こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

楽しさの先の先/穂乃果中心に観る『ラブライブ! The School Idol Movie』


(穂乃果といえばこの曲かな、というわけで。)

 三回目を観てきたので、三回目の記事を書きました。ネタバレしてます。

 今回の映画、もちろんμ'sの映画ではあるんですけど、穂乃果の子供時代に始まり、エンディングロールの最後が穂乃果のTシャツで終わる以上、穂乃果の映画と言っても過言ではないでしょう。
 穂乃果は廃校騒ぎのなか、μ'sの活動を始めた最初の人間です。μ'sの快進撃は彼女によって牽引されてきた。
 でも、今回の映画において、μ'sの活動を牽引するのは(終盤の大イベントを発案したことを除けば)穂乃果ではありません。
 海外ライブの道中で、かつての穂乃果の立ち位置にいるのは一年生の凛です。街歩きの最中に降りだした雨に対して、今までの穂乃果ならばTVシリーズ二期一話のごとく「雨、やめー!!」と叫ぶはずですが、今回は「残念だったな」と言うだけ。代わりに凛が「大丈夫にゃ!」と言って雨の中へ飛び出していく。

 今回の穂乃果はむしろ、ひたすら悩む役ともいえそうです。何も言わず、考えを巡らせるシーンが多い。
 例えば、海外ライブの前日、ランニング中に現地の人たちとおしゃべりをした直後のシーン。「せっかく来たのだから楽しんで行ってね」という現地の人たちからの言葉を受けて、彼女は「思いっきり楽しもう!」と皆に言いいます。表面上はいつものポジティブで猪突猛進な穂乃果なものの、その直前の顔は明らかに違うことを考えている。その内面ははっきりと表現されていませんが、どこか遠いところを見るような、あるいは今の自分を少し距離をもって眺めるような、そんな表情にぼくには見えました。たぶんこの時点ですでに、穂乃果とそれ以外のメンバーの間には、ある種の距離があいてしまっている。
 夕食のあと、日本食屋を出たμ'sたちは、談笑しながら「学校帰りみたいだね」と笑い合ってホテルに帰っていく。しかし、絵里の「不思議ね。私たちがこうしていられるのもあとわずかなのに、この街はそのことを忘れさせてくれる」というせりふが流れるなか、穂乃果だけが地下鉄の改札を通れず、皆とはぐれてしまう。
 なぜ彼女だけが一人迷ってしまうのか。
 道に迷う、という意味だけでなく、内面的な迷いにはまってしまうのはなぜか。
 彼女はμ'sの活動開始時、みんなのなかで誰よりも一番敏感にスクールアイドル活動に楽しさの可能性を感じ取っていました。楽しい時間のはじまりを最も敏感にとらえられた彼女は、その終わりをもまた鋭敏に感じ取っていたのではないでしょうか。絵里はその悲しさを少しのあいだ忘れられたけれど、穂乃果は忘れられなかったのかもしれない。だから皆とは違う地下鉄に乗り、見知らぬ街へ迷い込んでしまう。
 (演出的な意図として)今回の映画でμ'sがわざわざ海外へライブをしにいく理由はほかでもない、穂乃果が迷うためです。μ'sと離れて一人で街を歩く穂乃果の姿は、海外の雑踏の中ではいかにも背が低く小柄に見え、頼りない。秋葉原ではμ's鉄壁のセンターとして大きく輝く彼女も、こうして一人になればまだまだ10代の力ない少女に見える。
 やがて彼女は異国で謎の女性シンガーと出会い、その対話のなかで初めて自分の不安を言葉にします。μ'sが終わったらどうなるのか。みんなは、そして自分は。
 答えが出ないまま帰国した彼女は、海外ライブ中継の成功による世間の熱狂、そしてラブライブ運営側からの要請によるμ's存続の問題にさらされていく。

 迷いに迷った穂乃果が見つけた答えの糸口は、「μ'sは楽しかった」ということでした。限りのある時間のなか、同じ学校で、学校のため、みんなのため、みんなと一緒に楽しめたからこそμ'sは彼女にとってかけがえのないものになった。
 μ'sをμ'sたらしめていた条件=スクールアイドルであることを再び楽しみ、他校のスクールアイドルやスクールアイドルを愛する人たち全員で楽しむために、彼女は最後のイベントを思いつく。そして、スクールアイドルでなくなってしまう九人のμ'sの終わりを発表する。
 迷いが吹っ切れた彼女が、ことり・海未と三人で歌って踊る『Future style』のミュージカルシーンは、他学年の二曲に比べると派手さがなく、初見時にはさほどの思い入れを抱けなかったのですが、この穂乃果の迷いと克服の流れを追ったうえで観た今回は、心から感動してしまいました。迷い、足踏みをしていた穂乃果が、再び歌って踊ることを、幼なじみの二人とともに純粋に楽しむ。それも、未来を歌う歌にのせて!

 しかし心配症なぼくはここでこんなことを考えてしまいます。穂乃果はこれからも楽しんでいられるのだろうか?
 彼女はこれから先、孤独のままに生きていくしかないんじゃないか。
 なぜなら、彼女ほどに楽しめる人間はほかにいないから。それはある種の天性であり、同時に呪いでもあるかもしれないから。

 オープニング、走る子供のころの穂乃果に聞こえてきた『SUNNY DAY SONG』のハミングは誰の歌だったのでしょうか? あの曲は、海未には、ことりには聴こえていたのか。彼女はあの瞬間の「楽しさ」を二人と共有できたのだろうか?
 最後のライブの朝、先に走っていく八人を、穂乃果は一人で追いかけます。彼女の足元に、(おそらく)彼女にしか見えない赤い花びらを見つけて。
 エンディングロール、白い羽根はただ一枚だけ、穂乃果のTシャツの上にだけ舞い落ちる。

 穂乃果は、誰よりも歌を楽しみ、生きることを楽しむその才能と心ゆえに、ただ一人孤独に生きることを運命づけられた人間ではないのか。
 だとしたら実に寂しい。
 天才は孤独だけれど、穂乃果のような天才をも包含できたのがμ'sだった。穂乃果ほどの天才はいなかったけれど、でも彼女の手を離さないくらいに強い結びつきが彼女たちのあいだにはあったから。
 μ'sがあの一年しか活動できなかったのならば、穂乃果がふたたびμ'sのなかで感じたような楽しさを生きていくことは不可能なんじゃなかろうか。

 当然、そんなぼくの心配を消してくれる答えはありません。ですが、たぶん大丈夫です。大丈夫だと思うことにします。
 穂乃果の未来の可能性の一つである女性シンガーは、たった一人で異国の街頭で歌っていたけれど、街ゆく人の足を止めて、音楽の楽しさを共有することができていた。何より穂乃果自身が、ついさっきまで不安でたまらなかった心を癒されて、無我夢中で拍手していたのです。どんなに遠い土地で、たった一人であっても、はたから見ればひどく孤独な状況であっても、穂乃果のように、あの女性シンガーのように、音楽を楽しむことのできる人間ならば、人生を楽しめる。
 また、こう考えることもできます。彼女は一人で生きていくように見えるけれど、本当は一人にはならないのだと。思い出しましょう。秋葉原、最終ライブの朝、ひとり心の音楽に身を任せて踊る彼女を、絵里の「穂乃果!」と呼びかける声が皆の前に引き戻したことを*1。そして彼女の前に、彼女と楽しさを共有したいと願うたくさんの、なかば非現実的なほどにたくさんのスクールアイドルが集まっていたことを。
 彼女を受け止める人は、いくらでもいる。

 先週の映画公開日、ぼくはライブビューイングでファンミーティングの様子を観ました。穂乃果を演じる新田恵海さんが、最初の挨拶から涙をこぼしてしまい、感動的やら面白いやらでたいへんたいへん、という一幕があった。ぼくはその時勝手に思ってしまったのです。「もしや、リーダーである彼女にだけ、現実世界でのμ'sの活動期限が言い渡されており、ゆえにファンミーティングの冒頭あいさつでさえも、かけがえのない瞬間であることがわかっていたから、あっさりと涙を流してしまったのではないか?」と*2
 でも、もしμ'sでなくなったとしても、ぼくは新田恵海さんのことが好きだし、一人で歌う歌も聴きたいなあと普通に思うわけです。

 じゃあ、大丈夫じゃん。少なくともぼくは変わらず彼女の楽しさを共有したいと思っている。大丈夫じゃん。
 いや新田恵海と穂乃果は別人だけど!ほぼ同一人物やろ! そういうことにしておく!

 今日も映画館は大盛況でした。
 二十代くらいの男性がとても多かった先週に比べて、中高生の男子や、同年代の女子、はたまた小学生くらいの子供なんて層もいた。この映画の人気が、ぼくのようなリピーターだけによるものではないということがはっきりわかった。
 改めて、『ラブライブ!』という素敵な作品を、これだけ多くの人たちと同時に共有できていることに嬉しさと驚きを感じました。
 もしかしたら遠い先に寂しい未来が待っているかもしれないけれど、少なくとも今はみんなですごく楽しい時間を共有できている。とりあえずは明日もそれができる。映画が映画館にかかっている数ヶ月のあいだも。あるいは次のライブまでも。
 今日も今日とて、現実とフィクションを意図的にごっちゃにしながら、ぼくは映画館をあとにしたのでした。

*1:これは、孤独な天才と愛される凡人のどちらがよいか、という話ではないです。天才も凡人もただそのままとして生きていくしかない。そのうえで、彼女に声をかけてくれる人がいるかどうか、がぼくは大事なことだと思います。

*2:だって新田さん、「ランティスの木皿陽平さんに「μ'sの新しい記念日だね」って言われて…」って言って言葉につまっちゃったりしちゃうんですよ。もしやμ'sとして過ごす時間が少ないってわかってるんじゃないか、とか勘ぐっちゃうじゃないですか!…考えすぎかなあ。