こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

出張映画の傑作『マイレージ、マイライフ』

 蠍座にて鑑賞。

 30代前半にして早くもアカデミー賞になんどもノミネートされている若き才人、ジェイソン・ライトマンの長編三作目。
 恥ずかしながら自分は『JUNO』も『サンキュー・スモーキング』も未見なのだけれど、分割された画面に空撮映像が次々映し出されては切り替わっていく、品良くスタイリッシュなオープニング、そしてジョージ・クルーニーの優雅な出張生活の茶目っ気たっぷりな描き方によって、映画序盤からこの人のセンスのよさを思い知らされた。

 ぼくは出張をこのむ。しかしその心は、ある種の病にとらわれているといっていいと思う。
 常に自分の身はどこかへ至る道の途中にあり、ここでないどこかにきっとすばらしいものが待っている、という期待を胸に抱えて旅をする。それは愚かなことだ。
 どこへ行こうと自分は自分であり、世界が(少なくとも日本のような社会では)平均化されたいま、どこへいってもそこは異郷ではなく自分のいる「いま、ここ」にしかならない。そういう状況で、憧れをもって移動するなんて愚の骨頂なのだ。そのあこがれを、ビョーキと罵られてもぼくは文句を言えない。

 クルーニー演じる主人公の無駄を省いた出張スタイルはいっけん、そうした青臭い理想主義的な心とは一線を画しているようにみえる。しかし、彼のこだわりは、マイレージカードの殿堂入り、そして飛行機の機長に会えるという副賞を目指してのものであり、非常に少年じみた、実にボンクラな願望の表出である。世界一セクシーでクールな出張界のスター:ジェームズ・ボンドの活躍が、子供じみた秘密兵器や、時代錯誤のハードボイルド的価値観*1につねに彩られていることを考えれば、この大人っぽさと子供っぽさの同居するキャラクターは理解しやすい。
 だから、この作品もともすれば、出張人の理想を体現してその欲望を満足させるだけの映画になったのだろう。苦労しながらもどうしても流浪しちゃう俺ってばカッコいい、という自己愛。
 しかし物語の展開は、ハリウッド映画的ハッピーエンドを期待させるだけさせておいて、見事に主人公を裏切ることになる。この展開は、主人公とある登場人物の関係をめぐるものなのだが、完全なる破局に陥らず、主人公が出張し続ける限りにおいて彼らの関係は継続される。
 自分は出張という生き方を選んだ。移動しつづけることで、常に理想を追い求めることができるが、しかし決して安息は得られない。そう悟って、彼はふたたび飛行機に乗り込んでいく。クルーニーの旅姿は軽やかでも、その心に抱えられているのは重い業なのだ。
 流浪する自己を肯定できるのは出張の途上でのみだが、出張し続けるかぎり、自己を安らかに開放できる場所を見出すことはできない。自己肯定と自己否定が不可分なこの心象を、映画は航空機のイメージを重ねあわせて鮮やかに描き出し、幕を閉じる。

 それすらもやはり、出張をこのむ人(特に男性)の自己撞着の極みだと笑うことはできよう*2
 が、日頃出張にいそしむわれわれ、一人きりの自由な一日を過したあと、翌日安ホテルの部屋で一人目覚めるときのあの渇きを知るわれわれ出張人は、心を震わされることなしに、彼の再出発を見送ることはできない。
 出張映画史に残る傑作である。

*1:「大人の男」を目指すのは子供だけである

*2:またこうしたドラマがもつ危険性も指摘できる。主人公が退職を促す人々のなかの一人、J.K.シモンズ演じる男のその後はどうなったのか?シモンズの愛嬌あふれる演技ゆえ、彼はきっとフランス料理人として再出発できたろう、主人公と同じく再び理想を求める途上につけたろうと観客はおもえるのだが、それはまやかしではないか?輝かしい仕事、自己実現、そんなものは求人情報サイトの惹句にしか存在しない嘘っぱちではないのか?――ぼくはこの映画が、そうしたネガティヴな点も念頭に置いて作られているとは思うけど、それでも受け手によっては辛く苦いものになるかもしれない。この映画を観て、シモンズや新人女性社員アナ・ケンドリックのように「再出発」できると思ってしまう人がいたとしたら、それは危険だよ、と言ってやりたい。