2015年夏に行われたというAqoursの合宿を記録した映像のなかに、声優たちが野外でランニングをこなすシーンがあります。
車道の脇の歩道を、めいめいのペースで走る声優たちのなかで、一人だけ大きく遅れて走る人の姿がある。
明らかに彼女は疲労困憊していて、足が上がっていません。カメラの前を彼女はゆっくり横切っていく。
この映像は、2016年1月11日の1stシングル発売記念イベントの際に初公開されました。イベント会場であるメルパルクホールの上映環境では、映像が暗く、わたしにはそれが誰だったのか判別できませんでした。9月に発売された『ラブライブ!サンシャイン!!』ブルーレイ第1巻におさめられたその映像を観ることでようやく、わたしはそれが誰だったのかを確認することができたのでした。高槻かなこさんでした。
彼女はこのときのことを次のように語っています。
「私はこれまで運動をしてこなかったので誰よりも体力がなくて。1人だけみんなから置いて行かれ、さらに不注意から足を捻挫しちゃって、せっかく参加したのに1日見学……。あぁ、9人のなかで私が一番努力が足りない……。あの時は本当に自分が情けなかったです。」
(『電撃G's Magazine』2016年10月号 Special Interview より)
このエピソードを知ったAqoursのファンなら、みなこう思うのではないでしょうか。「4話の花丸じゃん!」と。
『ラブライブ!サンシャイン!!』アニメ第4話『ふたりのキモチ』は、Aqoursに新たに加入する浦の星女学院の一年生・黒澤ルビィと国木田花丸を中心に描いたエピソードです。
千歌に勧誘されたルビィと花丸は、体験入部というかたちでAqoursの活動に参加します。放課後、体力づくりのための過酷なランニングの最中に、花丸はみなについていけなくなってしまう。その姿はそのまま合宿時の高槻さんの姿に重なります。
実際のところ、4話の脚本は、もしかしたら合宿時の高槻さんのエピソードをヒントに書かれたのかもしれません。もしそうだとしても、この現実の引用には、秀逸なひねりが加えられています。
走れなかった自分=高槻さん/花丸の挫折を、彼女自身が乗り越えていく、というような花丸中心の場面にせず、そのことをきっかけにルビィが変わる、という花丸をサポート役とした場面に変更させているのです。
4話が感動的なのは、この場面を中心に、各々の成長や変化が花丸とルビィが互いに思いあうことを起点に描かれるからです。
ルビィは花丸の、花丸はルビィの、優しさと励ましによって変化し成長していく。『ラブライブ!』はスポ根的と表されることがたびたびありますが、そうした雰囲気が嫌味にならないのは、個々人の努力や才能だけでは物語は動かず、人間同士の関係における変化や行動によってこそ物語が動くことが多いからでしょう。スポ根的な「なせばなる」という価値観は受け入れづらいですが、「誰かと一緒なら自分は自分以上の力を発揮できるかもしれない」、という価値観なら受け入れやすい。
現実からインスパイアされたのかどうかはともかく、アニメ4話を経て、「走れなかったこと」は高槻かなこさんと国木田花丸がぴったり等しく抱える共通点になりました。ところがこのことは、作り手側からもファンからも、あまり大きくクローズアップされてこなかったように思われます*1。
これもまた道理で、前述のようにアニメの物語としては「花丸がルビィの背中を押したこと」こそが重要なのであって、花丸が遅れたこと自体はさほど重要ではないからです。高槻さん/花丸の「走れなかった」という経験はあくまで彼女自身の経験に留まっていて、Aqours全体のものにはなっていない*2。
このあたり、ラブライバーがどんなことに「エモさ」を感じるかの境界を如実に示しているのかもしれません。『ラブライブ!』二期9話、高坂穂乃果たちのライブ参加を阻まむ大雪と、同年春のμ's 4thライブでの荒天とを重ね合わせて「エモさ」を感じる見立てはラブライバーのなかではいまや共通理解になったと言ってよいと思いますが、そのような現実と虚構の重ね合わせを『サンシャイン!!』4話に対して行う人は、少なくともわたしの観測範囲には見つかりません*3。
4話でAqoursに加入したあと、アニメ版における花丸の花丸らしさは薄れたようにみえます。スクールアイドルなんて自分は向いていない、と言っていたはずが、5話以降、彼女がスクールアイドル活動に躊躇するさまは見られません。コンプレックスであったはずの「ずら」も、冗談または萌える語尾として使いこなしており*4、あの内気なはずの花丸はどこへ、と思わざるをえない。
自分の挫折やコンプレックスにとらわれないで、かように友達とはしゃぐことのできる花丸の笑顔はまぶしい。同じような挫折をしたらぜったい内にひきこもる自信のあるわたしのようなネガティブオタクには少々まぶしすぎるくらいです。
しかし、この変化もまた、花丸らしさの現れなのではないでしょうか。
4話に描かれた「走れなかった花丸」は、走れない自分より、そんな自分に気を取られて走るのをやめてしまうルビィのことを優先して考えた。そもそも彼女は、スクールアイドルなどという自分には似合わない活動に、ルビィがAqoursに参加しやすくするためだけに挑戦することにしたのです。彼女は誰か自分の愛する人のためならばためらいなく勇気ある行動をなしうるし、自分の慣れないスクールアイドル活動をすっかり楽しむこともできる。自分の失敗や弱点にとらわれすぎない。いざやると決めたなら、飄々とスクールアイドル活動をこなしていくことができる。
5話以降、Aqoursの山あり谷ありな活動に花丸が付き合うことができたのは、そこにルビィがいたからなのでしょう。そして、ルビィと同じくらいに大切な仲間もできたから、ということでもあるかもしれない。
「大好きな小説を読んでるといっつも思うんだ。どこにいっても誰といても、しょせん人間は1人なんだなあって。」
(『ラブライブ!サンシャイン!!FIRST FAN BOOK』p.44)
花丸はもともと、このような考えをいだいている人間のはずです。
そのような人間が、みんながわいわいやっている部室でのっぽパンをむしゃむしゃ食べたり、ステージのうえで踊って歌ってと輝いていたりしていることの変化の大きさは、驚きであるとともに、「誰かのためならば、誰かと一緒ならば強くなれる」という花丸らしさの実感をもわたしに与えてくれます。
そのように考えると、13話の彼女の(ステージ外での)最後のせりふが、「黄昏の理解者ずら」だった、ということがとても筋が通ったことであるように思えます。ヨハネの文体を引用する、という活字中毒者らしいスタイルで、ヨハネ・ルビィとの絆を確認し、相手に愛おしむ感情を伝える。本好きであることと、友達思いであること、その花丸の二つの側面を込めた名台詞だとわたしは思います。
さて、「走れなかった」ときから時は経ち、花丸とおなじく、高槻かなこさんもまた、変化し、仲間を見つけ、前に進まれているようです。
「今は二人三脚というか……。ホント、くっついたまま歩いている気持ちです。」
「「誰になにをいわれても、マルちゃんの気持ちを伝えるために、私が持つ力のすべてを出して演じよう。それが運命的に私のもとに訪れてくれた彼女への最大の恩返しだ」と。今ではそう思っています。」
(『電撃G's Magazine』2016年10月号 Special Interview より)
あの合宿のあと、高槻さんは自分の至らなさを痛感し、一層の努力をするようになったといいます。トレーニングを継続し、減量とスタミナアップに成功しているとのこと。
ブルーレイ3巻付録の公野櫻子による『ラブライブ!サンシャイン!! School Idol Diary』善子・花丸・ルビィ編は、一年生のつながりを公野先生ならではの細やかな筆致でみごとに描いて出色なのですが、とくに、保育園のお泊り会で夜の闇に怯えた花丸が、ルビィと手をつなぐことで自身の勇気を発見するくだりは、アニメにおける花丸とルビィ、そして現実における高槻さんと花丸とのつながりを思わせるようで、わたしは読んでいて涙ぐんでしまいました*5。
花丸も高槻さんも、かつては皆と同じようには走れなかった。けれどいまのふたりならきっと、心のなかで大切な人の手を握って、力強く走ることができるに違いありません。
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*1:そんなことないよ、ここで話題になってたよ、という人はぜひ教えてください。
*2:少なくとも、公になっている限りでは。とうぜん、ファンには見えないところで、この出来事をきっかけにAqours九人に波及するような何かが生じていた可能性は十分にありえます。
*3:『ラブライブ!』二期9話のそれが現実のエピソードとは関係なく製作されていたらしいのに対し、今回はそのあたりが不明瞭である、ということも大きいかもしれませんが。/二期9話の製作については、このようなコメントが公式の誰かから行われていたように記憶しているのですが、わたしの勘違いかもしれません。こちらも詳細ご存知の方がいたらぜひぜひ教えてください。
*4:もともとそういう気配はありましたが、彼女の「ずら」はほとんどもう音ノ木坂の先輩たちの「にこ」あるいは「にゃー」と同じような、萌え記号としての変わった語尾、という感じのものになっています。さらに、地区予選に訪れた名古屋では「だぎゃー!」と声をあげてはしゃいでいる。これらは明らかに、自分の方言的口癖を客観視したうえで彼女自身が意図的に行っているとみていいでしょう。
出生地の言葉や習慣を笑いに転化する行為はかなりリスキーであり、方言をかように笑いや萌えのために使っていいのか、観る側としては少々困惑しないではなかったのですが、名古屋弁を扱ったことにわたしは少し安心しました。東北弁も名古屋弁も花丸のなかでは等しく「楽しい言葉」であり、正しい標準語とおかしな方言、といったような対立構造や上下の順序付けがなされるものではないことが明らかにされたからです。
*5:ところでアニメ版の描写に従うなら、ルビィと花丸が同じ保育園であるとは考えにくいので、このエピソードはアニメ版のふたりは体験していない、と考えざるを得ないようです。しかし、このエピソードは読むものにアニメ4話のことを強く思い出させます。確かにアニメ版のふたりは保育園で手をつなぐことはなかった。けれども、彼女たちは高校生になって、スクールアイドルという未知の世界に足を踏み出すときに、たしかに手をつないでお互いの勇気の糧となっていた。そこが同じならば全然問題ないじゃないか。わたしはそう思います。