こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

永遠に終わらないジャンプ/永遠に終わらない映画『ラブライブ! School Idol Movie』

 前回(http://d.hatena.ne.jp/tegi/20150613)はネタバレなしで書いたので、今回はネタバレ全開、踏み込んで書きます。あと、イーサン・ホーク主演の某SF映画のネタバレも含んでいます。洋画好きも注意。

 『ラブライブ! School Idol Movie』は、とても誠実に「終わり」を描く映画です。劇中のスクールアイドルグループμ'sは、メンバーの高校卒業をもって活動を終了します。その決断をめぐる葛藤と成長と楽しいお祭り騒ぎが、この映画では描かれます。
 ネット上の評判をみると、多くの観客も、その内容に対して「きれいに終わった」という評価を示しています。人気のあるコンテンツは可能な限り延命されていくのが世の常ですが、今回の映画は、μ'sの活動にかなり明らかな区切りをつけた。声優陣によるライブや音楽、コミック・小説などは続いていきそうですが、少なくとも、アニメ作品としては今回が最後になるのではないでしょうか。

 ですが、一本の映画として今回の作品を振り返るとき、全然終わってないな、と思うのです。まるで映画がまるごと宙に浮いたような感覚がある。そしてその感覚はとても楽しく切なく辛い。

 なぜ映画が宙に浮いたように、何も終わっていないようにぼくには思えてしまうのか。
 『ラブライブ!』は、ミュージカル演出や浮世離れした展開でしばしばファンタジックな印象を観るものに抱かせてきたシリーズではありますが、この映画は、確定されないものが多すぎる。μ'sが「終わる」ことがはっきりとすればするほど、それ以外の不確かさが強く意識されるようになる。
 その不確かさを印象づける要因を、三つに分けて挙げてみます。

 まず一つ目。μ'sのその後が描かれず、想像の手がかりも示されないこと。
 三年生は卒業したらどうするのでしょうか。大学に進学? にこにーは一人でアイドルを目指すのか? のぞえりはいつ結婚式を(略)。
 μ's解散の数年後と思われるラスト手前のシーン、μ'sメンバーの妹たちである雪穂と亜里沙が二年か三年になり、アイドル研究部の新入生勧誘をするくだりがあるものの、そこでも雪穂たちが「μ'sのラストライブは…」とすべてを言い切らないうちに、μ'sのライブへと映像は切り替わってしまう。ラストライブ(と思われる)時点のμ'sを観ることはできても、ステージ外の現実は決して描かれない。
 「μ'sの活動は終わった」というただ一点が確定されるだけで、それ以外のことはまったくの白紙なわけです。すべては観客の想像にゆだねられている。

 二つ目。
 μ'sのリーダーとして物語を牽引する穂乃果をめぐる数々の要素。
 冒頭、幼いころの穂乃果が大きな水たまりを跳び越えるところ、着地のその瞬間は描かれません。少女の穂乃果が着地をする寸前に映像が切り替わり、高校二年の現在の穂乃果のジャンプに引き継がれて、そこでようやく着地する。幼いころの穂乃果は跳んだままなのです。
 映画の後半、再び穂乃果がジャンプを行う幻想的なシーンでも、やはり彼女の着地の瞬間は描かれません。
 再びのジャンプ――これはすなわち、μ'sの活動を止め、自分を含めた9人を新たな人生のステージへ前進させる、という決断を示しているわけですが――において彼女の背中を押す謎の人物、ニューヨーク*1で出会った女性シンガーの正体もまた確定されません。
 明らかに穂乃果と同じ性格と口調、話すことのはしばしにのぞく過去が穂乃果の現在と重なって聞こえること、などから考えると、彼女は穂乃果の未来の姿ではないかとも思われるのですが*2、はっきりとその正体が明かされることはない。一番合理的に考えると、ニューヨークで会ったときの彼女は単におっちょこちょいの実在のシンガー、秋葉原での再会は穂乃果が夢の中でみた幻想としての存在だった、という解釈が素直ではあるのですが、そういう一つの解釈に固定させてすっきりできないくらいに、彼女は謎めいて演出されている。
 映画の中心にいる穂乃果をめぐる物語が、最も不確かな描かれ方をしているわけです。

 三つ目。
 「夢」をめぐる描写。
 これは、人生の目標としての夢ではなくて、睡眠中にみるものとしての夢ですね。
 私の人生は蝶が夢みた幻想に過ぎないのではないか、という「胡蝶の夢」の故事のように、映画全体を夢のように思わせる要素が、特に映画の中盤に配置されている。
 ニューヨークでのライブから帰ってきたμ'sたちが、空港でたくさんのファンに囲まれて「これって夢じゃない?」とふざけあうところ。夢への言及は一言では終わりません。穂乃果たちの周囲をカメラがぐるぐると回り続けるという、非常に作為的な映像でもって(すなわち、観客に「これは作り物だ」と意識させ、物語から一歩距離を置かせる視点で)、「これって夢じゃない?」「だとしたらいつから?」「飛行機乗るところ?」「そもそも廃校決定のところ?」「えーっ」なんて会話をさせる。
 笑いを取るシーンとはいえ、「自分たちの学校が廃校になるかもしれない」というμ'sのいちばん始まりの地点から、全てを「夢ではないか」と言ってしまう。これによって、映画だけでなく、μ'sの物語全体が宙吊りになってしまったような印象さえおぼえる。
 この直前、飛行機内のシーンも印象的です。皆が寝静まる中、一人目を覚ます穂乃果。雲の上を飛んでいることに気づき、隣のことりと窓の外の景色にはしゃぐ。そして二人は「またいつか必ず(ニューヨークへ)みんなで行こうね」と約束します。
 海外旅行をしたことのあるかたならわかると思うのですが、あの、時間帯としては客達が寝静まる、けれど窓の外は雲の上で太陽の光が地上では考えられないほどまぶしく、そして日本でもほかの国でもどこでもない空の上、という状況はひどく現実味の薄いものです。
 彼女たちはそんなときに夢から覚め、いつかなうともわからない約束をかわし、また夢へと戻っていく。

 前述の謎のシンガーもまた穂乃果の夢と結びついています。秋葉原での再会は、どこからどこまでが穂乃果の空想だったのかわからない。街でシンガーに出会い、ファンタジックな花畑の世界に誘われ、水たまりを跳ぶ。そして彼女はジャンプの途中で自室のベッドで目を覚ます。
 ここでは、夢と現実の境目はありません。

 かくして映画は――穂乃果は、μ'sは、宙に浮いたままになる。
 永遠の跳躍を続ける。
 観客のぼくは、そのさまを地上から眺め、憧れ続けるしかありません。彼女たちが跳び続けていることは知っている。けれど、どこへ跳び、どう着地していくのか、それは永遠に未確定のままになるのです。それをぼくが知ることは永遠にできない。
 なんと美しく、残酷で、切ない映画なのか。

 ぼくは当分のあいだ、この余韻にのまれて過ごすことになりそうです。
 辛いけど、そういうすごい映画が観れたってことは、うれしいことです。そういうふうに自分を納得させておくことにします。辛いけど。

*1:劇中ではこの都市の具体名は一度も言及されません。

*2:ぼくはこの展開に今年公開された映画『プリデスティネーション』を思い出しました。全然違うタイプの映画ですけど、『ラブライブ!』同様、観ているあいだずっと心ゆさぶられて、そして観終わったあとずっと考え続けてしまう、素晴らしい映画です。どっちもニューヨークが舞台ですし。なお、女性シンガーの正体について、一緒に観ていた妻は、髪の色と声質からすると真姫という可能性もあるのでは、とも言っていました。