こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

『幻日のヨハネ -SUNSHINE in the MIRROR-』放送直前に思うこと

 あと一時間半くらいで『幻日のヨハネ』最速配信が始まる、というタイミングでこの文章を書き始めている。
 なんだか『ラブライブ!サンシャイン!!』一期のころから、アニメ放送直前に短文を書くのが習慣になっていて、今回はそういうことをすっかり忘れていたのだけど、書きたいことがあるなと思ったので書き始めた。

 

tegi.hatenablog.com

 

 『ラブライブ!サンシャイン!!』1期の放送開始が2016年7月だったというから、あれからもう8年も経っているのである。こんなに続くとは思っていなかった。本当に本当に嬉しい。
 自分もファンだけれどもちょっと距離を置いたところから眺めて思う。『ラブライブ!サンシャイン!!』、そしてAqoursという存在は本当にすごいものだと。これだけ長いあいだコンテンツとして継続しつつ、なおも新しい展開を続けていることになるなんて、それこそ2016年のころは思いもしなかった。
 ファン、作り手、そして何より物語の舞台となった静岡県沼津市の人々の尽力によるものだと思う。
 コロナ危機は言わずもがなだけれども、それ以外にも、色々なものを通過してなおAqoursは続いている。自分が批判する側に立ったことだからあまり振り返りたくないけれど(それでも言うけど)、ポスタービジュアルへの批判だとか。余談になるけれどあの問題はベストではないけれどかろうじてベターなやりかたで解決されつつあると思っている。2020年春以降の作品外とのコラボレーション企画におけるイラストは、あのときの批判を反映したものになっているように見える。ファンの贔屓目かもしれないけれど、そうであってほしい。
 そういうことも通過して『ラブライブ!サンシャイン!!』とAqoursは今も前進し続けている。

 『幻日のヨハネ』の放送をまえに、この週末、Abemaでは『ラブライブ!』シリーズの全作品を一挙放送している。久々に『ラブライブ!』や『ラブライブ!サンシャイン!!』を観ると、その映像のスタイルに時代の経過を強く感じる。絵柄も、撮影も演出も、それぞれの時代のものだなと思う。『虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』『ラブライブ!スーパースター!!』と比べるとその印象は一層強くなる。それでも自分がそれぞれの作品に抱く愛着は変わらない。今でも自分は『ラブライブ!サンシャイン!!』が一番好きだ。大好きなうえで、「ここの表現はちょっと古いな」「今だったらどんなふうに描くかな」といったことも考える。
 前述のポスタービジュアルの問題からつながる話題として書くけども、アイドルという存在を描く物語である以上、登場する10代の女性たちを「消費する」ということからは逃れ得ず、当時でも今でもそこまでひどい表現はほとんどないと思うのだけど、じゃあ自分が『ラブライブ!サンシャイン!!』を誰にでもてらいなく薦められるかというと無理だと思う。色々注釈付きで薦める。それは仕方のないことだ。
 『幻日のヨハネ』という新しいアニメシリーズの製作が嬉しいのは、こういうところにもある。女性アイドルを扱った作品に苦手意識をもった人にも、Aqoursの面々の魅力が届くのではないか、と思えるからだ。
 いかに現実の「沼津」と同じような「ヌマヅ」を舞台にしているとはいえ、『幻日のヨハネ』は『ラブライブ!サンシャイン!!』の作風とは大きく異なる。ファンのなかにはこれを忌避する人もいるかもしれない。それでも『幻日のヨハネ』という作品は今のAqoursやファン、沼津という場所にとって「よいもの」になる、という判断を制作者たちは下したのだろう。予告編の映像などを観る限り、その判断は正しかったと思う。今回の新作アニメはとても大きな変化だけれども、ともかく、色々な変化を積み重ねて今のAqoursはある。そうやって変化していく、ファンからすれば同じ時代を自分と同じようにもがきながら生きていく存在であるAqoursが、あるいは『ラブライブ!』というシリーズが、わたしは好きだ。
 
 津島善子ヨハネというキャラクターもまた、かつて大きな変化を経て成立した存在だ。詳しくは昔のブログに書いていた。

tegi.hatenablog.com

 

 そういう、大きな変化や、あるいは自分のなかの葛藤を受け入れ、力に変えていくヨハネという存在を中心に、『ラブライブ!サンシャイン!!』のスピンオフが作られることも、必然のことのようにも思える。
 『ラブライブ!サンシャイン!!』における善子/ヨハネのことを考えるとき、自分にはいまだに消化できていないエピソードがある。劇場版の終盤で、避けてきた中学校のときの級友に出くわし、一度は逃げようとするものの国木田花丸によって強引に対面させられる、というくだりだ。結果として善子は一度は離れた友人たちと連絡先を交換し、新しい人間関係を結ぶことに成功する。であれば彼女にとってそれはよい変化だったのではないか。しかし、善子本人の気持ちを考えれば、花丸の行為は乱暴に過ぎたのではないか。彼女は再び、友人たちとの関係のなかで傷ついてしまうのではないか…。
 変化の意味は、すぐその時にはわからない。いや、何年経ってもわからないこともある。
 重要なことは変化を恐れないことだ--というのは楽だ。怖いものは怖い。そういう恐怖や変化といかに一緒に生きていけばいいのか。


 
 『幻日のヨハネ』の脚本を担当する大野敏哉の書いた小説で、『都立桜の台高校帰宅部』というものがある。東日本大震災によって大きく傷つけられた人物を中心に、十代の登場人物たちがもがきながら生きていくさまを描いている。わたしは結構この小説が好きだ。2013年の出版だから、まだ東日本大震災の記憶も傷も生々しいころに書かれ発表されている。当然ながら、あのような大きな災害によって傷つけられた人々には、救いも、癒やしも、簡単には訪れない。大小はともかく、恐らく、生きるすべてのひとの苦しみには、簡単には答えは出ない。ままならない自分や友人や家族とともに、なんとかかんとかやっていくしかない。『都立桜の台高校帰宅部』はそういう、現在進行系のもがきや、それでも少しは訪れる救いみたいなものを逃げずに描いている小説だ。同じく大野敏哉が脚本を書いた『ガッチャマンクラウズ』シリーズもまた、同じような姿勢で語られた物語だとわたしは思っている。

 

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 『幻日のヨハネ』ももしかしたらそういう姿勢をもった物語であるのかもしれない。もしそうだとすれば、それは、『ラブライブ!サンシャイン!!』という物語が、Aqoursがとってきた姿勢と非常に親しいものなのではないか。そこに生まれる新たな物語の力に、自分は心の底から期待を抱いている。

 


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