こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

夏の終わりに「みんな」で踊る/『ラブライブ!』をめぐる人たちのことについて・2

 夏が終わる。
 すでに9月も末が近く、季節は秋だと言っても差し支えはない。けれども、8月5日に始まったAqoursHAPPY PARTY TRAIN TOURを観てきた人たち、そして9月29日・30日に埼玉で行われるツアーの最終公演を観る予定の人たちにとっては、その二日間こそが夏の終わりだ。
 今週の金曜と土曜の夜、Aqoursの9人と、3万人の人々がメットライフドームに集まる*1。映像と音声が全国の映画館に配信される。そうして、おそらくは5万を超える人々が*2、歌い、踊り、声をあげる。
 わたしはその5万人を、どのように感じればいいのだろうか。
 夏の始まりのころ、わたしは「「みんな」とは誰か」という文章を書いた*3。その後二ヶ月のあいだ、すっかりそんなことは忘れてAqoursの魅力に熱中したときもあれば、足をとられて延々と悩んだ時期もあった。
 5万人は、『ラブライブ!』シリーズにおける重要概念「みんな」なのか。彼らはどんな人々なのか。
 夏の終わりを迎えるにあたって、わたしはもう一度、「みんな」のことを考える。


 ライブ会場に来る人たち全員と友達にならなきゃいけないわけじゃなし、誰であってもよいじゃない、というような意見は受け付けない。わたしは彼らと一緒にただ座っているわけではない。彼らと一緒に過ごすのは、もっと能動的な時間なのだ。わたしたちはライブの数時間を共有し、光景を共有する。共有することは、共感することとイコールではないから、すべての価値観と感情を同一にできるとは思わない。けれども、そのたくさんの人々と、自分との間にある、最低限の共通点くらいは確認しておきたい。
 かれらとわたしの共通点は何なのか。『ラブライブ!サンシャイン!!』について、Aqoursについて共有できるものは存在するのか。もしそうした足がかりがないのなら、わたしはなんのコミュニケーションの可能性もありえない、匿名の群衆と一晩を過ごすことになる。それはあまりに寂しい。あなたはどう思うか知らないけれど、わたしは寂しい。

 

♪♪♪

 

 まず単純に、この人々を「Aqoursが好きな人」とするのはどうだろう。
 Aqoursのライブに来ているのだから、当然この点は全員がクリアしていそうに思えるのだけど、残念ながら事態は複雑だ。『ラブライブ!サンシャイン!!』という作品の場合、好きになるポイントが非常にたくさん用意されている。同じ「Aqoursが好き」といっても、「アニメが描くAqoursが好きな人」「声優としてのAqoursが好きな人」などなど、その「好き」の対象は様々に存在する。アニメだって、「全部好き」という人もいれば、「13話だけは嫌い」という人もいる。
 作品全体への情熱のかけかたも千差万別だろう。Aqoursのライブに来るためにブルーレイを何十枚も買った人もいれば、デレマスもガルパもラブライブも並行して楽しんでいて、一応好きなキャラクターはいるけど自分からライブに行くほどではない、今日は友達に誘われたから来たよ、というような人もいないではないだろう。
 こうした人たちをすべて等しく「Aqoursが好き」または「ラブライブ!サンシャイン!!が好き」の一言でくくってしまっていいのか。


 正直に言えば、わたし自身、自分の「好き」は他の多くの人の「好き」とは違う、と思っている。昨年の初頭から、えんえんAqoursについて考え、情報を集め、よりよいファンとして振る舞おうと務めてきた。その成果がこのブログであり、Twitterの呟きである。
 そういう自分を、TLがアニメやライブ映像のスクリーンショットと、常套句のコピー&ペーストだけで構成されるような人や、沼津の街頭で喧しく振る舞うような人たちと一括りに「好き」の言葉で形容されたとしたら、ちょっとつらいものがある。彼らの「好き」を全否定する気はないけれど、わたしのとはかなり違う種類の「好き」ではないですか、同じフォルダに入れるとお互い難儀じゃないでしょうかね、と言いたい。


 このように、5万人の人々を「Aqoursが好きな人」でくくろうとすると、どうしてもわたしは他人の「好き」をはかりにかけて、自分にとっての「Aqoursが好きな人」の範疇に入るかどうか、という不毛な審判を始めてしまう。わたしは他人の「好き」を裁くようなことはしたくない。
 わたしの「好き」だって、大したものではない。わたしより精緻に作品を読み解き、キャストに深く共感し、グッズに惜しみなくお金を出す人間はいくらでもいる。そういう人たちから、お前の「好き」なんて本当の「好き」ではない、と言われる可能性もある。
 そういう不毛な競争はしたくない。

 

♪♪♪

 

 「好き」というような漠然としたものではなく、より具体的な基準をもって、5万人の人々を認識するのはどうだろうか。

 Aqoursのライブ参加者にまつわる話題として、「10人目」問題がある。Aqoursの9人に加えて、ライブ参加者たちが自分が「10人目」だと考え、振る舞うことは許されるのか否か。
 この問題は、ファーストライブの際から多くの人によって論じられてきた。今回のツアーでは特に、Aqours九人が「1!」「2!」と順に点呼を行っていく楽曲『太陽を追いかけろ!』が歌われるため、観客は彼女たちに続いて「10!」という声をあげるかどうか、明確な判断を求められている。更に、既に行われた名古屋・神戸のライブにおいては、キャストや演出が明らかに観客の「10!」を期待していることが見てとれた。
 ならば、ここで「10!」と言えるかどうかを、5万人の人々と自分との共通点として見出すのはどうか。
 神戸公演二日目を現地で経験した当時のわたしは、「10!」と声に出すことを選んだ。恐らく、埼玉でも同じことをするはずだ。アニメ一期13話で描かれた、Aqoursの9人以外へと「輝き」を広げていこうとする考え方に共感したこと、また神戸公演のさなかに、Aqoursが観客を10人目として迎え入れる行動*4を目にしたことが大きな理由だ。
 しかしここでも、ことはそう単純ではない。「10!」と口にするか否かを決めるのは、Aqoursのこうした考え方に共感する・しないの判断とイコールではないからだ。
 Aqoursの考え方に共感し、応援したいと思っていても、音楽鑑賞についての自身の価値観から、ライブでは黙って彼女たちの歌と言葉を受け取っていたい、という人もいる。
 それではライブを楽しんでいるとはいえない、声を出して参加してこそライブだというのならば、どこまでが許される参加のあり方なのか、という問題が生じる。いわゆる「家虎」*5的なコールと「10!」の境界はどこにあるのか。「「家虎」はうるさいが「10!」はうるさくないからOK」という価値観と、「「10!」のかけ声はうるさい。黙って観たい」という価値観の間に、うるさい・うるさくないを判断するもののエゴ以外の違いはあるだろうか。
 前述の通り、観客からの「10!」をAqours自身が求めている可能性は高い。この点をもって、「10!」のかけ声は許されていると言える。しかしそれは、「「10!」の声を発することが許されている」というだけで、声を発しないこと、また声を発することなしにAqoursを応援する気持ちを抱くことが禁じられたということにはならない。


 こう考えてみよう。会場で「10!」と叫ぶことがAqoursに力を与えるとして、ではライブビューイング会場で「10!」と叫ぶことに価値はあるのか。ライブビューイング会場で発せられる観客の声が、埼玉のAqoursに届くことは絶対にありえない。
 そんな声に価値はあるのか。
 当然、ある。
 アニメ一期11話で描かれたように、遠く離れたところにいる同士の人間のあいだにも、「想い」があれば、お互いの力になりうる。
 とすれば、埼玉の現場で黙って『太陽を追いかけろ!』を聴く観客が、心のなかで発した「10!」にも、同じように意味があるはずだ。


 このように、「10!」にまつわることも、あまり頼りになる基準だとは言えない。大きく「10!」と叫ぶ人も、黙ってそのあとの「OK! Let's go Sunshine!」というAqoursたちの声を聞き漏らすまいと耳をそばだてる人も、わたしには同じようにAqoursを愛しているように思える。
 逆に言えば、「10!」と言ったからといってAqoursを愛していることの証明にはならない。残念だけれど。

 

♪♪♪


 いっそのこと、5万人の大半への想像をやめてみるのはどうだろう。もっと限られた人たちのことだけを考える。
 Aqoursと『ラブライブ!サンシャイン!!』のファンとしてネット上でふるまうなかで、わたしは多くのファンの人たちのことを知った。ネット経由という覚束ないものではあるけれども、わたしが強く共感し、応援している人たち。5万人全員は無理でも、彼らのことなら、一つの「みんな」として想像できるのではないか。
 わたしは自分でAqoursについてのブログを書くから、同じようにAqoursについて長文のブログを書いている人たちには親近感を覚える。特にこの夏は、これまでブログを書き続けていた人以外にも多数の人が、新たにブログを書き始めることが多かったように思う。
 みな、Aqoursに触発されたのだと思う。自分の受け取った大事な感覚を、言葉にして保管し、共有したいと思ったのではないか。そういう、自分の書くべきことを発見した人たちの文章は、一様にある種のきらめきをもっている。整っていない部分もあるけれども、切実で、熱のこもった文章。そういう文章を読むのは楽しい。
 もちろん、今夏以前から読んでいるすばらしいブログも多数ある。ブログだけではない。音楽や、創作や、仕事にまで、Aqoursから受け取ったインスピレーションを絡めて活動している人たちが、わたしのTwitterのタイムライン上にはたくさんいる。代表的なのは沼津・内浦の人たちだ。経済の面でも精神の面でも、Aqoursが土地にもたらしたポジティブな影響を広げていこうと活動し、その様をネット上へ発信している。
 彼らはいわば、Aqoursからの「君のこころは輝いてるかい」という問いかけに対して、輝こうとしている人たちだ。自分の生活や仕事、趣味を輝かせようとしている人たち、あるいは、Aqoursの輝きを記録しようとしている人たち。
 そういう人たちを想像する。想像しやすいし、共感しやすい。これならば問題はないのではないか。


 しかしわたしはここでも躊躇する。
 それらの(一方的な)知り合いを想像するときにこそ、価値観やふるまいの小さな違いが強く意識されてしまう。ブロガーたちの長い記事のなかに、自分に似た考えを見つけて嬉しくなるときもあれば、わずかだけれど許容できない違いを知って反発してしまうこともある。
 不遜なことだと言われそうだけれど、これと同じことは、Aqours本人や作り手たちの言葉に接したときにも生じうる。先日発売された『ラブライブ!サンシャイン!!テレビアニメオフィシャルBOOK』など、その危険性のかたまりのようなものだと思う。あの本に掲載された、アニメ各話へのAqours全員と酒井和男監督のコメントは、非常に読み応えがあってすばらしい。しかしその満足感ゆえに、「あの件については触れないのか」とか、「そのコメント、ちょっと粗くないか?」といったような、より自分の読みたい言葉を求めてしまうような気持ちも芽生えてしまう。
 わたしは、自分に近しいものを好きなひとたちのなかに見つけて、自分と相手とはこんなにも接近しているのだと考えて喜ぶ。そして、好きな人のなかに自分とは遠いものを見つけたときには、自分と相手の距離を実寸以上に大きくとらえてしまう。
 好きであればあるほど、相手のなかに、自分にとても近いものと、とても遠いものとの両方を見出さざるをえない。
 共感しやすい人たち、好きな人たちだからこそ、遠く感じる部分もある。それもまたひっくるめて相手のことを知りたいと思うのだけど、そのような感情はどんどん個人的なものになって、「みんな」という全体への想像とはかけ離れていく。


 また、わたしが好きな人がみな、輝いているわけではない。輝いている人と、輝こうとしている人は同義ではない。
 受け取った輝きを前にして、うまく消化できない人もいる。そういった感情をもとに、ダークな二次創作をものする人もいれば、違和感の答えを見つけるために、長文のブログを書く人もいる。彼らは輝いていないのだろうか。わたしは、メットライフドームのなかに、ライブビューイング会場のなかに必ずいるだろう彼らのことを、考えないでいるべきなのか。


 わたしはそのようなこともしたくない。
 なぜなら、受け取り損ねたとはいえ、彼らもまたわたしと同様にAqoursの「輝き」を見た者なのだから。
 その先のことは違っても、出発点は同じだ。


♪♪♪


 ……出発点は同じなのだ。
 そういうことなのだ。
 ようやく結論が見つかる。
 問題はその5万人がどんなことをしているかではない。どんな経験をしたか、だ。


 メットライフドームにやってくる人たちが、なにを考え、なにをしてきたか、なにをするかは考えない(いや、考えてしまうけど、考えないようにする)。
 ただ、こういうことだけを考える。
 Aqoursはかつて、『君のこころは輝いてるかい』という問いを放った。一度目はファーストシングルで、二度目はアニメ一期の結末で。その問いは、ライブのなかでも何度も繰り返される。彼女たち自身が輝くことで。だからあの曲を聴かずに会場に来た人がいたとしても問題はない。

 その問いは、まさにその楽曲のかたちでストレートに投げかけられることもあれば、まったく異なる方法で投げかけられることもある。彼女たち自身が放つ輝きをもって「あなたはどうだい?」と訊いてくるのだ。
 Aqousの輝き方はμ'sとは違う。それを受け取る人もいれば、受け取れない人もいる。はなからそのような問いには応える気がない人、問い自体を認識できない人もいるだろう。しかし受け取る側のことは考慮されず、輝きと問いは問答無用で観客を射る。
 5万人はひとしく、『君のこころは輝いてるかい』という問いを投げかけられた人間なのだ。それこそが今週末に集まる「みんな」なのだ、とわたしは思う。


 Aqours自身すら、作り手すら、その問い/輝きからは逃れられない。声優としてのAqoursは、キャラクターとしてのAqoursから常に問いかけられている。そして両者ともに、そもそも最初の輝きを作り出したμ'sからの問い/輝きをずっと背負っている。


 ライブは試験会場ではない。
 Aqoursがわたしに唯一の正解を見せてくれる場ではないし、わたしが唯一の正解を見つけ、回答を提出するための場でもない。「気づき」だとか「学び」だとかをいくつ拾ったか、競う場でもない。
 幸運であればそうしたことを得られるかもしれない。しかし最初から期待することはたぶん間違っている。どんな回答を持ち帰るかで、周りの観客を判断するのも、また。
 自分がどんな回答を得られるか、得られないのではないか、と不安に思う必要もない。


 ただわたしは問いかけに身をさらすのだ。
 わたしより勇気のある彼女たちは、ステージの上で、輝いているか否かを審判するスポットライトにその身をさらす。彼女たちの身が乱反射した輝きを、わたしは少しだけ受け取る。そして同じ輝きは、ドームのなかの全員、ライブビューイング会場の全員にひとしく投げかけられる。
 それがわたしにとっての「みんな」だ。
 問いかけに自信満々で回答する人もいれば、口をつぐむ人もいるだろう。問いかけだとは思わず無邪気にはしゃぐ人も。問いのライトに照らされて「みんな」は踊る。


 それで夏が終わる。

 

 

*1:なお自分は金曜は現地、土曜はライブビューイングの予定です。

*2:メットライフドームに3万人強、全国のライブビューイングで1万人強、合計5万人強、というざっくりとした計算である。

*3:http://tegi.hatenablog.com/entry/2017/08/05/165429

*4:伊波杏樹さんは『太陽を~』で客席からの「10」の声を聴こうと両手を耳の脇にかざした。小林愛香さんは公演最後、Aqours9人が壇上で手を繋いで頭を下げるとき、空いている手を客席のほうへ差し出して掴む仕草をした。

*5:アイドルの歌唱にあわせて、「イェッタイガー」という独特のかけ声を発する風習。最近では、この言葉に限らず、「アイドル自身の歌唱が聞こえづらくなるほどに大きなかけ声をかけること」くらいの意味で使われているように思う。