こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

森川嘉一郎『趣都の誕生』

趣都の誕生 萌える都市アキハバラ

趣都の誕生 萌える都市アキハバラ

 松岡正剛の千夜千冊でもとりあげられている(『趣都の誕生』森川嘉一郎 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇)。
 冒頭で、

この青年がなぜわざわざアキハバラを選んで“一切の清算”をめざしたのかということについては、ぼくが知るかぎりはほとんど本気な議論は出ていないままになっている。彼はアキハバラでなくとも、どこでも手当たり次第の殺人をしたがったのか。そうではあるまい。

とぶちあげているので、これは松岡流に「なぜ秋葉原だったのか」について提示するのか、と期待したのだが、そのあたりははぐらかされている。
 でも、(『趣都の誕生』とはなんの関係もないんだけど)「萌え」と「キレる」ことを繋げてみせるくだりには新鮮さを感じた。
 安直にこの問題を提示すれば、それは単に秋葉原やオタクを切断処理するだけに留まってしまうけれど。

 しかし「萌え」がわかったところで、アキハバラの犯罪とはまだつながらない。そこには「キレる」が関与する。「切れ」ではなく、「切れる」でもない。キレるのだ。こちらは漢字変換がない。
 これについては『新世紀エヴァンゲリオン』の主人公のパイロット、碇シンジが敵の使徒と戦うたびにキレていたことを知るといい。シンジは14歳の設定だが、シンジがキレることによってロボットが暴走し、敵を倒してもその暴走はとまらず、ついにはシンジはロボットと完全融合がはたせる。逆にいえば、キレないかぎりは攻撃性は生まれないし、未来との合体もない。
 「萌え」であって、かつ、キレていく。この「萌え」と「キレ」の出会いはかなり異様な取り合わせであるが、このような縫合こそ、「逆ギレ」という言葉もつくっていったのだった。しかもこの「キレる」にはつねに「癒し」が対応しつづけている。

 おぼろげな結論としては、

 アキハバラという「趣都」は、しだいにアニメのなかでおこった出来事を反芻するしかない方向に向かって“特区”になってきたという話なのである。

ということで、ここからドナルド・リチーの『イメージ・ファクトリー』評へとリンクされている(『イメージ・ファクトリー』ドナルド・リチー 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇)。

 日本に日本らしさを求めてやってきた観光客をはじめとするガイジンたちの多くが、決まって不満に思うことがある。
(中略)
それは、日本に来るとつねに「新奇なもの」ばかりに取り巻かれてしまうということだ。おかげで石庭と五重塔を見た帰りにダッコちゃんやポケモンに出会い、歌舞伎座と浅草に寄った帰りに竹下通りやアキハバラに走り、そこにも名状しがたい“変な日本”があることを見いだすことになる。
 いや、ガイジンが不満なだけならまだしも、いまやこの現象に日本の知識人がお手上げなのだ。それどころか大方が、クール・ジャパンでいいんじゃないかとさえ思い始めている。
 が、それでほんとうに、よろしいか。それって「日本という方法」の成果なの? ジャパン・アズ・ナンバーワンの焼き直しじゃないの?

 かつてロラン・バルト(714夜)は、20世紀後半に語られるイメージは、「見かけとそれ自体を同一視すること」になりさがったと指摘した。
 当初、この「イメージの堕落」を最もスキャンダラスに体現したのはテレビであった。ロバート・マクニーは早くから、テレビの本質が「咀嚼しやすさ」「複雑さの排除」「洗練からの逸脱」「視覚的刺激の連打」「言葉をアナクロニズムとして扱うこと」などにあると見抜いていた。まさに、その通り。

 松岡正剛はここで、秋葉原は堕落したイメージの聖地としての秋葉原で、「アニメのなかでおこった出来事を反芻するしかない」ゆえに、加藤が自身のオタク趣味のなかに救いを見出せず、フィクション(理想)の反転として殺人を行った、というふうに述べている――と読んでいいのだろうか。

 ぼくが『趣都の誕生』を読んで考えたことは、ちょっと違う。

オタクたちが秋葉原に集まってきた直接の理由は、90年をターニングポイントとするパソコンへの主力商品のシフトである。だが同時にそこには、自分たちが体験し得なかった60年代への、ノスタルジーと憧れが存在しているかもしれない。それが輝かしかったころの<未来>に対する憧憬は、オタク趣味の漫画やアニメに直接間接さまざまに見受けられるからである。

 オタクとは、この喪失の申し子である。さまざまなオタク趣味は、この喪失を補填すべく生成されている。家電の街からオタクの趣都へという秋葉原の変化は、オタクという人格の発生の、都市による巨大な模倣なのである。

 秋葉原の持ついわゆる「聖地」っぽさが、多くの人々をひきつけてきた。ぼくもそうだし、おそらく加藤もそのひとりだろう。
 加藤の場合、最終的に自身の「喪失」を「補填」することができなかった。宮台慎司はこんなふうに表現している。

 秋葉原事件は、オタクになっても救われない若者がいるという今日的なコミュニケーションの状況を示すだろう。秋葉原事件の被害者は多くが、オタクの「コミュニケーションの戯れ」化を象徴するかのように、連れ立って秋葉原に来ていた若者たちだった。今日、「友達がいない者」にとっては、秋葉原でさえ居場所にならないということなのだ。
 かつてはオタク文化が、代替的地位達成を可能にすることで、社会的包摂の機能を果たした。ところが、かつてオタク文化に包摂され得た者が今日では包摂されなくなった。これは皮肉にも、かつてはオタクとして排除された者が、ネット文化が社会的包摂の機能を果たすようになって、「コミュニケーションの戯れ」に興じられるようになったからだ。
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 なるほど。

 『趣都の誕生』と同時期に桃井はるこの『アキハバLOVE』を読んでいて、自分のなかで「なぜ加藤が秋葉原で事件を起こしたのか」という問題についてはある程度の思考の道筋ができたように思う。
 真相というよりか、自分のなかで受容するための道筋。
 あ、これも結局切断処理なんだろうか。うーん。

アキハバLOVE

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