が滅びてしまえば、起動することすら難しくなる。おそらくは冒頭のように、オープニング画面以降に進むことすらできない。どんなにやりこんでシナリオを解放したとしても、物語はスマートフォンのなかに閉じ込められたままになる。


 わたしがソーシャルゲームの『アイドルコネクト -アスタリスクライブ-』を始めたのは、そのゲームがサービスを終えることが明らかにされてからだった。サービス開始から約三ヶ月しか経過していなかった。
 わたしは、あまりにも短すぎるサービス終了に悲鳴をあげているファンの声をTwitter上で眺めているうちに、どのような作品なのか自分の目で確かめてみたくなったのだった。要は野次馬根性である。
 サービス終了の当日、終了予定時刻の二十分前くらいに、最後にもう少しだけと思ってわたしは『アイドルコネクト』を起動した。基本はリズムゲームだけれども、アイドルの日常を描くシナリオのボリュームがやけに大きいゲームだった。とてもわたしは消化しきれず、まだかなりの未読シナリオを残していたのだった。
 ひとつのシナリオを読み終えて、もう残り数分しかなかったけれども、もうひとつのシナリオを読み始めた。少しずつ、アイドルたちの日常をわたしは信じ始めていた。彼女たちは虚構だったけれども、その虚構のなかで確かに生きているように思えていた。彼女たちの日常がずっと続いていくように思われた。
 そのシナリオを読み終えると、アプリはサーバとの通信ができなくなり、動きを止めた。わたしにとっての『アイドルコネクト』の物語はスマートフォンのなかに閉じ込められたままとなった。


 物語はいつか終わる。
 今年の4月、わたしにとってとても大切なふたつのグループが活動を終えた。Tridentとμ'sである。
 μ'sは映画の物語と同じくドーム公演を行い、Tridentはラストライブで全楽曲を歌いきった。いずれのグループも、その活動の最後にふさわしいかたちで幕を降ろした。やりきれない気持ちはあるけれど、好きなグループががかように美しく活動を終えてくれたことは、本当に幸せな経験だったと思う。
 アイドルあるいは芸能という理不尽と困難の多い分野にあっても、そのような幸せな物語の終わりを目撃できる。そのことをわたしはずっと覚えていようと思う。


 終わる物語があれば続く物語もある。
 μ'sによる『ラブライブ!』が終わったいっぽう、Aqoursによる『ラブライブ!サンシャイン!!』が本格的に始まった。とくに7月から9月にかけてテレビ放映された同作のアニメーションにわたしは毎週一喜一憂した。
 同作の最終話放映直後、ネット上では様々な反応が飛び交った。わたしにとって我慢がならなかったのは、その物語をなかったことにしようとする人々の声だった。『ラブライブ!』という物語もAqoursも好きだがアニメは気に入らないから否定*1して忘れよう、というものである。
 すでにアニメの物語はそこにある。酒井和男監督と、Aqoursによって語られた物語が。
 それは『電撃G's Magazine』誌上で公野櫻子らによって語られてきた物語とは異なるかもしれない。しかし、『ラブライブ!』という作品の面白さの本質とは、そのようにさまざまな人間から少しずつ異なる視点、異なる語り方、異なる内容で同時並行的に、かつ優劣の差なく語られていることではなかったのか。だからこそ「みんなで叶える物語」ではなかったのか。
 『ラブライブ!』という舞台においてすでに語られた物語を、ほかの誰かがなかったことにすることなど許したくない、とわたしは信じた。
 今年の後半、わたしにしては驚異的な頻度と分量でブログを更新しているのはそのような考えによる。ひたすらにあの物語を反芻し、語り直すことで、そうした行為に抵抗したかったのだった。
 物語はその物語があろうとするかぎり、なにものにもおかされずに語られるべきだとわたしは思う。


 とはいえ物語が続けられてしまうことはときに災いをもたらすのだろう、とも思う。
 山田正紀の新作小説『カムパネルラ』は、宮澤賢治の作品群が国家によって歪に駆動されていくさまを描くSFである。MMORPGのように永遠に語られる宮澤賢治の作品世界は、恐ろしくも蠱惑的である。なにせあの宮澤賢治であるから。
 同作の最後に、希望ともいえないような小さく力ないかたちで示されるのは、誰にも知られず望まれず、それでも自分の信じたい物語を語って世に示す人間の姿である。
 カウンターが正しいのではなく、それぞれが信じる物語をそれぞれに語ることが守られることが正しいのだと思う。


 2016年もいつもの年と同様にたくさんの映画とアニメとその他色々の物語をわたしは楽しんだ。来年もそのような印象をもてる年だとうれしい。
 物語がそれぞれの望むかたちで語られていく年であってほしいと思う。


 『アイドルコネクト』はゲームアプリのサービスを終えたが、そのシナリオはいまも、ストリエというサイトで公開され続けている。いったん理不尽に幕を閉められた物語であっても、そのようにふたたび語られはじめることが可能なのだ。

 誰かが語り続けるかぎり。

 

storie.jp

*1:一応付言しておくと、わたしが許せないのは否定であり、批判ではない。