こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

「可能性の人」松浦果南のこと/『ラブライブ!サンシャイン!!』とAqoursを考える・その4

果南のカは可能性のカ

 最初に妄想なんですけど、二年前、東京のイベントで果南たち旧Aqoursが歌えなかった曲ってなんだったんでしょうか。
 『未熟Dreamer』はイベント後の花火大会用に製作中だった楽曲のようですから、違う。じゃあ果南たちが作り、かついまだアニメ本編中では歌われていない他のオリジナル曲だろうと思われるわけですが、ここでは妄想を飛躍させて、μ'sの楽曲をカバーしていたと考えてみます。ラブライブ参加の条件はオリジナル曲ですが、「東京のイベント」がそうだったとは限りませんからね。
 果南が歌い出さないことで、パフォーマンス全体が止まってしまうような楽曲ということは、曲がセンターのソロで始まるということです。
 条件にあてはまる曲はいくらでもありそうですが、わたしはそれは『ススメ→トゥモロウ』だったのではないか、と妄想しています。
 言うまでもないですけど、同曲の歌い出しは「だって可能性感じたんだ/そうだ...ススメ!」です。しかしそこで果南が歌い、鞠莉がパフォーマンスすることは、鞠莉の「可能性」を閉じてしまいかねない。痛めた足で踊って怪我をするだけでなく、浦の星でスクールアイドルを続け留学や海外での生活を諦めれば、彼女の人生自体が狭まってしまうわけです。自分たちの内にある「可能性」を賛美する『ススメ→トゥモロウ』が、逆説的に、鞠莉の可能性を断ってしまう……。だからこそ、果南は歌えなかったのではないか。
 鞠莉の足のことがあったとはいえ、果南がライブで歌を故意に歌わない、ということにはかなり大きな理由が必要だったはずです。他ならぬμ'sの歌詞が、愛する鞠莉の人生を傷つけかねない自分の行動を暗示しているとなれば、彼女にそんな無茶な行動をとらせる理由になり得るのではないか。
 その後二年間にわたって果南は鞠莉に対して冷たい態度を取り続けるわけですが、その根底には鞠莉への愛情があった。素直に好きって言えばいいじゃん、と思うけれども、一度μ'sの歌、あるいはスクールアイドル活動という自分たちが大好きなものが鞠莉の人生を狭めてしまうということに気づいた彼女であればこそ、素直に自分のなかの好きという感情をそのまま差し出せなかったんじゃないか、と思うんですね。「好き」が人を傷つけることもあるんだ、と気づいたから、好きだって言えないんじゃないか、と。
 ま、完全に勝手な妄想なんですけど。

 

ススメ→トゥモロウ/START:DASH!!

ススメ→トゥモロウ/START:DASH!!

 

 


果南のカは過去のカ

 アニメ『ラブライブ!サンシャイン!!』は、物語が描く場所と時間が前作『ラブライブ!』に比べ大きく広がっています。
 原因のひとつは、舞台を沼津市内浦にしたことです。秋葉原を舞台としていた『ラブライブ!』は、秋葉原とその周辺だけで物語が完結していました。μ'sは合宿のために海や山へ出かけますが、それらの場所はほとんど個別の意味をもたない抽象的な「海」であり「山」です。劇場版で描かれる「あの街」も同様です*1
 『ラブライブ!サンシャイン!!』も、内浦だけを舞台に描くことはできたでしょうが、μ'sとの関わりや全国大会への挑戦を描いているために、東京も物語の舞台とせざるを得なくなっています。全13話中、東京を舞台とする回は3回あり、それ以外の回においても登場人物の一部が東京に出かけていたり、過去に東京で起きたエピソードが描写されたりします。千歌の母親に至っては、おそらくは13話に至るまで東京で生活していたようです*2。この東京は、「あの街」のように抽象化されておらず、内浦や沼津と同じように具体性をもった場所として描かれています*3


 前作とμ'sの存在は、物語が描く時間の幅も広げました。
 千歌たちがAqoursを結成させたのは、A-RISEが優勝をおさめ、μ'sが参加を諦めた「ラブライブ」第一回大会から5年後と思われます*4
 μ'sの活躍していた5年前、松浦果南たちが初代Aqoursを結成した2年前、そして千歌たちがAqoursを結成した現在、とAqoursにとって重要な時間のポイントが三つ、作品のなかに存在しています。
 さらに、千歌と果南、千歌と曜、花丸と善子、花丸とルビィ、果南・鞠莉・ダイヤという古くからの友人関係、ダイヤとルビィという血縁関係、と複数の長期にわたる人間関係も存在するため、作品が描く時間帯は大きく広がりました*5
 もちろん、『ラブライブ!』においても、μ'sの九人の過去を描く部分は複数存在します。ただ、絵里のバレエ、凛のスカート、にことアイドル研究部...と、そのいずれもが彼女たち個人にとって重要な過去なのであって、複数のメンバーの関係にまつわる過去の描写はそう多くありません*6


 広がった時間と場所を存分に使って、Aqoursの物語は描かれます。特に、本来は結びつかない、時間・空間の隔たったポイントをつなげて描くことで、『ラブライブ!サンシャイン!!』は物語としての輝きを増しています。
 空間的に離れたものを結びつける表現の代表例は、前回の記事*7で取り上げた、11話のクライマックスです。梨子のいる東京と、千歌たち残りのメンバーがいる静岡とをひとつのステージのように描いて、たとえ離れていても強く結びつくAqoursを表現していました。
 そして、時間的に離れたものを結びつける表現として強くわたしの印象に残っているのが、9話『未熟Dreamer』Bパートにおける果南の「ハグ」シーンです。
 果南は、二年前にスクールアイドルを辞めて以来、鞠莉と距離を置き、自分のなかに閉じこもっています。過去にとらわれたままの彼女が、いかに現在に繋がるか。これが9話の核になります。


 9話において、離れたふたつの時間を明確な区切りなく描く表現は三回用いられます。
 一回目は、Aパート、千歌が果南との思い出を回想するシーンです。千歌は自分の実家でAqoursのメンバーと花火大会でのステージについて話し合っているうち、幼いころの経験を思い出します。
 桟橋の上から飛び込むのを躊躇する千歌を、果南が励まします。スクールアイドルを諦めた現在の果南とは大いに異なり、人を励ます、まっすぐな前向きさが伝わってきます。
 回想の直後のカットで、千歌たちは現在の桟橋近くに移動しています。画面の手前側にいる千歌は、物理的に少し離れた桟橋を眺めています。まるでそこに自分たちの過去があるかのように。桟橋は近いようで、しかし確実に離れたところにあります。桟橋に千歌の手がすぐ届かないように、果南にも手が届かなくなっていることが暗に示されます。


 9話での千歌は、不甲斐ない三年生たちを痛罵しつつも、基本的に少し離れたところから哀しみを抱いて眺めている、という印象があります。そういう寂寥感や儚さをわずかにたたえたときの千歌を演じる伊波杏樹さんの演技には素晴らしいものがあるし、眉尻を下げて少し困ったような顔をする千歌はとても魅力的で、とくにその出色は黒澤家でみなより先にことの真相を悟った瞬間、声にならない息を漏らしているかのように見える短い一瞬のカットなのですが、それは本題ではないので措いておきましょう。
 千歌たちのまえで、ついにダイヤは二年前の真相を語ります。ここで、過去と現在を繋げる二回目の表現がおこなわれます。東京でのイベント、学校での日常、といった過去の風景と、現在の黒澤家における鞠莉が交互に描かれる。ただしここでは、現在の鞠莉の目元が隠されていたり、過去と現在のカットの構図が大きく異なったりしており、過去と現在を分かちがたく結びつけるような映像表現は用いられません。
 ダイヤの語る真相を、鞠莉はすぐに受け入れることができません。むしろ不可解に感じ、苛立たしく思っている。ここでは、鞠莉(現在)と果南(過去)との距離を埋め難いものとして描いているということなのでしょう。
 やがて鞠莉は黒澤家を飛び出します。雨の中、彼女は走っていく。果南に会いに行くのだろうと想像はできるものの、具体的な場所や果南との約束は描かれません。どこともしれず走ってゆく彼女は、場所だけでなく、決して遡れない時間をも越えていこうとしているようにも思えます。


過去と未来を抱きしめる

 雨上がりの夕方、鞠莉に呼び出された果南は部室にやってきます。彼女に鞠莉は本音をぶつける。

将来なんかいまはどうでもいいの。
留学?まったく興味なかった。
当たり前じゃない!
だって、果南が歌えなかったんだよ。
放っておけるはずない!

 将来はどうでもいい。鞠莉は現在の、そして過去の果南を取り戻そうとしています。8話で彼女が語った通り。

わたしはあきらめない。
必ず取り戻すの、あのときを!
果南とダイヤと失ったあのときを。
わたしにとって宝物だったあのときを。

 ここで注意すべきは、鞠莉は決して過去の果南そのものを求めているわけではないだろう、ということです。「将来なんてどうでもいい」という台詞はあくまで、自分個人の将来はどうでもいい、ということでしょう。
 鞠莉は、自分が居心地のよかった果南・ダイヤとの仲良し関係を復活させたいと思っているわけではない。もしそれだけなら、彼女はここまで、学校を救うこと、スクールアイドルとして活動することに拘泥しないはずです。単に仲良くなりたいのなら、スクールアイドル活動はせず、友達として付き合えばよい。
 鞠莉が求めているのは、一年生のころ、学校を救うために何かをしようと可能性を探っていた果南のありようです。それが内浦の未来を拓き、果南の未来をも拓く。そう鞠莉は信じてきた。


 これに対して、果南が守りたかったのも、鞠莉の可能性です。浦の星女学院や内浦にとらわれず、彼女の能力が活かされる世界に出ていくべきだと考えて、スクールアイドルの途を否定した。

 けっきょく果南と鞠莉は、お互いの可能性を守ろうとして、それぞれ違うところを向いていただけなのでしょう。お互いの未来を見つめすぎて、現在ではすれ違ってしまう。


 9話のクライマックス、本音をぶつけ、さらには平手打ちまでした鞠莉は、果南に向けて頬を差し出して、自分を打つようにいいます。予期される痛みに身を固めて、彼女は目をつむる。手をあげる果南。
 画面が暗転し、声が聞こえてきます。遠い過去、三人が小学生だったときの声です。まずはダイヤの声、果南の声、そして鞠莉の声。
 夕暮れのホテルオハラの中庭で、鞠莉と果南は一瞬見つめ合い、そして果南が「ハグ…」と言いながら手をひらく。その姿に現在の果南が重なり、「しよ」と、言葉も重なる。
 過去と現在の果南がまっすぐに繋がり、と同時に果南は閉ざしていた自分を開いて鞠莉を受け入れる。

 人種間や文化間のヘイトに対する抗議パフォーマンスとしてのフリーハグなどにみられるとおり、ハグという行為には、自分とは異なる誰かの多様性を受け入れるという意味もみてとることができます。ここで行われるハグの意味は、単に鞠莉ひとりを受け入れるというだけではない。鞠莉のもつ、スクールアイドル活動によって浦の星を変えていこうという考え方や、Aqoursがもたらすであろう未知のものをも受け入れる、ということにほかなりません。
 過去と現在が区別なく繋がり、そして未来へとふたりの可能性がひらかれることも示す、この描写は、アニメ全13話を通しても特に美しい屈指のシーンであるといえるでしょう。
 そして、過去と現在を接続する描写は、9話ラストの『未熟Dreamer』における演出によって、さらに三年生の外へと広げられていきます。三年が歌い出し、一・ニ年が引き継ぐ。その後ろから、新しい衣装をまとった三年生が現れる。何か新しいことを始めた人間が、その力を周囲に伝播させていく。ひとつの可能性が、多くの可能性を生じさせていくことを示す一連の演出は、シリーズ全体、あるいは『ラブライブ!』とスクールアイドルというものが示すよきものの根幹に直結することに成功していると言ってよいと思います。


 9話で回想される初めてのハグは、6話の冒頭でも描かれています。そこでは、現在の鞠莉が過去の鞠莉と見つめ合っているかのようなかたちで、過去と現在が接続されていました。あのときの鞠莉はハグされていた自分を見つめるだけでしたが、4話ぶんの時間を越えて、彼女はようやく果南にハグされる。
 物語内の時間だけでなく、作品としての時間もさかのぼることで、果南たちのハグはより一層深い感動を観るものに与えてくれます。
 9話も6話も、絵コンテは酒井和男監督によるものです。なんと見事な構成!

  

 

 

果南の果は……

 果南の果という字は、穂乃果の果です。
 他のAqoursメンバーの名前のなかにも、μ'sメンバーの字を継いでいるものはいますが*8、なにしろ「南」の「果」です。明らかに、秋葉原からみた「南」方である内浦における穂乃「果」だってことじゃないですか*9。じっさい、二年前のAqoursは彼女がリーダーだったようだし。
 でも果南は穂乃果のような立ち位置にはいません*10。あのように、無からなにもかもを生み出すような圧倒的な輝きを持つ人ではない。


 かなん、という名前の音から、わたしは古代の地名としての「カナン」を想起します。百科事典によれば、カナンというのはこういう都市でした。

カナン (Canaan
 パレスティナおよび南シリアの古代の呼称。イスラエルの民は,エジプトを脱出した後シナイやネゲブの荒野を彷徨していたころ,神から約束されていながらまだ手にしていない〈乳と蜜の流れる地〉としてあこがれた。...


世界大百科事典』(改訂新版)


 神からのいまだ叶えられぬ約束。
 流浪と迫害を経験してきたユダヤ民族にとってのキーワードをオタクの妄想にもちいるのも少々申し訳ない気がしますが、このようなことばの歴史的背景から、カナンという音には、到達できない輝かしいもの、憧れると同時に寂寥感を抱かされるもの、といったイメージがあります*11
 叶えられない約束は絶望と希望との両方をもたらします。いま叶っていないのなら、永遠に叶わないかもしれない。そう考えれば絶望せざるをえない。約束はされている。いつかはきっと叶うはず。そう考えれば、希望になります。


 果南は、かつて浦の星でスクールアイドルとしてある程度の成功をおさめた希望の生き証人であると同時に、東京で大失敗をおかした絶望の証拠でもあります。
 失敗した過去については、例えばSaint Snowの二人がその事実を知ったなら、心底怒るにちがいありません。対外的には大きなウィークポイントになりうる*12
 けれども彼女はもう過去に閉じこもったままではありません。ふたたびAqoursに戻ってきた。
 10話以降、果南が物語の中心に立つことはありませんが、劇中のAqoursたちにとっては、彼女はある種の心の拠り所になっているのではないか、と思えます。彼女が元気にスクールアイドル活動にはげんでいる限り、それは、人は失敗を乗り越えられる、何度でも挑戦できる、という生きた証拠になるのですから。
 成功した人だけが、可能性を体現するわけではありません。失敗した人だって、人間の可能性を信じさせてくれるのです。


 というわけで最初の妄想に戻りますけども、やっぱ二年前の果南には『ススメ→トゥモロウ』を歌っていてほしいんだよな~、だって可能性感じちゃうんだもんな~、という話なのでした。

 

 

*1:ただし「あの街」は、徹底して名前と意味を剥ぎ取られながらももあきらかにニューヨークとして描かれており、秋葉原に匹敵する大きな意味をもつ場所として作品内に立ち上がる。これによって、秋葉原の外=μ's/音ノ木坂学院での物語の終わりが印象づけられる。

*2:ところで、旅館の主人であってもおかしくない人物が常に東京にいる理由とはなんでしょうか。旅館が全国チェーンを敷いており、東京の本社につめている…というのは、千歌による実家についての言動などからすると少々難がありそうです。内浦の観光関係者として、東京のアンテナショップやサテライトオフィスのような場所で働いている、といったところでしょうか。ラブライブ世界における教育や観光の行政がぼんやり気になっている身としては、彼女のもつ背景も非常に興味深いです。その背景が、『ラブライブ!』の穂乃果の母や、ことりの母のように、スクールアイドル本人の活動に影響を与えていてもおかしくないのですから。

*3:ラブライブ!』では主人公たちの住む場所=首都だけを描いていればよかったのに、地方を舞台にしたとたん、主人公たちの住む場所以外をも描かなければならないという非対称性は、改めて考えるべきことかもしれません。東京以外の場所は、東京の存在なしに物語を立ち上げることもできないのか、とうがった見方をしたくなる気持ちもないではない。
 ただ、『ラブライブ!サンシャイン!!』の場合、シリーズの前作を踏襲した内容にするために、前作が舞台としていた東京を描かざるをえなかったという理由があります。今後、Aqours以外のスクールアイドルを主人公にした新作が作られるならば、そのとき、この問題にする回答が得られるのかもしれません。またおそらく、『Wake Up Girls!』や『普通の女子校生が【ろこどる】やってみた。』などの諸作にヒントがあるのでしょうが、不勉強ながら未見です。

*4:4話、国木田花丸が読む雑誌の誌面から。この雑誌が、花丸が読んでいる時点から何年も前に刊行されたバックナンバーであるという可能性もなくはないですが、ほぼゼロでしょう。

*5:もちろんこれは、生まれも文化も違う人間が多く集まる東京に対し、古くからの人間関係や共通の文化が個人の生活に色濃く影響する地方、という対比でもあるのでしょう。

*6:なお個人的には、μ'sの過去を描くエピソードのうち、『School Idol Diary 南ことり』所収の「始まりは3人組。」その1・その2が大好きです。確認のために再読してまたじーんときてしまった。

*7:「違うステージに立つ人」桜内梨子のこと」http://tegi.hatenablog.com/entry/2016/12/28/004551

*8:高坂→高海、花陽→花丸、矢澤→黒澤、などなど。

*9:南の果、という漢字からは、日本における南方への信仰(よきものが南から海をわたってやってくる)も連想できますね。

*10:ですから、この文字の一致は偶然であるような気がします。ただしもう一人、穂乃果から字を受け継いだ高海千歌はまさに穂乃果と同じ立場に立っています。「坂」の街・神田から、「海」の町・内浦へ、という転換も含めて、この文字の繋がりは作品の作り手による意図的なものであるように思えます。

*11:なお、マリ(Mari)ってのもシリア東部の古代の都市名でございまして、そちらで出土した文書にカナンに関する記述もあるらしいです。かなまりのカップリングは何千年も前から決まっていたことなんですね(にっこり)。

*12:正直なところを言えば、わたしも最初は、彼女が歌わなかった理由に納得が行きませんでした。8話でダイヤが語ったように、スクールアイドルという文化は巨大化し、苛烈な競争を生み出しました。そこに挑む人々はそれぞれに相当な覚悟を持っているはずです。にも関わらず、果南が「鞠莉を守りたい」という個人的な願望ゆえに挫折をあえて選んだというのは、他のスクールアイドルたちに失礼ではないのか、と。でもその考え方は、「アイドルは個人よりも「アイドル」としてのあり方を優先すべき」という非情な論理に結びつきます。それはおかしい。果南はスクールアイドルとしての自分より、個人としての果南を優先させてよいはずです。考えてみれば、『ラブライブ!サンシャイン!!』は、常にスクールアイドルという文化や、グループ全体よりも、個人個人のことを重視すべきだ、というメッセージを暗に発し続けているような気がします。それが、11話の梨子の単独行動や、12話の曜のためのダンス再構築、13話での浦の星全員によるパフォーマンスといったことの全ての根底にあるような気がします。

物語たち

 すでに人類の多くが死に絶えて、電力供給も電話回線も途絶えたなか、朝目を覚まし、限りなくバッテリーがゼロに近づいたスマートフォンを震える手で操作して、わたしはスクフェスを起動する。ブシモ、と大きく響くμ'sのだれかの声。『HEART to HEART』のイントロ。スキのちからで、と歌声が響き始める。しかし画面は、「通信エラーが発生しました リトライします」というメッセージを表示させたまま動かない。何度もリロードさせる。スマートフォンは永遠に次の画面を表示させない。

 

***

 

 『ザ・ウォーカー』という映画は、デンゼル・ワシントン演じる主人公が人間の死に絶えた街のなかで目を覚まし、大切に持ち歩いている携帯プレーヤーで音楽を聴く、というシーンではじまる。全体に粗いところも多い映画なのだけれども、そうした身につまされる終末描写が印象に残る。
 ソーシャルゲームをするようになって、その場面をたびたび思い出すようになった。しかしソーシャルゲームの場合、文明が滅びてしまえば、起動することすら難しくなる。おそらくは冒頭のように、オープニング画面以降に進むことすらできない。どんなにやりこんでシナリオを解放したとしても、物語はスマートフォンのなかに閉じ込められたままになる。


 わたしがソーシャルゲームの『アイドルコネクト -アスタリスクライブ-』を始めたのは、そのゲームがサービスを終えることが明らかにされてからだった。サービス開始から約三ヶ月しか経過していなかった。
 わたしは、あまりにも短すぎるサービス終了に悲鳴をあげているファンの声をTwitter上で眺めているうちに、どのような作品なのか自分の目で確かめてみたくなったのだった。要は野次馬根性である。
 サービス終了の当日、終了予定時刻の二十分前くらいに、最後にもう少しだけと思ってわたしは『アイドルコネクト』を起動した。基本はリズムゲームだけれども、アイドルの日常を描くシナリオのボリュームがやけに大きいゲームだった。とてもわたしは消化しきれず、まだかなりの未読シナリオを残していたのだった。
 ひとつのシナリオを読み終えて、もう残り数分しかなかったけれども、もうひとつのシナリオを読み始めた。少しずつ、アイドルたちの日常をわたしは信じ始めていた。彼女たちは虚構だったけれども、その虚構のなかで確かに生きているように思えていた。彼女たちの日常がずっと続いていくように思われた。
 そのシナリオを読み終えると、アプリはサーバとの通信ができなくなり、動きを止めた。わたしにとっての『アイドルコネクト』の物語はスマートフォンのなかに閉じ込められたままとなった。


 物語はいつか終わる。
 今年の4月、わたしにとってとても大切なふたつのグループが活動を終えた。Tridentとμ'sである。
 μ'sは映画の物語と同じくドーム公演を行い、Tridentはラストライブで全楽曲を歌いきった。いずれのグループも、その活動の最後にふさわしいかたちで幕を降ろした。やりきれない気持ちはあるけれど、好きなグループががかように美しく活動を終えてくれたことは、本当に幸せな経験だったと思う。
 アイドルあるいは芸能という理不尽と困難の多い分野にあっても、そのような幸せな物語の終わりを目撃できる。そのことをわたしはずっと覚えていようと思う。


 終わる物語があれば続く物語もある。
 μ'sによる『ラブライブ!』が終わったいっぽう、Aqoursによる『ラブライブ!サンシャイン!!』が本格的に始まった。とくに7月から9月にかけてテレビ放映された同作のアニメーションにわたしは毎週一喜一憂した。
 同作の最終話放映直後、ネット上では様々な反応が飛び交った。わたしにとって我慢がならなかったのは、その物語をなかったことにしようとする人々の声だった。『ラブライブ!』という物語もAqoursも好きだがアニメは気に入らないから否定*1して忘れよう、というものである。
 すでにアニメの物語はそこにある。酒井和男監督と、Aqoursによって語られた物語が。
 それは『電撃G's Magazine』誌上で公野櫻子らによって語られてきた物語とは異なるかもしれない。しかし、『ラブライブ!』という作品の面白さの本質とは、そのようにさまざまな人間から少しずつ異なる視点、異なる語り方、異なる内容で同時並行的に、かつ優劣の差なく語られていることではなかったのか。だからこそ「みんなで叶える物語」ではなかったのか。
 『ラブライブ!』という舞台においてすでに語られた物語を、ほかの誰かがなかったことにすることなど許したくない、とわたしは信じた。
 今年の後半、わたしにしては驚異的な頻度と分量でブログを更新しているのはそのような考えによる。ひたすらにあの物語を反芻し、語り直すことで、そうした行為に抵抗したかったのだった。
 物語はその物語があろうとするかぎり、なにものにもおかされずに語られるべきだとわたしは思う。


 とはいえ物語が続けられてしまうことはときに災いをもたらすのだろう、とも思う。
 山田正紀の新作小説『カムパネルラ』は、宮澤賢治の作品群が国家によって歪に駆動されていくさまを描くSFである。MMORPGのように永遠に語られる宮澤賢治の作品世界は、恐ろしくも蠱惑的である。なにせあの宮澤賢治であるから。
 同作の最後に、希望ともいえないような小さく力ないかたちで示されるのは、誰にも知られず望まれず、それでも自分の信じたい物語を語って世に示す人間の姿である。
 カウンターが正しいのではなく、それぞれが信じる物語をそれぞれに語ることが守られることが正しいのだと思う。


 2016年もいつもの年と同様にたくさんの映画とアニメとその他色々の物語をわたしは楽しんだ。来年もそのような印象をもてる年だとうれしい。
 物語がそれぞれの望むかたちで語られていく年であってほしいと思う。


 『アイドルコネクト』はゲームアプリのサービスを終えたが、そのシナリオはいまも、ストリエというサイトで公開され続けている。いったん理不尽に幕を閉められた物語であっても、そのようにふたたび語られはじめることが可能なのだ。

 誰かが語り続けるかぎり。

 

storie.jp

*1:一応付言しておくと、わたしが許せないのは否定であり、批判ではない。

「違うステージに立つ人」桜内梨子のこと/『ラブライブ!サンシャイン!!』とAqoursを考える・その3

千歌の特別な人

 Aqoursの1stシングル『君のこころは輝いてるかい』は、聴くもののなかに様々な感動を呼び起こしてくれます。そのなかでもわたしにとってもっとも印象深いのは、楽曲のクライマックスで高海千歌伊波杏樹)と桜内梨子逢田梨香子)のふたりがサビを歌う部分です。

 PVでは、内浦でスクールアイドル活動を始める千歌に、遠く音ノ木坂学院からやってきた梨子が出会い、ともに歌うにいたる物語が描かれています。その物語の頂点、ついにふたりがひとつになれる瞬間が楽曲の大サビで示されているわけです。
 わたしの記憶では、それまでの『ラブライブ!』の楽曲、すなわちμ'sの楽曲において、ふたりのメンバーが大サビを歌うものはなかったように思います*1。大サビを歌い上げるのはもっぱら、高坂穂乃果の役割でした。もちろん楽曲によって他のメンバーがセンターポジションを担うことはありましたが、それは臨時のものという位置づけだったように思います。とくに、わたしがリアルタイムで深く親しんだアニメ二期以降の、μ'sにとっての節目になるような楽曲ではそうした雰囲気が濃厚にあった。

 μ'sのセンターポジションに堂々と立ち続ける穂乃果といえど、『ラブライブ! School Idol Movie』でも改めて描かれたように、その中身は頼りない、世間知らずの十代の人間です。それでも(あるいはそれゆえに)、μ'sの輝きの核となる楽曲の大サビは、彼女一人によって担われてきた。穂乃果一点に様々なものが集中する傾向は楽曲だけではありません。アニメ一期・二期の物語も、彼女が中心にいた。あるいは、彼女が物語を前進させた。

 それがリーダーたるものの務めであると言ってしまえばそれまでですし、それはその重責を背負える穂乃果(と彼女を演じる新田恵海)の強さを示しているということもわかる。でも、そんな辛いことってあるか、とわたしは思ってしまいます。一人でぜんぶ背負わなくたっていいじゃないか。
 だから、1stシングルというAqoursにとってこの上なく重要な楽曲である『君のこころは輝いてるかい』の大サビが千歌と梨子のふたりによって歌われているのを聴いたとき、わたしはようやく穂乃果の背負ってきた荷物が軽くなったように思ったのです。穂乃果の背負ってきたものを引き継いで音ノ木坂からやってきた梨子が千歌に出会う。そしてその引き継いだものを、二人でともに背負っていく、というイメージ。
 Aqoursの物語は、リーダーの千歌だけがすべてを背負うようなものにはならない。梨子が千歌と二人で背負っていく、そのような物語になるのだ、と期待したのです。


 実際、『ラブライブ!サンシャイン!!』のアニメの物語は、千歌と梨子をひとつの核として展開されていきます。
 普通である自分からの脱却を目指し、Aqours結成の口火を切る千歌に対し、梨子は自身の才能の行き詰まりを契機に内浦を訪れ、Aqoursに参加します。
 千歌は、地方の内浦で、μ'sが象徴する「輝き」を求めてスクールアイドルを始める。いっぽう梨子は、秋葉原には決して存在しない「海」の音を聴くために内浦へやってくる*2
 秋葉原と内浦。外の街で輝く光と、海の中で響く音。千歌と梨子に関連付けられるキーワード、行動や背景は、いつもセットになっている。それぞれのもつイメージは対照的で、美しい。『ラブライブ!サンシャイン!!』という大きな物語のなかで並走する二つの要素として、よくできています。

 二人は、互いの物語を動かす役割も担います。千歌は梨子をスクールアイドル活動にいざない、それまで彼女が聴けなかった「音」を聴かせる。一方梨子は、東京でのイベント後の千歌から、渡辺曜すら引き出せなかった「くやしい」という本心を引き出すことに成功します。
 家が隣り合い、ベランダ越しで言葉をやり取りする彼女たちの姿は、『赤毛のアン』のアン・シャーリーとダイアナ・バリーにさかのぼる、少女たちの友情の古典的なスタイルを思わせます。二人のみせる友情の物語の輝きは、アンとダイアナに影響された幾多の青春物語の系譜に並べても遜色ないでしょう。2話のベランダのシーンや、8話の浅瀬でのシーンなど、二人だけの名シーンにも事欠きません。そもそも、Aqoursの9人のなかで、二人だけ家が隣り合っているというだけで、梨子と千歌は特別な組み合わせといえるはずです。


梨子が同人誌を買う理由

 しかし最終的に、『ラブライブ!サンシャイン!!』という物語は、梨子と千歌の物語として決着することはありません。

 1stシングル以降、千歌と梨子がダブルでセンターを担う楽曲はないし、物語の後半、千歌と梨子の組み合わせは少しずつ解体されていく。

 7話、東京・秋葉原に出かけたAqoursは各々の趣味に沿った買い物を満喫します。そのなかで、梨子はたまたま見つけた「女性向同人誌専門店 オトメアン」なる店で、同人誌を購入しています。梨子が手に取っているのは、女性同士の恋愛物語を扱ったもののようです。本作における「女性向同人誌」にまつわる表現については慎重な検討が必要でしょうが、ここではひとまず措いておきます*3。ここで注目したいのは、梨子が女性同士の関係をフィクション(物語)として楽しむ人間になった、ということです。
 物語内人物が、物語のなかで物語に親しむ、ということは様々な性質をその人物に付与することになります。さすがに梨子が極端なメタ的視点を持つことはないのですが*4、オタク的に描かれる梨子のさまは、千歌と自分の関係を含め、俯瞰的な視点を彼女が獲得しているように受け取れます。彼女によるコメディ描写が、シリーズ前半では犬のしいたけとのやり取りだったのに対し、後半では同人誌関連に切り替わっていき、最終的には千歌の母親をまじえた、自分のかわいさをわかっている(自分と千歌の関係の可能性を理解している)くだりになる、というのもおもしろい変化です。
 もともと、千歌や内浦・沼津出身の人々に対するよそものとしてツッコミ役的な挙動を頻繁に行っていた梨子ではありますが、「女性向同人誌」に親しむことで彼女は明確に「自分たちの関係を外部から見ることができる」という性質を獲得することになる*5
 東京遠征後、梨子は千歌との関係を深めていくものの、それと比例するように、「女性向同人誌」へもいっそう傾倒していきます。彼女と千歌の関係がひとつの頂点を迎えるのが、千歌によってピアノコンクールへの参加を促される10話のラストですが、その後12話で東京を再訪した千歌が再会する梨子は、きわめて大量の同人誌を購入しています。

 梨子と千歌の親密さは、渡辺曜を中心に描く第11話『友情ヨーソロー』において決定的に解体されます。千歌との関係に思い悩む渡辺曜に、梨子は自ら曜に電話をかけ、自分と千歌との間にはなく、千歌と曜の間にしか存在しないものについて語る。
 ここで彼女がしているのは、人間関係の調整役です。自分もその渦中にいながら、冷静に曜の抱える屈託を把握し、千歌と自分、千歌と曜の関係を比較して分析してみせている。結果、曜と梨子、千歌の三人の関係が結び直され、梨子と千歌の特別さは後退します。
 11話のラストで、彼女たちはこのような言葉を口にします。

梨子「わたしや曜ちゃんや、普通のみんなが集まって。一人じゃとてもつくれない、大きな輝きをつくる。その輝きが、学校や、聞いてる人に広がっていく。つながっていく」
曜「それが、千歌ちゃんがやりたかったこと。スクールアイドルのなかにみつけた、輝きなんだ」

 彼女たちの個人的な人間関係の悩みは、スクールアイドルAqoursのあるべき姿を考えることで解消されていく。
 この問題の変換は、あきらかに物語の運びに歪みをもたらしています。わたしが「渡辺さんはそれでいいんですか」*6と思ったように、終盤の展開をじゅうぶんに受け止められない視聴者が多かった原因のひとつは、この歪みにあるように思える。そのような危ういことをなぜ行ったのか?
 それは、おそらくそこに『ラブライブ!』という物語の重要なルールが存在するからです。

 『ラブライブ!』のメインテーマは「みんなで叶える物語」です。ここでいう「みんな」は、「ファンと作り手」「二次元と三次元」などの垣根を取り払い、作品に関わる人すべてが物語に参加していくイメージを指していると思われます。『ラブライブ!』に関わるのなら、どの立場の人も物語にとって重要な存在である、というコンセプトが込められているとみていいでしょう。
 このコンセプトは、物語の内部に対しても適用されます。京極尚彦は『ラブライブ!』アニメ化に際し、μ'sの「9人が絶対必要なお話じゃなきゃいけないと、脚本の花田(十輝)さんにはずっとお願いしてい」たといいます*7。もちろん『サンシャイン!!』においては京極尚彦から酒井和男へと監督がバトンタッチされていますが、「みんなで叶える物語」というキャッチフレーズは作品の様々なところで提示されていますし、この考え方は継承されていると考えてよいでしょう。
 集団内の個人を対等に扱うには、個人どうしの関係性についても対等に扱わなければなりません。ある特定の人物たちの関係性が、物語のなかで大きくなりすぎてはいけないのです。μ'sにおいては、希と絵里、凛と花陽といった明らかに他のメンバーとは異なる深い関係性を結んでいる二人組がいるものの、その関係はμ'sの大きな物語とは深く関わりません*8
 すでに見てきたとおり、『ラブライブ!サンシャイン!!』において、梨子と千歌の二人によって大きな物語が動く瞬間は複数存在します。これ以上に梨子と千歌が特別な関係になってしまっては、全体のバランスが崩れてしまう。それでは、Aqoursの物語ではなく、梨子と千歌の物語になってしまうのです。それは「みんなで叶える物語」ではない。


聴こえないけれど聴こえる

 では梨子は特別な存在ではないのか。
 梨子と(あるいは曜と)千歌との間に縮めてはならない距離が定められているのなら、それは孤独と同じではないのか。高海千歌高坂穂乃果と同様に、一人で孤独に歌う存在なのか。
 思うに、問題はそういうことではない、というのが『ラブライブ!サンシャイン!!』からの回答ではないでしょうか。
 どういうことか。

 

 11話、梨子と曜と千歌の三者のあいだは均等に調整されます。

 千歌との間に距離を感じていた曜は、予備予選のステージで、彼女とペアになってパフォーマンスを行う。いっぽうそれまでもっとも千歌と距離が近いように思われていた梨子は、予備予選のステージには立たず、遠く東京で一人、ピアノコンクールに出場する。
 しかし、予備予選とピアノコンクールの二つのパフォーマンスは、ひとつのステージ上で行われているかのように演出されています。物理的には曜のほうが梨子よりも千歌の近くにいるけれども、アニメーションの演出によってその距離は無効化される。
 予備予選の楽曲『想いよひとつになれ』で、梨子の声を聴くことはできません。しかしそもそも、このとき演奏されるピアノ曲『海に還るもの』、そしてAqoursの『想いよひとつになれ』の原型となった内浦の「海の音」は、実際に聴こえるのではなく、心でイメージされるものとして示されていたのでした*9。ここでの梨子の声は、「聴こえないけれど聴こえる音」としてそこにある。
 だから、不在の梨子は、それでも確かに千歌と同時に歌を歌っている。
 物理的には曜が一番近く、観念的には梨子が一番近い。そのふたりに、『ラブライブ!サンシャイン!!』という物語は、優劣の順位をつけません。「想い」は「ひとつ」であるから。きわめてアクロバティックなやりかたで、梨子と曜のふたりが同時に千歌にとっての特別な存在になりえている。

 それでも、とこのアクロバティックなロジックに疑いを差し挟む余地は、12話で完全に消し去られます。音ノ木坂学院を訪れたAqoursは、μ'sが自分たちの痕跡をすべて消していったことを知る。劇中の完全なμ'sの不在は、現実の2016年4月1日以降のわたしたちが日々感じる喪失感と同じです。それでも、きれいにその活動の幕を閉じたμ'sを、誰より大きく感じていることを、ラブライバーなら誰でもその心をもって知っているはずです。

 同じステージに立たない梨子、そして完全にその痕跡を消したμ's。
 かれらは、千歌のもとを離れることで、このようなことを示してくれています。不在であることは無ではない。千歌は一人で歌っていても孤独ではない。


梨子が教えてくれること

 梨子と千歌がお互いだけの特別な存在になれるときはくるのでしょうか。あるいは、なぜここまでAqoursの物語は9人全員が等しく特別であることが求められるのでしょうか?
 わたしはずいぶん長いことこの点について考え込んでいたのですが、今日、12月27日になってようやく自分のなかでの答えが見いだせたように思います。

 ひとつめのヒントは、今日27日発売の『電撃G's Magazine』2017年2月号です。東條希絢瀬絵里が神前結婚式を挙げている(ようにしかみえない)グラビアが掲載されたのです*10
 もともと深い関係を結んでいた希と絵里ではありましたが、このように決定的なヴィジュアルが発表になったのは初めてではないでしょうか。
 これは、すでに現実世界でのμ'sが活動を一区切りし、μ'sの大きな物語に幕が引かれた現在だからこそ可能な出来事であるように思えます。
 千歌と梨子の関係が、希と絵里のそれに比肩しうるかどうかはわかりません。でももしかしたら、Aqoursがいつの日か彼女たちの大きな物語を終えたとき、二人は二人だけの関係を結ぶことができるかもしれない。ならば、いまはまだAqours九人の対等な特別さのままでいてもいいんじゃないだろうか。

 

 もう一つのヒントは、ほかでもない今日、12月27日に豊洲PITで行われたAqoursのライブイベント「ラブライブ!サンシャイン!!Aqours冬休み課外活動」です。
 というか、イベントそのものというよりは、このイベントをどう受け取るか、というファンの側のことです。
 わたしは豊洲PITに行くことができませんでした。仕事が終わったあと、映像配信サービスで画面越しに観ることしかできない。
 ではわたしは、会場に行けないわたしは、Aqoursの「みんなで叶える物語」の「みんな」には含まれないのでしょうか。
 Twitterを開けば、わたしと同じく、今日のイベントに参加できない人たちの嘆きの声をたくさん見つけることができます。わたし同様に抽選に外れた人。東京から遠くはなれた場所で暮らす、遠征のための時間もお金もない人。あるいは、みごとに入場チケット抽選に当たったにもかかわらず、急な仕事のために自分を犠牲にせざるをえない人。
 かれらと、会場の豊洲PITに入場できた人たちに、ファンとしての優劣はあるでしょうか。
 パフォーマンスを肉眼で見れたかどうか、肌で会場の空気を感じ取れたかどうか。それはたしかに物理的な違いとして明確に存在する。それはとても特別な経験です。今日、豊洲PITでAqoursの姿を目撃した人たちは、その場でしか結べない関係をAqoursとのあいだに結んだ。それは確かです。
 けれども、千歌と同じステージに立たない梨子が、千歌のすぐとなりにいる曜と同じ関係を千歌と結べるのならば、豊洲PITにいなかったわたしたちもまた、会場にいる人たちと同様に、Aqoursとの関係を結べると信じてもいいのではないか。
 梨子が自分の音楽を奏でるためにピアノコンクールのステージに立ったように、わたしたちはそれぞれのステージに立って自分の音を響かせることで、自分なりの関係をAqoursとのあいだに結ぶことができるのではないか?

 

 不遜を承知で言います(ちょっぴり狂人じみていることも承知で)。
 物語やコンテンツの定石を外して、歪みすら生み出して守られる「みんなで叶える物語」のルールは、もしかしたら、そのような希望をわたしたちが抱くためにあるのではないか。

 

 もしそのような考えを抱くことが許されるなら、Aqoursとは遠く離れた場所に立っているとしても、11話の梨子のように、輝きをつかむことができるかもしれない。
 すばらしいライブの映像を観てざわつく心を鎮めるために、今日くらいはこの偏った考えを胸に抱いていてもいいのではないか、といまのわたしは考えています。

*1:この記事を書くにあたって過去曲を聞き直しています。まだまだμ'sの膨大な曲の一部だけですが、いまのところは見つかりません。

*2:ところで、「なぜ梨子は移住先に内浦を選んだのか」という点はどの媒体の物語でも明かされません。ピアニストとしての前途を考えてとはいえ、東京都心から静岡まで母娘が引っ越しするにはかなりのコストが必要です。そのバックストーリーとして、たとえば、梨子の住む家のことを考えてみるというのはなかなか広げがいのある妄想であるように思えます。梨子の親族の持ち家だった、とか。あの家にかつて住んでいた誰かと、千歌の姉たちとのあいだに交流があったが…、なんてのもよいですね。

*3:どうみてもここで描かれる「女性向同人誌」と、現実世界におけるその主流とは距離があります。あのように路面店の看板で、「女性向」として百合的な同人誌が大々的に売り出されていることには違和感を抱かざるをえない。そこには「腐女子にならなかった人・桜内梨子」とでも題した文章を書かなければならない問題がありそうですが、ここでは控えておきます。というか巨大過ぎて手に余る。個人の印象を記しておくと、これは『ラブライブ!』世界から男性を排除したためにほんらい「女性向同人誌」文化の主流たるBLが存在できなくなっている、という作品の作りのうえでの理由を超えて、「BLが求められる文化や世界とはどんなものか、という思考実験としても面白いのではないか、と思います。女性スクールアイドルが男性の暴力に晒されずに安心して活動できる世界が成立するとき、われわれの世界では男性同士の恋愛を空想しないと得られない満足を、他で代替できるのではないか、だからあの世界ではBLは流行らないのではないか…? フィクション世界のなかである架空の存在を許すと、その世界のフィクションの有り様が変わっていく――という意味で、アメコミの傑作『ウォッチメン』の世界におけるヒーローの実在と海賊物語の流行の関係を思い出しました。

*4:たとえばルビィとμ'sの誰を推すかという話をしていてうっかり「やっぱりうみえりかな~」と言ってダイヤ様に「カップリングじゃなくて推しの話よ」と怒られるとか。

*5:もちろん、いったん外に出ることで、その関係の尊さを知りさらに没頭するようになる、という変化も起こり得ますが、現時点での梨子にそうした変化は生じていないと考えてよいように思います。

*6:渡辺さんはそれでいいんですか/『ラブライブ!サンシャイン!!』11話のこと http://tegi.hatenablog.com/entry/2016/09/17/105525 を参照ください。

*7:ラブライブ!TVアニメオフィシャルBOOK』より。

*8:絵里をμ'sに最終的に導くのは希ではなく穂乃果です。花陽は凛と真姫に背中を押されてμ'sに参加します。一期のクライマックスは一見すると穂乃果とことりが中心のようにみえますが、実際は海未を加えた三角関係になっています。

*9:2話、果南と梨子の会話参照。

*10:と言いつつ、これはまだ自分の目では確認できていません。わたしはまだ同誌を購入できていないからです。要はTL上で大騒ぎしているのぞえりクラスタのみなさんの言動からこの事実を知ったわけですが、伝聞で記事を書きたくないという気持ちはありつつも、この記事はどうしても今晩公開したかったのでそのままにしておきます。雑誌は明日買います。

「走れなかった人」国木田花丸のこと/『ラブライブ!サンシャイン!!』とAqoursを考える・その2

 2015年夏に行われたというAqoursの合宿を記録した映像のなかに、声優たちが野外でランニングをこなすシーンがあります。
 車道の脇の歩道を、めいめいのペースで走る声優たちのなかで、一人だけ大きく遅れて走る人の姿がある。
 明らかに彼女は疲労困憊していて、足が上がっていません。カメラの前を彼女はゆっくり横切っていく。


 この映像は、2016年1月11日の1stシングル発売記念イベントの際に初公開されました。イベント会場であるメルパルクホールの上映環境では、映像が暗く、わたしにはそれが誰だったのか判別できませんでした。9月に発売された『ラブライブ!サンシャイン!!』ブルーレイ第1巻におさめられたその映像を観ることでようやく、わたしはそれが誰だったのかを確認することができたのでした。高槻かなこさんでした。


 彼女はこのときのことを次のように語っています。

「私はこれまで運動をしてこなかったので誰よりも体力がなくて。1人だけみんなから置いて行かれ、さらに不注意から足を捻挫しちゃって、せっかく参加したのに1日見学……。あぁ、9人のなかで私が一番努力が足りない……。あの時は本当に自分が情けなかったです。」
(『電撃G's Magazine』2016年10月号 Special Interview より)

 このエピソードを知ったAqoursのファンなら、みなこう思うのではないでしょうか。「4話の花丸じゃん!」と。


 『ラブライブ!サンシャイン!!』アニメ第4話『ふたりのキモチ』は、Aqoursに新たに加入する浦の星女学院の一年生・黒澤ルビィと国木田花丸を中心に描いたエピソードです。

 千歌に勧誘されたルビィと花丸は、体験入部というかたちでAqoursの活動に参加します。放課後、体力づくりのための過酷なランニングの最中に、花丸はみなについていけなくなってしまう。その姿はそのまま合宿時の高槻さんの姿に重なります。

 

 実際のところ、4話の脚本は、もしかしたら合宿時の高槻さんのエピソードをヒントに書かれたのかもしれません。もしそうだとしても、この現実の引用には、秀逸なひねりが加えられています。
 走れなかった自分=高槻さん/花丸の挫折を、彼女自身が乗り越えていく、というような花丸中心の場面にせず、そのことをきっかけにルビィが変わる、という花丸をサポート役とした場面に変更させているのです。
 4話が感動的なのは、この場面を中心に、各々の成長や変化が花丸とルビィが互いに思いあうことを起点に描かれるからです。
 ルビィは花丸の、花丸はルビィの、優しさと励ましによって変化し成長していく。『ラブライブ!』はスポ根的と表されることがたびたびありますが、そうした雰囲気が嫌味にならないのは、個々人の努力や才能だけでは物語は動かず、人間同士の関係における変化や行動によってこそ物語が動くことが多いからでしょう。スポ根的な「なせばなる」という価値観は受け入れづらいですが、「誰かと一緒なら自分は自分以上の力を発揮できるかもしれない」、という価値観なら受け入れやすい。


 現実からインスパイアされたのかどうかはともかく、アニメ4話を経て、「走れなかったこと」は高槻かなこさんと国木田花丸がぴったり等しく抱える共通点になりました。ところがこのことは、作り手側からもファンからも、あまり大きくクローズアップされてこなかったように思われます*1
 これもまた道理で、前述のようにアニメの物語としては「花丸がルビィの背中を押したこと」こそが重要なのであって、花丸が遅れたこと自体はさほど重要ではないからです。高槻さん/花丸の「走れなかった」という経験はあくまで彼女自身の経験に留まっていて、Aqours全体のものにはなっていない*2
 このあたり、ラブライバーがどんなことに「エモさ」を感じるかの境界を如実に示しているのかもしれません。『ラブライブ!』二期9話、高坂穂乃果たちのライブ参加を阻まむ大雪と、同年春のμ's 4thライブでの荒天とを重ね合わせて「エモさ」を感じる見立てはラブライバーのなかではいまや共通理解になったと言ってよいと思いますが、そのような現実と虚構の重ね合わせを『サンシャイン!!』4話に対して行う人は、少なくともわたしの観測範囲には見つかりません*3


 4話でAqoursに加入したあと、アニメ版における花丸の花丸らしさは薄れたようにみえます。スクールアイドルなんて自分は向いていない、と言っていたはずが、5話以降、彼女がスクールアイドル活動に躊躇するさまは見られません。コンプレックスであったはずの「ずら」も、冗談または萌える語尾として使いこなしており*4、あの内気なはずの花丸はどこへ、と思わざるをえない。
 自分の挫折やコンプレックスにとらわれないで、かように友達とはしゃぐことのできる花丸の笑顔はまぶしい。同じような挫折をしたらぜったい内にひきこもる自信のあるわたしのようなネガティブオタクには少々まぶしすぎるくらいです。

 しかし、この変化もまた、花丸らしさの現れなのではないでしょうか。
 4話に描かれた「走れなかった花丸」は、走れない自分より、そんな自分に気を取られて走るのをやめてしまうルビィのことを優先して考えた。そもそも彼女は、スクールアイドルなどという自分には似合わない活動に、ルビィがAqoursに参加しやすくするためだけに挑戦することにしたのです。彼女は誰か自分の愛する人のためならばためらいなく勇気ある行動をなしうるし、自分の慣れないスクールアイドル活動をすっかり楽しむこともできる。自分の失敗や弱点にとらわれすぎない。いざやると決めたなら、飄々とスクールアイドル活動をこなしていくことができる。
 5話以降、Aqoursの山あり谷ありな活動に花丸が付き合うことができたのは、そこにルビィがいたからなのでしょう。そして、ルビィと同じくらいに大切な仲間もできたから、ということでもあるかもしれない。

「大好きな小説を読んでるといっつも思うんだ。どこにいっても誰といても、しょせん人間は1人なんだなあって。」
(『ラブライブ!サンシャイン!!FIRST FAN BOOK』p.44)

 花丸はもともと、このような考えをいだいている人間のはずです。
 そのような人間が、みんながわいわいやっている部室でのっぽパンをむしゃむしゃ食べたり、ステージのうえで踊って歌ってと輝いていたりしていることの変化の大きさは、驚きであるとともに、「誰かのためならば、誰かと一緒ならば強くなれる」という花丸らしさの実感をもわたしに与えてくれます。
 そのように考えると、13話の彼女の(ステージ外での)最後のせりふが、「黄昏の理解者ずら」だった、ということがとても筋が通ったことであるように思えます。ヨハネの文体を引用する、という活字中毒者らしいスタイルで、ヨハネ・ルビィとの絆を確認し、相手に愛おしむ感情を伝える。本好きであることと、友達思いであること、その花丸の二つの側面を込めた名台詞だとわたしは思います。


 さて、「走れなかった」ときから時は経ち、花丸とおなじく、高槻かなこさんもまた、変化し、仲間を見つけ、前に進まれているようです。

「今は二人三脚というか……。ホント、くっついたまま歩いている気持ちです。」
「「誰になにをいわれても、マルちゃんの気持ちを伝えるために、私が持つ力のすべてを出して演じよう。それが運命的に私のもとに訪れてくれた彼女への最大の恩返しだ」と。今ではそう思っています。」
(『電撃G's Magazine』2016年10月号 Special Interview より)

 あの合宿のあと、高槻さんは自分の至らなさを痛感し、一層の努力をするようになったといいます。トレーニングを継続し、減量とスタミナアップに成功しているとのこと。

 ブルーレイ3巻付録の公野櫻子による『ラブライブ!サンシャイン!! School Idol Diary』善子・花丸・ルビィ編は、一年生のつながりを公野先生ならではの細やかな筆致でみごとに描いて出色なのですが、とくに、保育園のお泊り会で夜の闇に怯えた花丸が、ルビィと手をつなぐことで自身の勇気を発見するくだりは、アニメにおける花丸とルビィ、そして現実における高槻さんと花丸とのつながりを思わせるようで、わたしは読んでいて涙ぐんでしまいました*5
 花丸も高槻さんも、かつては皆と同じようには走れなかった。けれどいまのふたりならきっと、心のなかで大切な人の手を握って、力強く走ることができるに違いありません。

 

 

 

 

 

 

ラブライブ!サンシャイン!! FIRST FAN BOOK

ラブライブ!サンシャイン!! FIRST FAN BOOK

 

 

*1:そんなことないよ、ここで話題になってたよ、という人はぜひ教えてください。

*2:少なくとも、公になっている限りでは。とうぜん、ファンには見えないところで、この出来事をきっかけにAqours九人に波及するような何かが生じていた可能性は十分にありえます。

*3:ラブライブ!』二期9話のそれが現実のエピソードとは関係なく製作されていたらしいのに対し、今回はそのあたりが不明瞭である、ということも大きいかもしれませんが。/二期9話の製作については、このようなコメントが公式の誰かから行われていたように記憶しているのですが、わたしの勘違いかもしれません。こちらも詳細ご存知の方がいたらぜひぜひ教えてください。

*4:もともとそういう気配はありましたが、彼女の「ずら」はほとんどもう音ノ木坂の先輩たちの「にこ」あるいは「にゃー」と同じような、萌え記号としての変わった語尾、という感じのものになっています。さらに、地区予選に訪れた名古屋では「だぎゃー!」と声をあげてはしゃいでいる。これらは明らかに、自分の方言的口癖を客観視したうえで彼女自身が意図的に行っているとみていいでしょう。
出生地の言葉や習慣を笑いに転化する行為はかなりリスキーであり、方言をかように笑いや萌えのために使っていいのか、観る側としては少々困惑しないではなかったのですが、名古屋弁を扱ったことにわたしは少し安心しました。東北弁も名古屋弁も花丸のなかでは等しく「楽しい言葉」であり、正しい標準語とおかしな方言、といったような対立構造や上下の順序付けがなされるものではないことが明らかにされたからです。

*5:ところでアニメ版の描写に従うなら、ルビィと花丸が同じ保育園であるとは考えにくいので、このエピソードはアニメ版のふたりは体験していない、と考えざるを得ないようです。しかし、このエピソードは読むものにアニメ4話のことを強く思い出させます。確かにアニメ版のふたりは保育園で手をつなぐことはなかった。けれども、彼女たちは高校生になって、スクールアイドルという未知の世界に足を踏み出すときに、たしかに手をつないでお互いの勇気の糧となっていた。そこが同じならば全然問題ないじゃないか。わたしはそう思います。