こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

「きょうだいなんだ」/『PREMIUM 3D STAGE 残響のテロル』


舞台「残響のテロル」第1弾CM

 

 『残響のテロル』舞台版を観てきました。
 アニメが大好きなだけに出来が心配でしたが、おおむね杞憂でした。言いたいところもあるけれど、これはこれで一個の作品になっていた。

 

 タイトルにもある通り、背景に映しだされる3D映像がひとつの見ものです。

 個人的には、ほんらい自由で無限の演劇の舞台に、わざわざ一定の枠をつくって映像を映し出すという演出はあまり好きではありません。それが、アニメや映画のような演出をしたい、でもコスト等の物理的な条件からできない、ならば映像だ、ってな方向のものならなおさら。
 ただ、今回はじめて3D映像を使った演出を観て、使い方によってはすごくいいものになるのだ、と思いました。
 たとえば冒頭の核廃棄物処理所のシーン、ナインが壁に赤いスプレーで描く「VON」の文字。ナインが客席に向かってスプレーを使うと、ナインと観客のあいだの宙に「VON」が浮かび上がります。舞台上の俳優と観客のあいだに生まれたその文字は、その二者が生で向かい合う演劇でしか描けない鮮烈さに満ちていました。
 エンディングでの、映画のようにスタッフロールを映し出すなど、凡庸で興ざめする演出もあったものの、そうした鮮烈ないくつかの場面のおかげで、総じて非常におもしろい印象を抱きました。

 

 まあそういう新奇な演出もまずは俳優たちの演技がなければはじまらないわけですが、みな好ましい演技をしていたと思います。

 ぼくの行った6日・18時半からの公演は、終了後にハイタッチ会が開催され、俳優たちの半分くらいと顔を見合わせてハイタッチする、というたいへん貴重な経験をしてきました*1。なので余計に好ましく思えてしまっております。ナインを演じた松村龍之介さんなんか、ぼくが「かっこよかったです!」って言ったら「そうですか..? 自信が持てます」とかおっしゃるわけですよ。いや最初から自信もっていいんだよあなた!こんだけの舞台に立ってたくさんの客を呼んでるんだから。まったくなんて好青年なの…とかうっとりしてしまった*2。ま、そういうおまけは別としても、ナインもツエルブも、アニメをトレースしつつ、舞台版だけの人物を作り上げていてよかったです。

 

 内面としては、リサとハイヴの両ヒロインのほうが、少年たちふたりよりもさらにアニメから離れていたかもしれません。アニメ版と同じく潘めぐみさんが演じるハイヴはもう文句なしのハイヴなわけですけど、各シーンで少しずつ感情をアニメよりも多く吐露しているところに、意外なかわいさをみました。
 ダウナー系のアホの子だったアニメ版に対して、けっこうきゃっきゃと明るい舞台版リサもこれはこれであり。違うと思わせつつも、声のトーンやしゃべり方はアニメ版に非常に近くしていて、演じている桃瀬美咲さん、やるなーと思いました。

 あと、アニメにおけるリサとハイヴって、みょうな色っぽさがあったと思うんですよね。アニメ放映時、ツイッター上とかで、けっこうな数の男オタが盛り上がっていた記憶があるんですけど、舞台版でもちゃんとエロかったから安心しろみんな。なんつーか、細身だけどむちっとしているあの作画がちゃんと三次元になっていてですね……。けっこう前方の席に座れたので、プール際で靴下を脱ぐリサとか、ハイヴの胸元とか、たいへん目の毒でした。いやこんな感想ですみませんほんと。

 

 物語に話を戻します。
 内容としては、全11話のアニメをうまく圧縮し、かつ演劇でならより面白くみせられる場面をふくらませ、となかなかによい脚色がなされていました。
 アニメの持っていたあの温度と湿度の低さは薄まり、登場人物たちが心情をはっきり口にするわかりやすさがありました。饒舌でない愚か者たちが交錯して絡み合っていくアニメの物語の手触りが好きだったもので、物語としてどちらが好きかと言われたらアニメ版だと答えざるを得ないのですが、登場人物により近さを感じたのはこちらの舞台版のほうです。やはり、面と向かい合ってナインに「おれたちのことをおぼえていてほしい」って言われたら、リサじゃなくても心をつかまれてしまうよ。

 

 脚本の改変で個人的に驚きかつ心をつかまれたのは、ナインが原爆を「兄弟」と言うこと。たぶんアニメではそこまで明言していなかったと思います。かつてブログでこういうことを言っていたので、我が意を得たり、と内心大喜びでありました。

 

ナインとツエルブが核爆弾を脅迫に用いたのは、二人をかつてアテネ計画に引きずり込み虐待した日本政府の一派が、同じく手を染めていた秘密計画の産物だったからである。いわば核爆弾は彼らふたりの隠された兄弟だったのだ。

『残響のテロル』覚書 - こづかい三万円の日々


 前半の最後、急激にリサへ近づいていくツエルブに距離を感じてしまうナインをはっきり描くことがアニメとの大きな分岐点になっているように思います。後半、ツエルブ、ハイヴ、そして原爆への感情を踏み込んで口にするナインの姿は新鮮だったし、愛おしく感じられました。

 そういうナインと自分の違いをはじめて認識して、生きていこうとしたツエルブの姿もまた。


 兄弟といえば、アニメと今回の舞台も、同じ脚本家から生み出された兄弟のようなものなのかもしれません。同じところも違うところもそれぞれあって、しかもほんとうの兄弟のようにそれぞれにいいところもあればわるいところもあるのですが――兄の行いをみて学んでいるはずの弟がみな成績優秀とは限らないのが難しいところ――、でも、兄が好きな人はこの弟も気に入るんじゃないかしら、と思います。
 千秋楽の3月6日は、昼・夜公演のニコ生中継も行うようです。今日の客の入りから考えると、現場の当日券だってけっこう出るんじゃないかな、と思う。アニメ『残響のテロル』が好きなみなさん、舞台のうえのナインたちのことも、ぜひ見届けてはいかがでしょうか。

 


PREMIUM 3D STAGE「残響のテロル」【ゲネプロ】

 

 

tegi.hatenablog.com

 

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*1:2.5次元演劇界ではけっこうよくあるイベントです。超緊張する。ツエルブ役の石渡真修さんはかつてミュージカル『テニスの王子様』で桃城武役を演じていた方なので、そのきょろっとした大きな目をあらためてハイタッチの際に目にして「も、桃ちゃんせんぱいだ…!」と一瞬固まってしまいました。へんな間ができたので石渡さんも不思議な顔をされていたように思います。すみません…。

*2:あととうぜん潘めぐみさんとハイタッチしたときは心底うっとりしました。潘さんも「ハイヴ最高でした」って言ったら「わーいうれしいです」と返してくれてこっちのほうこそうれしかった..。会場の外出て冷静になったらとたんに手が震えたね。

世界は輝いている/『KING OF PRISM by Pretty Rhythm』

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 いや~、キンプリ、すごかったです。評判通り。
 自分の使ったことのない感覚器官をことごとく決め打ちされていく感覚、というか。いや、個々の要素――「二次元アイドル」「謎スポーツ」「BL」など――に反応する器官はそれぞれ普段からそれなりに使い慣れてるはずなんですけど、その器官が今まで刺激されたことのない方法で斬新に過剰に打ちのめされていく、というか…。一回観ただけだと、そのキンプリ的な過剰さの部分に対しては「なんかよくわからんがすごかった…尊い…」程度の感想しか出ません。

 そういうわけで、基本的には、TL上とかで漏れ聞こえてきたイロモノ的で過剰な部分(例えば「尻から蜂蜜」とか)を、微笑みながら&爆笑しながら観てたんですけど、わたし、クライマックスには思わず落涙してしまったのですね。ずっと珍味を食べてたはずが、メインディッシュが何年も食べてなかった馴染みの店の定食だった、みたいな。極めて真っ当に感動いたしました。
 なお、「イロモノ的な過剰な部分」だけでもぼくはこの映画が大好きです。超おいしい珍味だった。「真っ当に感動した」からいい映画だって言うわけじゃないです。ここからあとは、極めて個人的な感覚の報告です(というかぼくのブログは毎回そうですね)。

 どういうことか。
 この映画の中心にあるのは、絶大な人気を誇るアイドルグループの(ひとまずの)終焉と、新たなアイドルの誕生です。
 さんざんブログでもツイッターでも語っている通り、わたしはそこそこに重度なμ'sとTridentのファンです。そして両者はともにこの4月にラストライブを迎えます。毎日毎日、家でも職場でも、μ'sとTridentが終わりを迎えるまであと数十日しかないんだ、というようなことばかり考えている。
 そんなところに、どストレートに「アイドルの終わりと始まり」を描く映画を観ちゃったもんですから、これは刺さらないはずがない。

 新たなスタァ・一条シンくんは、初めてプリズムショーを観たときのときめきを観客の心に蘇らせます。自分自身も、プリズムショーを初めて観た日からずっと、世界がきらきら輝いて見えるんだ、と笑う。
 そうなのです。アイドルは自分自身が輝くだけじゃない。世界すべてを輝かせてくれる。これほどまでに輝くひとを生み出したのならば、きっとこの世界だって輝いているのだ、と信じさせてくれる。
 シンくんがプリズムショーを初めて観たときのときめきを語っているとき、スクリーンには次々と『プリティーリズム』シリーズの過去の映像が映しだされます。ぼくは2011年の『プリティーリズム・オーロラドリーム』放送開始時に最初の数話を観ていただけのプリリズ素人なので、個々の映像の意味はわからないのだけれど、でも11年当時のことを思い出しました。『プリキュア』シリーズにはまって数年、徐々に女児アニメもかじりつつ、一方では『アイドルマスター』で二次元アイドルへの感情を醸成し、んでもって数年後、『プリキュア』『プリティーリズム』の3DCGダンスを経由して『ラブライブ!』にたどり着いて、ラブライバーになるに至った自分もまた、シンくんが言う、世界が輝いて見えた瞬間をかつて経験したのだ、と気づいて、心の底が熱くなったのです。ここで、「そもそも『プリティーリズム』の菱田正和監督と『ラブライブ!』の京極尚彦監督は師弟関係なわけで*1――」みたいな事実を持ち出すまでもなく、シンくんの語るプリズムショーと世界の輝きについての言葉は、恐らく、すべてのアイドルに普遍的に通用する真理です。少なくともぼくにとってはそうです。
 そして、これはぼくの勝手な見立てですが、そんな彼が歌う曲が『Over the Sunshine!』という……。泣くしかねえだろ!

 一本の映画として観たときには、「「輝き」はああいうわかりやすいエフェクト以外でも表現してほしかったなァ」とか、表現の面で多少言いたいこともあるんですけど、その一方で、ぼくが大好物の、「主にミュージカルシーンに行われる時間・場所の唐突な移動」がたくさん観れたので充分満腹です。
 上映時間が59分なだけあって、色々な不十分さはあるのだけれど、他の過剰さで充分カバーしているんですよね。そのへん、受け手が打ち込んでほしいところに、豪速球のみを投げ込んでいく精神が見て取れて面白かったです。取捨選択の結果がはっきりわかる映画って観てて楽しい。

 そういうわけで、超楽しかったっす。応援上映行くかもしんない。


劇場版「KING OF PRISM by PrettyRhythm」トレーラー(本編ver.)


声援OK!コスプレOK!アフレコOK!劇場版「KING OF PRISM」プリズムスタァ応援上映PV

*1:今回の映画もプリズムショー演出は京極尚彦

世界はきみの夢/『ガラスの花と壊す世界』

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 ぼくのフィクションの分類棚には「長い夢みたいなやつ」という区分がある。
 長く、濃密で、鮮明な夢。物事が断片的にしか語られない。時間も場所も跳ぶ。しかしそれらは継ぎ目なしに繋がっていて、一瞬一瞬の情報量は過密で、覚醒してしばらくはそれらがすべて現実だったのだと確信しているほどに鮮やかな夢。すべてが夢だとわかったあとも、数日後にふいに「あれは現実だったのだ」と頭をよぎるような夢。
 そういう夢を見たあとと同じ感触を頭のなかに残してくれる映画、あるいはフィクション。
 時系列のシャッフルや不条理な展開など、構成が夢のようだと思えるだけではだめなのだ。多くのフィクションは人に「リアルだ」と思わせることを指向していて、それに対して「アンリアルだ」と思わせてもいいという方針で作られているフィクションがあるけれども、ぼくが言いたいのはそういうことではない。アンリアルなだけではいけない。
 観ているうちはとてもリアルに思えるが、終わったあとは、決してリアルではなかったことがまざまざとわかる。それでも、それが作りものであったという事実は、自分がそのフィクションをリアルだと思っていた確信を、決して揺るがさない。
 そしてぼくはそういうフィクションが大好きなのである*1

 

 『ガラスの花と壊す世界』は上映時間67分のアニメ映画である。ポニーキャニオンが2013年に開催した公募企画「アニメ化大賞」での大賞受賞作を原案としているが、世界設定や物語の多くは新たに練られたようだ。
 残念ながら、そうして作られた本作の物語は、巧く語られてはいない。人類滅亡後の世界で動き続けるコンピュータ・プログラムたちの物語と、それらを作り上げた人間の数世代にわたる物語とが、両者が密接に繋がっていることをふくめて描かれていくのだが、その語り方は勢いやテンポに頼りすぎていて、乱雑ですらある。
 主人公のデュアルとドロシーは、現実世界をデータ化して保存した巨大なバックアップ保管庫を守るアンチウイルスプログラムであり、彼女たちは日々ウィルスと戦うのだけれども、戦闘シーンのアニメーションとしての面白さ、かっこよさは中の中といったところで、あまり目を惹かれはしない。

 

 ではつまらなかったかというと、まったくそうではないのだ。映画館で、大好きだ、と大声で言いたいくらいに興奮した。
 それはこの映画が前述の「長い夢みたいなやつ」という個人的なフィクションの分類にばっちり当てはまったからである。
 さきほどは、この「長い夢みたいなやつ」の特徴を色々と書こうとしたけれども、最終的にはこれはぼくの超個人的な感覚の話である。映画館で自分が「長い夢みたいだ」と感じたから、そういう分類に入るのだ。そういう自分勝手な話ではある。申し訳ないです。

 

 思うに、この映画の構成、演出、テーマのそれぞれに、ぼくの「夢みたいだ」という感覚を刺激する要素が色濃くあったから、その分類に当てはまり、かつ大好きになってしまったのだと思う。


 構成は前述のとおり乱雑さがみられる。終盤の謎の明かし方は過密すぎてついていくのに苦労するし、興が冷めると感じる人も多かろうと思う。けれども、その過密さ、論理を繋げるのに苦労する違和感が、「長い夢みたいなフィクション」という感覚をぼくにもたらす。

 

 映画の中盤、挿入曲が二曲立て続けに流れるパートがある。人気の女性声優たちが歌う曲を使おうという商業的な目的も透けてみえるのだけれども、一曲目では様々な時代・場所を訪れて、二曲目ではともに日常を過ごすなかで、それぞれに未知の世界を知っていくデュアルとドロシー、リモの姿が実にかわいらしく、いきいきと描かれている。
 デュアルたちが膨大な未知の世界を、その多くを受け止めきれないままに次から次へと知っていく感覚は、映画の終盤まで持続する。データアーカイブの未知の世界を知って驚いていた彼女たちは、やがて自らの存在意義や、データアーカイブの現状にかくされた真実を知っていく。観客がその膨大な謎の開陳に戸惑うのと同様、デュアルたちも戸惑う。戸惑うし、物語は決してハッピーエンドには着地しない。それでも、デュアルたちは世界の理の片鱗に触れてなんらかの確信を得た。未知の世界を知り、ほんのわずかな真実をつかんだ彼女たちの変化を、表情やしぐさが強く物語る。
 そんな演出を見る喜びだって決して充分ではないのだけれども、断片で示されるからこそ輝いて見えることもある*2。たぶん世界の理はたしかにどこかにあるのだろうけれども、主人公たちと観客はそのすべてに触れることはできず、しかし一瞬でも触れられたことによって、世界が一変して輝いて見えるあの感覚。それこそがいいのだ!

 

 テーマについては詳しく言わないでおくけれども、オーソドックスなポストヒューマンSFの物語が、茫漠とした時間感覚で、これまた断片的に語られることに強い魅力を感じた。
 何をもって人とするのか? ほんとうのこととは何か。現実とは何か……。そうやって世界や人間そのものへの問いを放ちつつ、そこに執着せず、これからも凄まじく長い時間を生きていくであろう主人公たちが楽しそうに笑うさまをもって物語を終えるところがよい。

 

 思考を続けるコンピュータプログラムたちが、このあとどんな存在になっていくのか。映画のラストで、ある登場人物は、(生きる目標としての)「夢を見つけた」と言って喜ぶ。彼女の生きるコンピュータの世界を作り出した、おそらくは数百年前に生きた人間たちの姿がフラッシュバックする。両者をつなぐ、人間でもありプログラムでもある存在が歌う歌が聴こえてくる。

 人間がプログラムを創造し、プログラムがふたたび創造の入り口に立つ。それを過去の人間が微笑んで眺めている。「夢」を見ているのは人間なのか、プログラムなのか……。
 「長い夢のようなフィクション」を好むぼくは、この終幕に、「あるいはすべてが夢なのではないか」という感慨をいだいた。いや、じっさい、これはフィクションであり、夢のようなものであり、しかし――。

 

 そういうわけで(どういうわけで?)、ぼくは大層気に入りました。
 自分はほとんど前知識なく、まっさらな状態で観たことで、登場人物たちが世界を知っていく驚き、喜び、悲しみを共有できたので、親切にすぎる公式サイトのストーリー紹介などは目にしないまま、ノーガード戦法で劇場へ行くのをおすすめします。
 よい夢を。

 


劇場アニメーション「ガラスの花と壊す世界」予告編

 

音楽がとてもよいです。劇伴と主題歌を手掛けるのは横山克。サントラ買ってしまった。


【ガラスの花と壊す世界】主題歌CD「夢の蕾」【試聴PV】

*1:例:ヨースタイン・ゴルデル『カード・ミステリー』、ジョー・ライト『PAN』、ウォシャウスキー&ティクヴァ『クラウドアトラス』など。

*2:貧乏性の人間がわずかに与えられたご褒美に喜んでいるだけだと言われたらそれまでだ。

ぼくは「ガルパンはいいぞ」とは言わない/『劇場版ガールズ&パンツァー』


ガールズ&パンツァー 劇場本予告

 

 『劇場版ガールズ&パンツァー』を観てきました。
 年末年始にテレビ版12話+OVAを観て予習を済ませ、立川シネマツーの極上爆音で鑑賞。
 テレビシリーズは初回放送時に一話だけ観ていました。戦車道という大嘘を、空母上の学校という超大嘘を重ねることで通用させちゃう蛮勇にそれなりに心躍りつつも、その嘘に自分はのれないなと思って視聴を止めてしまった記憶があります。
 今回ようやくテレビシリーズ・OVAを通して観て、戦車と少女という極端な大嘘のつきっぷりのよさ、そこにからまる各人の成長や友情のドラマを大いに楽しみました。映画はさらにそれを拡大した楽しさに満ちていて、たいへん楽しかったです。

 …楽しかったのですけど、完全に乗っかりきる、いわゆる「ガルパンはいいぞ」状態にはなりきれませんでした。

 

 理由の一つ目。
 アクションがあまりに濃密で、追いつききれなかったこと。十代のころ、タミヤの年鑑カタログを毎年買って眺め、1/35キットをいくつか組み立てる程度には戦車を知っているつもりでしたが、いやはや、まったく目が追いつきませんでした。学校ごとのわかりやすいマークや色分けによって、認識しやすくするための工夫がされてはいるものの、乱戦で細かく視点が切り替わるとなかなか厳しい。
 物語やキャラクターにも、のりづらい部分がありました。知波単学園の無策ぶりには、物語への没入を妨げるくらいに腹が立ってしまって辛かったです。プラウダのカチューシャと仲間たちのくだりもちょっときつかった。あそこ、もっと逼迫している描写を入れないと、カチューシャ以外の自己犠牲が納得しづらいと思うんですけど。

 ただし、これらのことは、二度目には気にならないはずです。むしろ、飲み込みづらさを乗り越えて「わかるわかる」となったとき、楽しさは増していくでしょう。欠点のあるキャラクターたちも、繰り返し目にすれば愛着もわいていくかもしれません。

 

 結構大きな問題なのかも、と思うのは理由の二つ目。
 あまりに、登場人物たちが傷つかないことです。

 劇場版は、TV版の時点でもすでにスピーディで迫力のあった戦車アクションに、一層の力をかけています。何十両という戦車・重戦車が行きかい、大量の砲弾が飛び、爆発を巻き起こす。映画版にふさわしい巨大兵器も登場する。TV版にあった呑気なスポ根もの雰囲気はかなり減退して、破壊のスケールと危険の度合いは確実に増している。
 しかし当然、戦車道は安全だという設定は変わりません。どんなに大口径の砲弾を近距離でやり過ごしても風圧で人体が破壊されることはないし、ハッチから半身を乗り出している車長が、横転した車両の下敷きになったり、爆発の余波を受けたりして傷つくことはない。
 ぼくには「戦車内はカーボンコーティングされているから安全」という設定がカバーできる範囲を超えて、少女たちは危険にさらされているように見えます。

 

 ぼくが違和感をおぼえるのは、少女たちが傷つかないことを論理立てる設定の弱さそのものではありません。
 「これがガルパンだから」という前提のもとに、傷つかない少女たちを受け入れられる、受け手・作り手の心です。

 

 この構図は、戦意高揚のための戦争映画に近いのかもしれないと思います*1
 現実の兵士たちは傷ついている。しかし、自陣営の兵士は強く、傷つかないということを信じたい作り手・受け手の欲望のもとに、映画のなかの兵士たちは傷つくことを許されない。
 『ガールズ&パンツァー』の場合、少女たちは作り手・受け手の燃え/萌えを充足させるために、傷つくことを許されない。
 それはとても不遜なことではないでしょうか。

 

 これまで、アニメその他であまた描かれてきた戦闘美少女たちはみなそういうことを強いられてきました。それでも、彼女たちの傷つかなさはあくまで特別な能力や存在としてのみ描かれてきたはずです*2ガルパンは、アクション描写の苛烈さと、傷つかなさとの距離が、あまりに離れすぎている、とぼくは思います。あれほどのアクションが描写されるいっぽうで、少女たちの傷つかなさが、作品世界内でも、作品外の受け手にも、「普通のこと」ととして受け入れられすぎてはいまいか。

 

 ここでぼくの考えは飛躍します。
 このように、フィクション内の少女たちの傷つかなさを無自覚に受け入れられることは、萌え文化がしばしば、現実の女性の味わう傷を実にあっさりと無視してしまうことに繋がっているのではないか、と。
 たとえば、SNS上で、性的な表現に対してなんらかの不快感を示す人たちへ「それはあなたの気のせいですよ」「価値観の違いですよ」と声をかけることのできるおたくたち。彼らの行為は、表現によって心が傷ついたことを表明している人間に対して、「あなたは傷ついていませんよ」と言っているに等しい。たとえ過敏であろうと、不幸なアクシデント的接触だろうと、萌え文化によって「傷ついた」と感じたその人の心のありよう自体は確かにあるはずなのに、それを否認してしまう。
 他者の傷に対する不感ぶりは、『ガールズ&パンツァー』が示すような「少女たちの傷つかなさ」によって育てられるのではないか?

 

 いやいや、もちろん、フィクションはフィクション、現実は現実です。それはぼくだってわかっている――というか、そう信じたい。娯楽は娯楽として楽しんで、現実は現実で他者を慮って生きている。ガルパンおじさんたちはみなそうだと思いたい。
 しかし、かようにもやもや考えてしまう要素をもつ映画を「ガルパンはいいぞ」の一言*3で済まされてしまうと、いやいや、この映画ってそんな簡単に済むんですかね、と疑問を呈したくなる。
 時折見かける「『マッドマックス 怒りのデス・ロード』と並ぶ傑作」という意見もまた、ぼくの疑問に拍車をかけます。あれは、そうした倫理的ハードルをクリアした傑作なのだから。

 

 そういうわけで、自分は「ガルパンはいいぞ」とは言わないでおきます。

 

 なお、はっきり言っておきたいのですが、ぼくはこの映画が好きです。二度と観ない、とは決して思わない。
 これまで語ってきたような、少女たちの傷つかなさについても、その歪みこそが日本の萌え文化の根っこにあるのであって、そこで育ってきた歪んだ文化に自分は魅了されてもいる、ということもわかっているつもりです。
 だから、もし今後、どうしても、最短の言葉でガルパンのことを讃えなくてはいけない場面がきたとしたら、こう言うと思います。「それでも、ガルパンはいいぞ」、と。
 潔くないって? ま、それがぼくの「道」なんすよ。

*1:とか言いつつ、ぴったりくる具体例を引けない程度にしか戦争映画を知らないのがぼくのいかんところです。

*2:あるいはパロディ、ギャグとして。

*3:自虐的・露悪的なニュアンスを含んでもいることもまあ、わからないではない。わからないのだけれども...。