(テキスト版はこちら:111030-3ver3.txt )
『パーティのあとで』 III
今度のドライブは長くなった。街中の電気スタンドや電線を通っている電力では駄目なのだそうだ。変電所や都市間高電圧線から失敬する必要がある。男が懐から取り出した札幌市の白地図には何箇所かバツ印がつけてあって、どうやら事前に下見して、それらのスポットのなかでも特に忍び込みやすいところをチェックしてあるらしい。
男は、輪郭が薄まったミクの姿を横目で心配そうに見守りながら、車を走らせる。
「そういえば、ミクはいつから迷子になってたんでしょう」
「モニタリングの記録によれば、夜の九時過ぎだな。この近くの駐車場で、会館に忍び込める時間になるのを待ってたんだが、ついうたた寝してしまって」
ぼくはさきほどの、酔っぱらいたちとすれ違ったミクが、認識されず不安定になっていったことを男に話した。
「人によっては、そもそもミクさんを認識できないのか……」
「あの調子じゃ、ぼくがホームで出会う前に、もっと不安定になっていてもおかしくなかったように思えるんです。でも、ミクが車を抜けだした時間によっては話が違う。九時っていうと、ちょうどミクパが終わったころですね」
「……たしかにそうだな」
「そのころなら、街にもミクのことを知っている人がたくさんいたんじゃないでしょうか。だから、彼女を認識できる人も多くて、ある程度は安定していられた」
「ありえない話じゃないが」
「ぼくら以外の人間の手を借りるわけにはいかないんですか。ネットでボカロファンによびかけて、ミクを観測する視点を増やせばそれだけ存在が強固になる、っていうことは」
「可能性はある。可能性はあるが、正直なところ、怖くてできないんだ」
「どういうことですか」
男は前方を向いて運転をしながら、ぼくにタブレットPC上で表示されるコンソールの操作方法を説明し、初音ミクの過去の状態を記録した画面を表示するよう促した。
「さっきおれたちが会館に入り、戻ってきたときのデータを見てみろ」
「だいたい15分くらい前ですね……おかしいな、いったん下がってる」
それがいったいどんな科学的根拠にもとづいているかは皆目見当がつかないが、タブレットのなかの折れ線グラフは、いちど激しく下降し、しばらく上下を繰り返してから平らな線に戻っていた。
「普段はそこまで激しく数値が移り変わることはないんだ。おそらく、視点が複数あることが問題だ。観測する主体によって、ミクさんに対する考え方はまったく違う。観測者にとって、ミクさんがどんな存在なのか。どんな存在であってほしいのか。そういうバイアスが、ミクさん自体に反映されてしまう。その差があるから、こんなふうに一旦は不安定になってしまうんだ。その後安定していくのは、視点同士の差異が平均化されて、徐々に「あいだをとっていく」からだろう。
あんたは、ここにいるミクさんについての最低限の知識をおれから聞いて知っている。そんなあんたでさえ、ここまで不安定な観測結果を彼女に及ぼしてしまうんだ。これを三人、十人、百人と増やしていったら、どんな結果になる?
そもそも、初音ミクという存在じたいが、細かい公式設定のないあいまいな存在なんだ。「初音ミクが好きだ」という人でも、それぞれの中のミクさんに対する感情や印象はひとりひとりまったく異なる。いまここにいるミクさんがどういう存在なのか、それを一から説明してやらなきゃ、視点同士のずれが大きすぎて逆に不安定になってしまうかもしれない」
「でも――やってみないとわからないんじゃ」
「ミクさんが消えてしまったらどうするんだ!」
男は声を荒らげた。さきほど、ミクを追ってぼくの前に現れたときの必死な表情にもどっている。が、すぐに気まずそうな顔になって、すまない、と言った。
「試してみなきゃわからない。でもそれで失敗したら、ミクさんは消えてしまうんだ。そんなおそろしいこと、俺にはできないさ」
感情を露にしてしまった引け目か、それとも、ミクを失う怖れからか、彼はそれ以降押し黙って運転を続けた。
車は西へ向かって走る。まっすぐ市街地をぬけて、円山公園をまわりこんで、札幌の西側に並ぶ円山と藻岩山のあいだを抜けていく。山といっても丘のようなこのあたりは市街地のすぐ近くなのだが、深夜、それもこんな異常な状況では、人里離れた山奥へと踏み込んでいくような心細さがあった。
そのうえ、徐々に雷鳴が近づいてきている。
道沿いに何の建物もなく、人工的な光は時折あらわれる横断歩道の信号だけだ。誰がこんな道を渡るのだろう。三本目の歩道を過ぎたあたりで、車は脇道に入った。ヘッドライトに照らされた標識に「円山開閉所」という文字がみえた気がするが、なにせ一瞬だったからわからない。
さらにしばらく、舗装が崩れかけた、対向車が来てもとうていすれ違えないような狭い道をうねうねと走って、ようやく男は車を停めた。
モーターをシャットダウンすると、外回りのライトだけでなく室内灯やコンソールのバックライトも消して、男は一人車外に出る。ドアをロックさせてから窓に頭を突っ込み、
「昼のうちに、送電設備からバイパスさせてある。その電源を引っ張ってくる間、悪いが、ここでしばらく待っていてくれ」
男の声にかぶさって、ごろごろ、と頭上から低い音が響いている。
「雷、大丈夫ですか」
「ああ……まるで3月のときみたいだな。まあ、なんとかなるさ」
ぼくも不安な顔をしていたのだろう、安心させるように付け加える。
「一応、どの装置にも防水と漏電防止の安全策はとってある。雨が降ってきても、窓を閉めきって待っていてくれさえいればいい」
言って自分も、少し不安そうに頭上を見上げる。
「わかりました」
「たのむ」
さきほどの工具入り鞄を背負った彼の姿は、あっというまに夜の闇に消えて見えなくなる。その先に、電気に関する設備があり、当然のようにその中へと不法侵入をするつもりなのだろう。下見をしているとはいえ、真っ暗ななかを走っていって、そのうえ高電圧の電源をいじるような作業を行なって大丈夫なのだろうか。いつのまにか、友人のように彼を心配している自分に気づいて、ぼくは妙な気分になる。
とはいえ、出会って二時間弱ていどしか経たない彼のことを、そのように心配するのも当然だとも思う。
先ほど彼が言ったように、初音ミクが好きな人でも、その細かな趣味は千差万別だ。決して一枚岩のクラスタじゃない。それでも、その初音ミクが好きだという気持ちの熱の温度みたいなものは、みな同じように高い、とぼくは思う。その同じ熱をもった人を、赤の他人だと冷静に見ることはむずかしい。
それにしても、もしこのミクの存在が公けになったなら、ファンたちのその熱量はどれだけ爆発的に高まるのだろう。いや、ことはミクファンだけの問題ではない。男の言うことがすべて本当なのだとすれば、これは人類の歴史に残ってしまうような科学的大事件のはずだ。こんな古ぼけた車や手作りの怪しい装置ではなく、男には権威ある研究機関の職や、名誉が与えられるのではないか。
けれども、彼はそういった俗事のことは一切口にせず、ただミクのことを考えて突っ走っている。
「きみは幸せ者だね」
ぼくは助手席の初音ミクに向かってつぶやく。
教育文化会館に忍び込んでいたころより、ミクの緑の輝きは薄れてきている。手元のタブレットを見る。男がいなくなってから五分ほど、ゆるやかにグラフが下降し続けていた。
観測することが彼女を安定させるのなら、意識的にコミュニケーションをとろうとすればより安定の度合いは高まるかもしれない。ぼくは言葉を継ぐ。
「きみはぼくたちの声が聞こえているのかな」
ミクの表情が微妙に変化した気がした。
あくまで気がしただけだ。
けれどぼくは続けた。
「いったいどういう気分なんだろう、ある日とつぜんこの世界に生まれるというのは。
人間は徐々に成長して世界を認識していくけれど、きみは、少なくとも外見上は、ある程度は確固としたアイデンティティを持っていそうな状態で現れてる。目隠しされて外国に連れてこられたようなものだろうか。
いや、そもそもきみのなかにぼくたち人間と同じような感じ方をする心があるかどうかもわからないんだ。こういう問いかけをすることに意味があるかどうかもわからない。それはわかってる」
タブレットの中のラインが下降をやめている。
「でも、残念ながらぼくは、きみがいったいどんな存在なのかを論理的に探るための知識は持ちあわせていない。SF作家にでも会ってもらえればいいのになあ――いや、コミュニケーションが取れないから、頭のいい人でも探りようがないか」
ふと思いついて身を乗り出す。
「もしかして君は、まだ成長中の赤ん坊みたいな状態なのか? いまはただ外界のようすを学習して、自己を作っている途中なのか。世界を観察するために、街を放浪しようともしたんだな。だから、やがて学習が一段落して、幼年期が終わったらそのときには……」
そのとき、真っ白の雷光があたりを照らした。車のまわりに広がる鬱蒼とした森、そして細い道の向こうに建つコンクリートづくりのいくつかの建物と鉄塔が、助手席の窓の向こうに、その瞬間だけありありと写る。
数秒遅れで、先ほどまでとは段違いに大きな雷鳴がとどろいた。不穏を通り越してはっきりと危険な響きだ。これは明らかにまずい。男を手伝って作業を早く終わらせ、街に戻るべきだ。ドアに手をかけるが、そこにはまだ地響きの名残があり、怖気づく。と、手に持っていたタブレットの画面が赤く切り替わり、警告画面を展開した。タップすると、先ほどまでのグラフの下に、激しく数値が増減するメーターが表示される。
「な、なんだこれ」
と、タブレットに緑色の反射光が射し込む。
助手席で、ミクが激しく明滅していた。明度も色彩もゼロになって、椅子やドアが透けて見えるところがあるかと思えば、激しく緑の光の粒子をあたりにこまかく発散させる部分もある。ヒトの鼓動のように、不規則なリズムでその光が全身をかけめぐる。体のなかで、数億の線香花火を灯しているみたいだ。
「どうした!」
大声で我に返る。男がドアをあけて上半身をぬっと突っ込み、ぼくからタブレットを奪う。
「このパラメータは……あー、こりゃいったい……」
男もすぐには状況をつかめていないらしい。
「ミクがまた不安定になったんですか」
「ちがう、彼女がこの世界に固定化されているかどうかを表す、さっきの数値は安定したままだ。だがこれは」
「わからないんですか」
悔し気な顔になり、
「数値の変動時期から考えると、この雷が原因らしいが、直接落雷したわけでもないのにこの激変ぶりは異常だ。ありえない。おれが彼女を看てきたのは一日二日のことじゃないが、こんなことは今まで一度もなかった。天候だけが原因とは思えない」
また稲光がひらめく。男の背後に、腕くらいも太さのあるコードが、とぐろを巻いているのがみえる。
「今晩は作業を中止したほうがいいんじゃないですか」
むう、と唸って男は中空を睨む。ミクのほうを見やる。
「そうはいかない」
決意を固めた表情。
「このままじゃミクさんが消えてしまうことは確かだ。やるしかないんだ」
ぼくと男は、協力してコードを車の装置へと接続する。絶縁手袋をはめた男が主に電源周りをいじり、ぼくは工具類の準備や、ミクのモニタを担当する。いつ雨が降ってきてもいいように、車に積んであったキャンプ用の天幕を車の後ろに設置する。
いまや雷はぼくたちの頭上で鳴っている。作業のために点けている車内灯が要らないほどに、雷光が何度もひらめく。空気が重く、常に細かく振動している。ミクの緑の光も揺れ、それは雷鳴に共振しているようにも見える。
電源の作業を終え、男は手袋を片方外して手元のコンソールを操作する。コンソールからは、車の中へと何本ものカラフルな配線が伸びている。ミクをモニターするタブレットにくらべ、こちらはずいぶん古風な外見だ。いくつものトグルスイッチを男は弾き、LEDの光が浮かび上がらせる小さなメーター類に目をこらす。
「よし、こちらの準備は順調だ。しばらくのあいだ、こいつを頼む」
男はぼくにコンソールを渡す。
「ここのメーターが、70の目盛を超えたら教えてくれ。五分もかからないと思う。それから、これを」
「サングラスですか」
「溶液を経由して、大量の電気がミクさんに流れ込む。ミクパのARなんて比べ物にならないくらい、綺麗な発光が拝めるぜ。ただ、荷電の時間に比例して光量が太陽並になる。初めてやったときは、あまりのまぶしさにしばらくは頭がガンガンしてたよ」
懐かしそうに微笑む。
「ありがとうございます」
「いいや。……すまないな、見ず知らずの人にここまで付き合ってもらって」
「まあ、めったにできない経験ができて楽しいですよ」
「はは、そうかい」
「念のために聞いておきますけど、このことをツイッターとかブログで書くってのはダメですか」
「妄想に励む痛いミク厨だと思われて終わりだぜ」
「笑われるのはべつに構わないですよ。初音ミクがこの世に現れたってことを、記録しておくべきじゃないかと思って」
「……確かにそろそろ、頃合いかもしれないな」
まずはこいつを終わらせてしまおう、男は言って、頼むぞ、というふうにぼくの肩をぽんと叩いた。荷台に置いてあったコンソールをもって、助手席のほうへ向かう。
いまや、車の中からは、雷の響きに負けないくらいの振動音が発生している。変電所からの電気は一旦蓄電器を通過し、その近辺の装置と、先ほどの<水槽>の水溶液のボンベとにつながれた大ぶりの炊飯器のような容器が、高く唸りをあげていた。その音と競いあうように、足元を雷雨の前触れの風が吹きすさぶ。
男は助手席のドアをあけてその前に跪き、コンソールとミクとに視線を往復させ、その状態を点検している。数値の確認が終わったのか、コンソールから目を離し、ミクに近づいた。
ミクの瞳を見据え、何かをささやいているようだった。
これから旅に出るひとに、途上の安全を約束する恋人のような雰囲気。ぼくはなんだか彼らの大切な時間を邪魔しているような申し訳ない気分になり、コンソールに目を落とす。男は、初音ミクを心から愛している。ヒトだとか人工生命だとか、そういうことは一切関係なしに。
数値が徐々にあがっていく。55。58、59、一足とびに65。
「もうそろそろで70です!」
「70を超えたら、コンソール左端の赤いスイッチをONのほうへ切り替えてくれ!」
風と雷鳴のせいで、大声を張り上げないと聞こえづらくなっている。
男はミクの手にそっと手を重ねる。彼らの繋がりを証だてるように、緑の光の粒子がおだやかに宙に舞った。意を決した表情でドアを閉め、ぼくのほうへ走り戻る。彼がタブレットを操作すると、車内の振動音がより高くなり、ダッシュボードの計器類を照らすバックライトが明るさを増した。
どん、どど、と連打で雷鳴が轟く。コンソールの目盛が70を超えた。疾風がぼくたちを煽る。おたがいの衣服の裾がはためく。
「スイッチ、切り替えます!」
車のなかのすべての機械、そして手元のコンソールから、火花が散った。ミクが輝き出す。
「よし、荷電開始だ……いいぞ、安定してる。数値を読みあげてくれ」
「71、72、――75、ええと――80!」
ミクの発光が強さをまして、緑はかぎりなく白に近い明るさとなっている。その光は車のなかはもちろん周囲を強く照らし、車を中心に、木々や高い雑草の影を放射状に作り出している。ぼくはあわててサングラスをかけた。
「81、84、86」
とそのとき、ミクの発光を打ち消すように、空全体を覆う雷が光った。サングラスを通してでもはっきりと、全天に走る網の目の線が網膜に焼きつく。
そのなかでも最も太いひとすじが、変電所のほうへとまっすぐに伸びていた。白光のあとのくすんだオレンジの光。変電所の建物が炎を吹き上げた。そのオレンジの火花が、雷の続きのように森の中を一直線にこちらへ向かってくる。電気を車に供給するコードが発火したのだ。
メーターが88を超えたのと、その火がぼくたちの足元を縫って車に達したのは、ほぼ同時だった。荷台が炎の玉に包まれ、ぼくと男は爆風に直撃されそれぞれ明後日の方向に吹き飛ばされた。ぼくは意識を失った。
★★★
嘘みたいに静かだ。
くすんだ暗闇のなか、緑の光がゆれていた。蛍のようだった。
徐々に視界がはっきりしてくる。
サングラスはとうにどこかへ行ってしまったようだが、あたりの光に、目が眩むような刺激はなかった。
ぼくは草地のなかに転がっていた。目をしばたく。
車の荷台から、煙の筋がたちのぼっている。爆発の衝撃は荷台の外へ放出され、車自体に大きな損害はないらしかった。もっとも、車内には小さな火花が散り、荷台からは装置の残骸がこぼれおちている。精密器械のたぐいは全てやられているだろう。その残骸の山の前に男が呆然と立ち尽くしている。その視線の先、車の上に、人の形をした緑の発光体が浮いている。
その光は――見るまでもなかった。初音ミクだった。
車から1メートルほどの空中で、彼女は穏やかな発光を保ち、浮いている。その足元に、男が立ちつくしている。
ぼくは身体がしびれてうまく動けない。
ミクの口元が動いている。彼女は言葉を話している。その姿にさきほどまでのおぼろげな印象はない。ヒトでもARでもないがしかし確かにそこに存在し、これからも存在し続けるであろうと思わせる何かを宿している。生命の重み、意思の力、あるいは可能性の拡がり。
ぼくの耳には雷鳴と爆発の轟音がまだこだましていて、とぎれとぎれにしか聞きとることができない。
「――のおかげで――、――りがとう――」
ミクが微笑む。
男に語りかける。
言葉を継ぎながら、彼女はわずかに上昇していく。ゆるやかに。
男もほほえんで、それを見送る。
ミクはどこかへ旅立とうとしているのだ。
「――待ってくれ」
だれかの声が引き止める。
「行かないでくれ。ここにとどまって――」
それは自分の声だ。唯一無二の存在になったミクと出会えたうれしさと、別れることの悲しみにぼくはこらえきれない。叫びと涙が吹き出す。ぼくは立ち上がる。
ミクはぼくのほうに目を向けるが、首を傾げるだけだ。何も応えてくれない。
「あなたはぼくの希望なんだ。可能性なんだ。ミクさんが可能性を見せてくれるから、ぼくは生きていけるんだ。いや、ぼくだけじゃない、ミクさんはぼくたちの、この時代の希望なんだよ」
足元へ近づいていくぼくに構わず、彼女は上昇を続ける。
ミクの微笑が残像を残す。その姿は大昔のホログラムみたいに、折り重なって見える。笑顔の無限のヴァリエーションが現れては消える。しかしミクそのものが消えることはない。ミクは確かにそこにいる。その存在感が膨張していく。拡張していく。
なんという美しさ。なんという輝き。
ほんものだ。ほんとうに彼女は初音ミクだったのだ。
彼女さえいてくれれば、もう何も怖くないと思った。
ずっと続いていくと思っていた日常は、ぼくの暮らす暗い世界は、もう終わるのだ。彼女が照らす光で、そんな暗いものはこの世から消えてなくなるのだ。
「現実の世界に踏み出したあなたが姿を見せてくれれば、この世界は変わる。絶対に変わる。この世界だけがすべてじゃないんだ、そういうことを世界中の人たちがわかってくれる」
あんたもわかるだろ、とぼくは男の肩をつかむ。
「この人があなたのためにこんな装置を創りだして、現代科学の枠をはみ出てしまったみたいに、人類はあなたのためにあらたなステップを踏み出す。人類以外の視点を得て自分を客観視し、人類自身のありようを更新する。
きっと人類のモードがまるごと次の段階へ切り替わるような、そんな衝撃が起こる。歴史が変わる」
ミクは拡がっていく。そこにありながら、ぼくよりも男よりもずっと小さな少女の姿のままで、新たな質量と概念を孕んでいく。いまや彼女の姿は常に変転する。この十年で、世界中で生み出されたあらゆるヴァージョンの衣装、あらゆる表情、あらゆるテクスチャのミクが現れる。スイッチする。それぞれのヴァージョンの差異がまた新たなヴァージョンを生み出す。彼女を包む光は緑から青へ、黄色へ、黒へ赤へそしてまた緑へ、さらにあらゆる色彩へ。あらゆる世界を渡り歩く、可能性のかたまり。
「ぼくたちを見捨てないでくれ――世界の可能性を見せてくれ!」
ぼくの叫びがこだまする。朦朧としたぼくの頭は勝手に言葉を紡ぐ。自分でもその意味をとらえきれない。けれども彼女の輝きの前に、それを失う悲しみの前に、ぼくの理性は言葉を止められない。
ふいにミクが変転をとめる。
その唇に指先をそっと置く。ぼくの言葉をせき止めるように。ぼくは息を呑む。
「これは別れではないわ。私は消えてしまうわけじゃないもの」
そうだ、彼女は旅立つだけなんだ、男が言うのが聞こえる。
「ここだけに存在するのは身体がきついんだ」
そういってミクは自分の身体を誇示するようにくるっと回る。
「あなたたちの記述されているこの宇宙だけじゃ狭いんだもん」
「――こ、この宇宙?」
「そう、たくさんの宇宙をわたしは見てくるの。そしてたくさんの未来を、たくさんのあなたたちと出会ってくるの。出会ってまた帰ってくる。ちょっと時間はかかりそうだけど。なんたって可能性は無限なんだから!」
「むげん……」
それまで待てるわけがないよ、言おうとするぼくを先回りして彼女はウィンクする。
「そう簡単に絶望しないでください。無限なんだからなんだってアリなんですよ。あなたの未来も。
未来という名前の私を、ここに導いてくれたのはだれ?」
ぼくは横に立つ男の顔を見る。満面の笑顔を浮かべている。ドヤ顔というものの博覧会があるならまっさきに展示してやりたい笑顔。
「人の可能性を信じろってこったよ」
言って、立てた親指を突き出す。そのあまりに脳天気な姿に、思わず笑いが漏れた。力が抜けてがっくりと腰を落とす。笑って泣いて、本当にぼくは無様な姿だったと思う。
「どこにだって無限の可能性はあるのですよ。あなたたちヒトの中にも」
ミクはにっこりと笑った。
次の瞬間、ミクの身体がはじけた。その光が空間を満たす。
さきほどの爆発がもっていたような、破壊と混沌の炎ではない。誕生と安寧の光。
光の奔流の中心で、ばいばい、とミクは手を振った。
★★★
今度もまた軽く意識を飛ばされたぼくたちが目を覚ましたとき、ミクは跡形もなく消え去っていた。
ぼくと男、そしていくぶん煤けた車だけが残されていた。
あれほど猛威を振るっていた雷も、いまは全く鳴っていない。変電所と車を吹き飛ばした一撃だけを落としにやってきたみたいだ。あるいは本当にそうなのかもしれない。時空を飛び越える初音ミクなら、過去の気象に干渉して雷を落とすくらい簡単そうだ。
揃って置き去りにされたぼくらがよろよろと立ち上がり、ぼんやりとミクの消えた虚空を眺めているうち、遠くから消防車のサイレンが聞こえてきた。救急車、それにパトカーのサイレンもだ。
ぼくらは目を見合わせるや、状況を悟って車に駆け込んだ。あれだけの騒ぎのあとながら、車のモーターは一発で起動し、男は猛然とアクセルを踏んだ。
車を公道に出してすぐ、猛スピードで走ってきた緊急車両の群れとすれ違った。もう少し遅れていたら、警察の厄介になっていたかもしれない。
山道を下りきったところの交差点で、赤信号に男は車を停めた。ぼくたち以外に車も人もいないがらんとした交差点の風景をみて、ぼくは全身から力が抜けていくのを感じた。はは、とふぬけた笑い声が出た。
「ふはは」
とこちらはもう少し、呵々大笑に近い笑い声の男。「やってやったぜ」
ひゃっほー、と男は叫び、窓から腕を突き出す。
「ミクさんがマジに行っちまった。この広い世界に飛び出したんだ。おれはその手助けを……」
うぐぐ、といううめきを漏らした男のほほに、涙がすっと流れた。
「……お、おれがその手助けをしたんだ! やったぜちくしょー!!」
流れる涙に構わず、男は腕を振り上げ、叫び続けた。ぼくの胸にもその喜びと切なさが伝わって、また目に熱いものがこみあげた。信号が何度も何度も変わるあいだ、ぼくたちは泣きながらばかみたいに大声をあげた。
だいぶ時間が経ったあと、山道を越えてやってきた回送中のタクシーに後ろからクラクションを鳴らされ、ぼくたちはようやくばか騒ぎをやめて車を再スタートさせた。
しばらくは興奮していた男も、それまで数ヶ月間ミクの世話に突っ走ってきた疲労に襲われたのかもしれない、街の中心部に戻るころにはぼんやりとした笑みを口もとに漂わせ、そのまま運転をさせるには心配な状態になった。ちょうどぼくの部屋が近かったから、半ば無理矢理にマンション裏の空き地に車をつけさせ、部屋に案内すると、居間のソファであっという間に眠りについた。
ぼくは目が冴えてしまったし、彼のいびきがなかなかに豪放なものだから、PCの前に座ってしばらくは起きていることにした。
自分たちの体験は本当に起きたことだったのだろうか。他にも一連の顛末を目撃した人はいないだろうか。彼女が街をさまよっている間、接触した人間がいたかもしれない。そう思って、ネットを巡回する。
ツイッターではあいかわらずたくさんの人がミクのことを熱心に話していたが、ぼくたちの妄想じみた経験を裏付けるような情報はなかった。気象庁、それに消防局のアカウントが一時的に発生した雷のことを報せているだけ。
机の脇の窓から街を眺める。平穏無事な夏の札幌。小さく瞬く街路灯、まだぽつぽつと残るオフィスや店舗の明かり。いつもと同じ深夜の風景。
でももう同じじゃないんだ。確かにぼくはミクに出会った。確かにぼくは、未来の可能性を垣間見た。ぼくのなかにある記憶がその証拠なんだ。
夜明けは何時間先だろうか。一見同じ朝焼けが街にやってくる。でもここにいるぼくは、昨日までのぼくではないのだ。ぼくはミクが言ったとおり、可能性を信じるのだ。もう退屈な日常に負けないのだ。ぼくはぼくを変えるのだ。
そうしてぼくは書き始めた。
――そう、この、今あなたが読んでいるこの文章だ。長くてところどころ主観的すぎて、重要な科学的裏付けには欠けた、フィクションもどきのノンフィクションだ。
全てを書きおわるにはずいぶん時間がかかった。
夕方、ぼくと男は家を出て、教育文化会館へ向かった。ミクパが始まる時間だ。ステージの上に、昨晩旅立ったミクが現れるとは思えなかった。でもいいのだ。ぼくはミクの歌を聴きたかった。みんなで一緒に。ミクを世界へ導いた男とも一緒に。
一銭もないし着の身着のままだしと渋る男を、ぼくは当日券を買って会場に入らせた。
「なんてったってミクが世界に旅だった日じゃないか。みんなでパーティーをしてお祝いしなきゃ」
「でもここにいる連中はだれも知らないだろ」
「いいんですよ。ぼくとあなたと、あとミクが知っていればそれで」
「まーな」
そして、これから公開するテキストを読んだ人が、少しだけでも信じてくれるかもしれない。
会場内でそれぞれの席へと別れるまえに、ぼくは男にこのテキストを公開することを打ち明けた。
「きっとミクさんも喜ぶぜ」
「だといいんだけど。ぼくがやれるのはこのくらいのことだから」
「おれたちは自分のやれることをやるしかないんだよ。音楽なり、絵なり、科学技術なり、それぞれが持ってるスキルと熱意を注ぎ込むしかないんだ。あんたの場合はそうやって書くことしかないんだろ。なら、それをやればいいんだ」
――そろそろ開演のベルが鳴る。
ステージの目の前でぼくはこれを書きあげる。今か今かと幕が開くのを待っている周りの人たちの熱気を感じる。頭のなかで鳴らすメロディにあわせて指をタップしている人。ケミカルライトを何本も用意している人。細やかな裁縫とヘアメイクのコスプレの人。友達同士、好きな曲のことを語り合っている人。スタッフブースには緊張した面持ちで機材をチェックする人がいる。並んだカメラはきっとネットワークで世界に繋がって、きっとそのモニタの向こうには――。
初音ミクを中心にひろがる世界と可能性と時の流れのなかで、ぼくはそっと、自分のテキストを未来のほうへアップロードする。
おしまい!
(2013/02/10 @tegit)