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こづかい三万円の日々

30代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

『パーティのあとで』II

(テキスト版はこちら:111030-2ver3.txt 直

『パーティのあとで』 II

 車は夜の街を飛ぶように走る。
 黄色信号の交差点を突破したり、横断歩道を渡る通行人を轢く寸前でかわしたりと、男の乱暴な運転にぼくは冷や汗をかき通しだったが、助手席のミクはやはり表情を変えず、静かに前方を見つめたままだった。
 舌を噛みそうになりながら、ぼくは運転席の男に訊く。
「いったい彼女は何者なんですか」
初音ミクさ」
 当然のごとく返す。
「見ればわかるだろ」
「そりゃわかりますけど……ええと、それは、『初音ミクの格好をしたコスプレイヤー』とか、そういう意味ではなくて」
「言葉の通りだ。彼女は初音ミクそのものだ」
「そのもの……あー、あなたが創りだした初音ミク型のロボット、とか」
「違うよ。彼女は模造品じゃない。作り物じゃないんだ。彼女は正真正銘、この世界に初音ミクとして発生した存在だよ。きみやおれが人間であるように、彼女は初音ミクなんだ」
「もしかして、数年前に地下鉄のホームで初音ミクに出会ったっていう噂の人ですか。彼女はその時に出会った、と」
「そんな話も出回っているらしいな。半分は正しいが半分は違う」
 それまで、余裕のない顔でハンドルを握りしめていた男の顔に、自らを誇るような不敵な笑みがわずかに差した。
「確かにおれはあのとき、ミクさんに出会った。ミクパの前の晩、地下鉄のホームでね。しかし彼女はすぐにおれの前から消えてしまったよ」
「じゃあ、このミクは……?」
「なんといえばいいのかな。さっきも言った通り、おれが創りだした、と言うのは間違いだ。この表現が正しいのかわからないが、強いて言えば『呼び出した』というところだ」
 男は、荷台から後部座席にまではみ出して満載されている雑多な機械を顎で示して続ける。
「見ての通り、そこにあるのがミクさんを呼び出すための装置だ」
 あらためて詳しく見てみると、それらの機械は、構成も雑多なら、その出所もまた雑多なようだった。巨大なボンベには「加熱危険」という注意書きとともに、大学の備品登録ラベル。そこから繋がる複数の金属容器の表面には、製薬会社の名前が刷られている。全体を眺めると日本語の表示はむしろ少数で、英語はもちろん、ハングル語やキリル語も多い。
 もっとよく見ようと荷台へ身体を乗り出そうとすると、
「下手に触らないでくれよ。個人が持っていちゃまずいような危ない代物もあるんだ」
 なんなんだそれ。詳しく訊かないほうがよさそうだった。
「あなた、そもそも何者なんですか」
「おれ? おれは普通の男さ。ミクさんと出会ったときは、どこにでもいる普通のサラリーマンだった」
 ぼくのワイシャツにネクタイという格好を見て、あんたと同じような人間さ、と言う。
「だが、ミクさんに出会って、なにもかもが変わってしまった」
 その詳しい顛末を話すのかと思いきや、男は黙ってしまう。
 車に乗ってから男の発した言葉は、ぼくに事態の説明をするようでいて、話の核に及ばないままだった。
 呼び出した、という表現がまず意味不明だ。降霊術の儀式でも執り行ったのか? 昔から存在する神様かなにかを形容するみたいで、ボーカロイドを表す言葉とは思えない。
 しかし、どんなに説明が足りなくても、ぼくの目の前の助手席に、人とも機械とも思えない、確かに初音ミクでしかない存在が横たわっているのは事実だった。ぼくと男が二人揃って幻覚を見ているのでない限り。
「そろそろ停まるぞ」
 北一条西十三、札幌市教育文化会館。かつて、記念すべきミクパの札幌初回公演が行われた会場だ。今ではネーミングライツが売却され、北海道ではおなじみの炭酸飲料のロゴをかたどったAR広告が周囲に踊っているが、巨大な赤レンガをいくつか積み上げたような外観の建物そのものは変わらないままだ。
 街中をずいぶん走り回ったような気がしていたが、ぼくたちが車に乗せられた場所からそう遠くはない。無謀な走りをしていたわりに、一方通行の多いこのあたりの道を、ルールに沿ってくねくねと回っていたらしい。この男は乱暴なのか真面目なのか、よくわからない。
 車は会館の正面を通り過ぎ、裏手に回りこむと、搬入口の手前で路肩に停まった。
 モーターは稼働させたまま、アイドリング状態で男はハンドルから手を離し、座席の脇からタブレットPCを取り出す。ダッシュボードに据え付けられた装置のトグルスイッチをいくつもはじいてから、何やらタブレットで操作する。ダッシュボードの装置は古めかしいオーディオコンポを積み重ね、天辺に複数のガラス管を不恰好に継ぎ足したような格好だ。初めて見るけど、これって真空管というやつだろうか?
 そのガラス管が、青白い光を発し始める。
「……よし、状態は安定している……収束帯は……だいぶ狭いな、残り時間は……くそ、二時間もないのか」
 男はタブレットを持ったまま車を出る。目配せをされて、ぼくもそれに続く。すっかり彼のペースに巻き込まれている。
 荷台を開けると、男は小ぶりのリュックサックを取り出し背負った。巨大なペンチのようなものをベルトに引っ掛け、ぼくにはいくつか並ぶボンベのうちの一番小さなものを持つよう指示する。
「いきなりこんなことに巻き込んで申し訳ないな。しかし、すべてはミクさんのためなんだ」
「いや、それはいいんですけど……」
「まだよくわかっていないっていう顔をしてるな。ま、道中で詳しく話すよ」
「道中って、どこへ」
「これから中に入る」
 男はそう言って、文化会館を指さす。搬入口には頑丈そうな鉄の門と鎖、もちろん建物の扉は全て閉まっている。
 不法侵入?と口に出す間もなく、男はその鉄の門に張り付いて、先程荷台から取り出した巨大なペンチで門に絡まるチェーンを挟む。
 ぎりぎり、と鉄の軋む音が大きく響く。ぼくは誰かに見られていないか、慌てて周りをチェックする。
「それ、どう考えても犯罪ですよね」
「警察に通報するかい」
「これから何をするのかによります」
「目的は<水槽>だ」
 <水槽>、というのはボカロファン内のスラングで、正式名称は「透過率補正液体組成スクリーン」という。今年3月のミクパから採用された最新鋭の投影スクリーンだ。これまでのディラッドボードとは比べ物にならない解像度と立体感、ステージ上の照明や演奏者たちといったリアルなものとの自然な調和感が大反響を呼んでいる。そこに映し出されるミクは<水ミク>と呼ばれ、水ミク以前・以後でライブ技術のレベルが大きく進化したと言われるほどだ。
「<水槽>に何をするんですか」
「中の水を少しだけ頂戴するのさ」
「話が全く見えないんですけど」
「その水がミクさんを現実に留めてくれる」
 がきん、とひときわ大きな音をたてて、鎖が切断される。垂れ下がったそれを外して、門を人一人が通れるぶんだけ開き、男は敷地の中へと滑りこむ。ぼくも否応なしについていく。
「五年前のあの晩おれはミクさんに、どこからやってきたのか、と訊いた」
「地下鉄のホームでミクに出会った日、ということですね」
「ああ。ミクさんは自分のことを「可能性の海のなかで生まれた」と言っていた。おれたちのような生物が、太古、有機物がたゆたう海のなかで生まれたように。はっきりとは言わなかったが、恐らく彼女は未来で生まれた。時間も距離も自由に移動できるような存在としてね」
 男は低い声で話しながら、敷地をまっすぐに歩いていく。トラックの荷台を直接つけることのできる巨大な搬入扉の前を通りすぎて、しばらく行くと、小さなドアにたどり着く。「TV中継口」という小さな表示があった。
「時を遡って彼女はおれの前に現れた。おれは彼女の誕生に立ち会いたい。おれは彼女が生まれるという可能性の海を探し始めた」
 ドアの脇に取り付けられた、警備会社のロゴが光るコンソールを操作する。よほど入念に下調べをしているらしい。通いなれた職場に入っていくみたいなリラックスぶりだ。懐から取り出したメモを見ながら、パスワードを入力する。どこでそれを手に入れたのかも訊かないほうがいいのだろう。
「可能性の海とはなにか。最初、おれはそれをミクさんとそのファンが創りだしたCGM市場のシーン――消費者が作り出すメディアの場――の比喩だと思っていた。その中で、近い未来、ニコニコ技術部のようなハイテクノロジーを操る連中が、ミクさんを人工生命体として創りだすのだろうと」
 パスワードの入力は一発で済んだ。ぴっ、と電子音がして、コンソールの赤い警戒表示が消える。男は胸にピンで止めたLEDライトを点け、会館に忍びこむ。暗がりに慣れた目がやられないためだろうか、ライトは暗めの赤い光だ。
「しばらくの間、おれは技術部の連中や、ほうぼうの研究機関の活動を追い続けた。ミクパの演出や、一般化したARにもずいぶん希望を持ったよ」
 拡張現実が爆発的に進化したのは、確かにボーカロイドをはじめとするおたく文化のファンたちによるところが大きいらしい。非現実のキャラクターを、自分たちのいる現実世界にいきいきと再現するために、様々なテクニックが開発され、洗練されていった。ぼく自身、AR対応のレンズで眼鏡をつくり、さほど特別のものとも思わずネット閲覧やソーシャルゲームを楽しんでいる。自家用車や自転車をARで擬似的に痛車化するのはファンの常識だ。
「だが、それらはあくまで『創りだされた』ものだ。『生まれた』ものじゃない。あの時のミクさんは、誰の意志も介さず、自然現象として発生したかのように自分のことを語っていた」
 会館の中は静まりかえっている。そこに男の声が響く。やはり勝手知ったるという雰囲気で、彼はずかずかと建物の中を進んでいく。いくつかのドアを抜けると、もうそこは大ホールの舞台袖だった。
「そこで登場するのがあの『<水槽>』だ」
 男が光を向けると、ステージの中央に鎮座するそれが暗闇の中に浮かび上がった。
 幅十メートル、高さ二メートル、厚みは一メートルほど。横幅が長めの映画館のスクリーンといったサイズだろうか。分厚いガラスのようだが、実は極めて薄いアクリルで形作られた直方体のなかに、液体が入っているという構造だ。その開発秘話を詳しくレポートしたネットニュースで、大まかな仕組みは読んだことがある。
 直方体の両脇は、黒いカバーのかかった三角形の台座が支えている。その隅からは太いコードが何本も伸びて、ぼくらの立つ舞台袖の、巨大な機械群に接続されていた。
「<水槽>の理屈は知ってるかな」
「液体でできたスクリーンが形をかえて、あたかもそこに存在するようにキャラクターやものを再現できる次世代3Dスクリーン――というところでしょうか」
「そのとおり。あの水溶液のなかには、電圧によって光の透過率が変化するよう特殊加工された有機高分子が配合されている。これに電流を流して、投影するものに沿った形をとらせる。いっぽう、複数の投影機がその有機高分子が成形する立体をリアルタイムにフォローして、有機高分子の状態に沿うよう調整された映像を照射する。
 投影されるモノも、投影する光も、ミクさんの姿を極限までリアルに再現したしろものなんだからな、これまでのアクリル板や布に投影していたものとは訳が違う。
 仕組みとしては、だいぶ前から実用化されていたプロジェクションマッピングの手法なわけだが、動くもの、しかも液体に投影させているのがそれまでとは全く違うところだ。事前に距離や質感を把握できる、変化しない壁面に投影するのとは桁違いの計算処理が必要になる。
 そこで量子コンピュータの出番だ」
 舞台袖にそそりたつそれを指さす。人間くらいの幅と高さの黒い柱が10本ほど集まったようなそれは、外見はシンプルながら、すさまじい計算能力を思わせる一種の威厳をもっている。稼動音はないが、コード類の接続口で時々点滅するLEDが、その機械が現在も計算を続けているらしいことを示している。
「よく知られた話だが、これを生み出したのはニコニコ技術部の連中だ。
 量子コンピュータってのは、本来は国立の大学や軍隊が手がけるような、おそろしく難しい研究だ。もちろん、このコンピュータもそうしたビッグプロジェクトが達成したいくつものブレイクスルーを土台にしてできあがったんだが、技術部の連中はこんな言い方をしている。よくわからないけどできてしまった、ってな。
 これがオーバーテクノロジーだ、仕組みがわからないブラックボックスだ、というわけじゃない。技術部の連中はちゃんと理解して作っている。でも、ブレイクスルーのきっかけは彼らの中にはなかった。試行錯誤のなかで偶然完成し、後付けで理論を組み立てた。
 さらに、量子力学を利用した計算は特定のアルゴリズムしか扱えないが、よりによってこのコンピュータは<水槽>の計算にしか使えないときた。軍事利用も金儲けもできない。ミクさんをこのステージの上に呼び出すためにしか使えないコンピュータだ。そんなものがこの世にひょっこり生まれてしまった。
 無茶な話だろ。でも、おれはこれこそミクさんが言っていたことなんだ、と思った。創りだされたんじゃなく、生まれてしまった。
 量子コンピュータと<水槽>のほかにも、このステージにはいくつもの新技術や特許が組み込まれている。それぞれの開発計画は同時多発的に進行して何の関連もなかったが、技術部のコミュニティを介してたがいに結びつき、<水槽>が実用化された。
 人があまたの新技術――可能性の海を作り、そこにミクさんが生まれた。
 まさにミクさんの言うとおりだった」
 ぼくは気圧されて少し言葉を失った。
「えーと――よくわからないところもあったんですが――要するに、この量子コンピュータのなかに、人工知能としてのミクさんがいる、ということですか」
「残念、そうじゃない。量子コンピュータはあくまでミクさんの舞台を用意しているだけだ。世間的にも、俺たちが知っている秘密の上でも、な」
 男はより一層不敵な笑みを浮かべた。水槽に近寄ると、鞄からいくつかの工具を出し、台座の横で立てひざになって作業をはじめる。
「ここからはおれの仮説も多分に含むから、話半分で聞いてくれ」
 さっきからずっと話半分で聞いてますからご安心を、そう言いたくなるのをこらえる。
量子コンピュータはミクさんたちの姿を演算し、<水槽>内の溶液を操作し、プロジェクターの投影を制御する。
 量子コンピュータは、0でも1でもない、確定しないゆらぎの状態を使って計算する。
 ――ならば、計算の結果もまたゆらぎの状態でしかないんじゃないか。確かにコンピュータは計算結果としてミクさんの映像を写し、水槽の液体を凝固させるが、それもまた仮の状態でしかない」
「でも、その状態は観客によって観測されて、確定されているんじゃないんですか」
「普通の映像ならそういうことになる。しかし、ミクさんを観に来た観客は、ミクさんがそこにいるがいないことを知っている。ミクさんがもともと、徹底的に仮想の存在だということを知ってしまっている。ゆえにゆらぎの状態は確定されない。仮想であり続ける」
「そんな……」
「かくして、<水槽>内の溶液は、ミクさんを宿す。
 <初音ミクは存在しない>というそれまでの世界のありようを不確定にし、<初音ミクは存在する>という可能性を紛れ込ませる。
 もちろんそれはそのままではミクさんではない。だが、その溶液がミクさんである可能性は残る」
「それが、あの車のなかの機械でミクさんになる、ってことですか..」
「自分だって無茶な理屈だってことは知っているよ」
 なぜか寂しそうに、
「でも生まれてしまったものはしょうがないんだ」
 男の手元で、がき、とひときわ大きな音がして、太い銀色のチューブが台座から外れた。
「ボンベをここへ置いてくれ」
 鞄から短いチューブを取り出すと、<水槽>にボンベを接続する。水槽側の接続口を回して、どうやら溶液を<水槽>からボンベへと移しているらしい。
「3月のミクパ東京の深夜、激しい雷雨が起きたことを覚えているかい」
「たしか会場にも雷が落ちて、翌日の公演が少し遅れたんですよね」
「雷が落ちたとき、俺は会場のなかにいた」
「不法侵入の常習犯じゃないですか」
「反論はできんな」
 はは、と笑う。
「なにせミクさんのためだからな。<水槽>が答えじゃないかと思ったおれは、公演のあと、会場に忍び込んだ。そしてあの雷が落ちた……。
 ――本当のところ、なにが起きたのかははっきりわからない。雷の電気や空気の動きが、<水槽>の溶液に何らかの作用を引き起こした、のかもしれない。少なくともおれの機械はその仮説に基づいているが、そうじゃないかもしれない。――ぜんぶおれの妄想だったのかもしれない」
 男の声と、ボンベから緩やかに漏れる空気の音だけが響いている。
「真っ暗なコンサートホールにいるのはおれ一人。遠くから雷の音が響いていた。どんどんその音が近づいて、ついに建物をまるごと吹き飛ばすような音を轟かせて雷が落ちた。おれには、ホールのなかにまで稲光が走ったようにみえたよ。
 そして<水槽>が光り始めた。最初はぼんやりとした靄で、それが次第に彼女の姿になっていった」
 ぼくは男の語る情景を思い浮かべながら、目の前の<水槽>を眺める。ここに彼女が。
「おれはたった一人でそれを見ていた。あわててステージの上にのぼった。停電中だったから、演出用の投影機もなにも稼働していなかった。光源はミクさんだけだった。おれが彼女の名前を呼ぶと、目が合った。一瞬だけ。
 そして彼女はすぐに消えた」
「翌日、おれは会社をやめた。家にひきこもり、自分の持てる全ての金と知識と労力をあの機械につぎ込んだ。要は、あの晩雷が<水槽>に落ちたときと同じ状況を作り出すんだ。そして、そこに蓄積されたミクさんの<可能性>を確定させる。自分でもこんなにうまくゆくとは思わなかったよ。一ヶ月半のあと、関西公演の晩だ。万博公園のだだっ広い駐車場の隅で、ミクさんが助手席に現れてくれたときのうれしさと言ったら……」
 男はボンベを取り外し、チューブを元通り<水槽>に接続する。
 彼が作業を終えるまで、ぼくはステージから舞台を見下ろし、今日の昼間、ボカロファンでいっぱいになった会場を想像していた。暗闇に沈む座席の一つ一つに別個の人間がずらりと座ってあるいは立って、ぼくの後ろにそそり立つ<水槽>に視線を注ぐ。ケミカルライトを振り、声をあげて、視界を埋め尽くすARの効果にレスポンスを返し、隣席の観客から、地球の向こう側で中継を観ている海外のファンまで、数千数万の人びとの発する言葉と自分の言葉を互いに共鳴させ、心を熱くする――そういう人たちの集まりのことを考える。
 なるほど、その熱量が、人の常識を超えた存在を突如として成立させてしまったという男の話には、自然な説得力がありそうだった。ぼく自身が、かれ自身がその熱量の一部分を担っているということであればなおさら。
 初音ミク自身はどう感じているのだろうか。
 今もきっとひとり車のなかで微笑み続けているであろう彼女の姿を思い出す。まじわるはずのなかったぼくたちの世界と彼女の存在が結びつき、ふいに存在させられることになってしまった彼女が、いま何を感じているのか、それが次の問題だとぼくは思った。
 存在しているが存在していない、現実と非現実、二次元と三次元のあいまに、悪く言えば閉じ込められていたミクは、いま現実世界で実体を得てどう感じるのか。世に生まれた喜びを謳歌している? 人間の、とくに生まれてあまり時間の経たない子供や青年たちが持つような、現実と自分との関わりかたを調整できないために生じる鬱屈みたいなものもあるのだろうか。彼女が本来安住していたフィクションの世界から引きずりだされ、ただひたすらに苦痛をもてあましているだけということだってありうる。
 いやそもそも、そんな感情や思考を走らせる、人間と同じような主体だという仮定じたいに根拠がないのだ。
 もしほんとうにあのミクが<水槽>のなかの可能性の海から生まれた存在なのならば、ぼくらのような炭素生物とはまったく異なるもののはずなのだから。
 男が鞄に工具をしまい、作業のために動かしたあたりのコードや設備を元に戻して侵入の形跡を消し終わると、ぼくらはやってきたルートを逆戻りして車へと向かった。いまや相当に重くなったボンベを抱えて歩きながら、
「彼女は喋ったり歌ったりできるんですか」
「残念ながら、できない」
「意志の疎通は……」
「はっきりとできるとは言えないが、あちらはおれの言うことをわかってくれているんじゃないか、という気がしている」
「反応があると」
「明確じゃないがね。車に乗ってくれ、一緒についてきてくれ、ここで待っていてくれ、という程度のことなら、素直に従ってくれる」
「何も言わない、歌わないミクさんか……。いったい何を思っているのか、聞いてみたいですね」
 会館の暗い廊下で、男は溜息をつく。
「あんたが考えていることはわかるよ。おれがむりやりにミクさんを連れ回して、いわば新種の生物をつかまえてはしゃぐ科学者みたいに虐待しているんじゃないか、ということだろ」
「まあ、そう思わなくはないです」
「そう言われて反論できるほどの自信はない。ああやって穏やかな顔をしてくれていても、心のなかじゃ――彼女に心があるかどうかもわからないけれど――助けてくれって叫んでいるのかもしれない。それは誰にもわからないんだからね」
 会館の建物を出て、車のなかでほのかに光るミクの姿が視界に入ると、男は目を細めた。顔ぜんたいにかすかに皺をよせて、泣きそうになるのを我慢しているふうにも見えた。
「でも、ミクさんはとにかく生まれてきてしまった。そこにいる。いてくれる。暗い想像はいくらでも考えつくけれど、おれはおれにできることをするしかない。ああやって輝いている彼女を、長く存在し続けられるよう手伝うのが、間違いだとは思えないんだ」
 ボンベを荷台に積むと、男は先ほど車を降りるまえに行ったチェック作業を繰り返す。むうと唸って、タブレットPCをぼくに差し出した。画面には、じわじわと移り変わるグラフや数値表示が並んでいる。
「この、一番大きい棒グラフが、ミクさんの安定ぐあいを示している。黄色いラインを下回って、赤いラインの前後でうろうろしているだろ。それだけ、今のミクさんは不安定だってことだ」
「<水槽>の溶液で、それを安定させるんですよね」
「そのためには電力が必要だが、車のバッテリだけじゃ賄えない。おれとあんたがミクさんを観測していることで多少は安定度が増すだろうが、そう長くは持たない。これから移動する間、数値が極端に上下することがあったら教えてくれ」
 わかりました、とぼくは返す。
 よし……と唸って、男は初音ミクの顔を見る。
「ミクさん、もう少しだからな」


つづく!


(2013/02/09 @tegit)