こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

「覚束ない人」黒澤ルビィのこと/『ラブライブ!サンシャイン!!』とAqoursを考える・その6

 2月19日は降幡愛さんの誕生日だそうです。めでたい!

 これを祝して、今日は彼女と彼女の演じる黒澤ルビィの魅力について語ります。

 

アイドルの一定義

 アイドルとはなにか?

 その定義には色々あると思いますが、ひとつのタイプとして、「全体的に覚束ないんだけどどうしようもなく魅力的な人」、という定義ができるんじゃないかなと思います*1。人間として、また歌手や演技者としては未熟だけれども、それを越える魅力を獲得してしまっている人。
 高校生だけど(=「アイドル」という職種ではなく本分は学生だけれど)アイドル、というスクールアイドルという存在は、学校とアイドルの両方に足を置いているということがこの「覚束なさ」を生み出しているわけですが、『ラブライブ!』のμ'sを考えるとき、特にその後期の活動の印象においては、覚束なさ、幼さの印象はあまり強くありません。これはアニメ二期からファンになったわたしの個人的な記憶によるところも大きいでしょう。アニメなどの劇中で幼さや無邪気さを強調された描かれ方をしていても、彼女たちがすでに成し遂げた偉業*2を考えれば、覚束なさを感じることはそうない。特に、映画『ラブライブ! School Idol Movie』や、2016年4月のファイナルライブを観れば、その尊さに打ちのめされるしかないわけで、観る側が自分よりも覚束ない部分を見出すのは相当に難しいと言わざるをえません。
 ではAqoursはどうかというと、これまた、人の少ない地方で、勝率の低いスクールアイドル活動に挑むという立場から生じるある種の悲壮さ、勇敢さ、諦念をまとっていて、やはり幼さや頼りなさを感じることはあまりありません。

 しかしそんななか、圧倒的な覚束なさでわたしの目を奪うのが黒澤ルビィであり、彼女を演じる降幡愛さんです。

 

覚束ないルビィと降幡愛

 黒澤ルビィは、名家の長女として学校でも地域でも名を馳せる才女・黒澤ダイヤの妹の影にかくれる、「泣き虫で臆病で男性恐怖症」*3という覚束なさの塊のような少女です。不器用だし人前に出るのも苦手ですが、それでもただひたすらにスクールアイドルが大好きであるがゆえに自身もスクールアイドルになろうとしてしまう。
 『ラブライブ!』全体を見渡しても、かように基礎設定として幼く未熟な人間としてのアイドル性を打ち出したキャラクターは珍しいと言えるでしょう。強いて言えば、一番近い印象なのは小泉花陽でしょうか。しかし花陽は『ラブライブ!』アニメ二期で次期部長となりましたから、やはりルビィと並べるのは無理がある。

 

 演じる降幡愛さんも、こんな逸話を残しています。

「最終のスタジオオーディションで、役柄や『ラブライブ!』への想いを語っているうちに感極まって大号泣してしまったんです。酒井(和男)監督が声をかけてくださっても返答ができないくらい。あの時は、”今、ここに立っている自分”が信じられなくて、本当にうれしくて、夢のようで…。でも、泣いてしまったのはプロらしくないかもと思い、ずっと落ち込んでいたんです」

降幡愛*4 

  確かに「プロ」としてはよろしくないですが、アイドルとしては一億点のエピソードでしょう。最終オーディションに残る以上、ある程度の能力を認められている立場なわけですが、そうした自分の能力を追い越して感情が先走っている。そりゃ酒井監督も声をかけたくなるというもの*5

 特にアニメ一期によってスポ根物語としての性格を強くした『ラブライブ!』にあって、弱さ、未成熟さは、強さ(能力の高さ)で越えるべきものとして描かれがちです。ファンのほうも、キャストが発揮するダンスや歌唱の力や、成長の度合いに歓声をあげる。そういうなかにあって、弱さそのものがどうしようもない魅力を放つルビィ/降幡さん、というのは貴重な存在で、作品やグループ全体にとっても重要だと思うのです。
 先日某所で、小学生の女の子たちに黒澤ルビィが人気である、という話を聞きました。高校生であるルビィが小学生に支持されるというのは、おそらくこうした弱さと無縁ではない。それこそ姉のダイヤはそうした支持を得ることは難しいでしょう。

 

 アイドルの弱さに魅力を感じる、というのは、乱暴に言ってしまえば、自分より弱いものを眺め応援することで、庇護欲を満たせるからでしょう。前述の小学生の女の子たちというのは特殊な一部の例で、『ラブライブ!』の主なファンはルビィよりも年長の男性たちです*6。そこにあるのは、年長の男が幼い女を庇護し、その対価として尊敬であったり愛であったりを期待する、というあまり胸の張れない構図です。まあ、それは否定できません。


 じゃあ、弱いアイドルを愛おしむのは虚しく忌むべき行為かといえば、長期的に言えばそうではありません。弱く幼いアイドルも、いつかは変わっていく。ルビィも降幡さんも、いつかどこかの時点で、ファンの庇護欲の閾値を越えるような輝きを獲得する*7
 そのときファンは、今まで応援していたアイドルが自分を越え、変化し、追い抜かれたことを悟ります。たぶんその認識は、ファンをも変える。今度はまた違う弱く幼いアイドルを応援するようになるだけかもしれないけれども、そうなったとしても、まったく変化しないでいるのは無理なはずです。
 成長や変化が絶対あるべきとは言わないけれども、そうした可能性を孕んでいる時点で、幼く弱いアイドルを愛でるという行為は、虚しいものではないでしょう。

 

まだ職人じゃない

 アイドル一般の話がだいぶ長くなってしまいました。
 ルビィ/降幡さんが、そうした決定的な変化を迎えるのはまだ先だと思います。
 降幡さんは、「職人」という仇名で他のAqoursメンバーやファンたちから親しまれていますが、実際のところ、わたしは彼女の言動に「職人」という言葉が本来示す意味を感じることはない。彼女のトークや一発芸はたびたび場を沸かせるし、絵はうまいし、写真で自他の魅力的な瞬間を切り取るのもうまい。でも、それらに「職人」的な技巧や安定性はないようにわたしには思えます。
 むしろそこにあるのは、対象への強く深い感情や、野放図で無邪気な「楽しもう」という気持ちでしょう。降幡さんの言動のはしばしにそういう素直さを見て、わたしはしみじみと「いいなあ」と思ってしまう。

 なぜなら、技術的な「職人」には、技術の修行を積み重ねればなれるけれども、降幡さんが醸し出すようなよさは、そう簡単には手に入らないからです。

 

 ついに開催まで一週間を切ったAqoursのファーストライブに向けて、降幡さんはたびたび「ルビィとしてステージに立ちたい」という趣旨の発言をしています。
 それは降幡さんの、自分の演じるキャラクターへのまっすぐな感情の表れです。幼く弱いルビィを、客観視するのではなく、まっすぐに追い求める*8
 ニコ生等を見ていると、そうした真っ直ぐさが、時として素っ頓狂な失敗を招いてしまうこともあるなあと、苦笑いしつつ心配にもなるのですが、でも、そういう人にしか招けない風景というのもきっとある。
 そして、幼く弱くまっすぐな人が描くものほど、強く大人びてあろうとした人の心を不意打ちするものはないと思う。

「あいあいは「有紗はね、そんなにがんばらなくてもいいんだよ」と私の頭をなでてくれるんです」

 

小宮有紗*9 

 

その日の夜は小さな三日月。
そんな小さな月の明かりは――でも透き通るようにきれいな白色に輝いていて。
なんだか新しい世界を――わたくしに示しているような気がしたわ。
美しいのは空から落ちてきそうに大きな満月だけじゃなく。
どんな夜空にも――美をあることを。

 

黒澤ダイヤ*10 

 

 弱く幼いアイドルを愛でることは庇護欲からくる、と先程書きましたが、このように、そんな幼く弱いものから何かを与え返される瞬間というのは、べつにその活動の終盤でなくとも何度も生じる*11。実は、小刻みに庇護欲を否定され続けることこそそういうアイドルを応援することの核なのかもしれませんけど、でもそういうアイドルは、その次の瞬間にはまた、頼りない姿を見せてこちらを冷や冷やさせてくれる。
 寄せては返す波のように、心休まらない楽しさを与えてくれるアイドル性をもったルビィ/降幡さんを、わたしはまだまだ眺めていたいと思うのでした。

 

 

  降幡さんといえば写ルンです

 

 

 

 

ライムスター宇多丸の「マブ論 CLASSICS」 アイドルソング時評 2000~2008

ライムスター宇多丸の「マブ論 CLASSICS」 アイドルソング時評 2000~2008

 

 

*1:というぼくのアイドル観は多分にライムスター・宇多丸さんのそれの影響を受けています。彼のアイドルの定義は、「魅力が実力を凌駕している存在、それをファンが応援で埋める」(TBSラジオライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』2012年2月18日放送分より)というものです。)

*2:アニメ一期における学校の存続や、アニメ二期におけるラブライブ優勝はもちろん、何よりもコンテンツとして巨大な人気を得るに至らせた声優たちの活躍ぶりが大きい。

*3:ラブライブ!サンシャイン!! FIRST FAN BOOK』

*4:『電撃G's Magazine』2016年10月号 インタビューより

*5:余談ですが、キャスト決定の段階から酒井和男さんが立ち会っていたことを示すこの降幡さんの証言はけっこう重要だと思います。アニメ放送終了後、キャストが歌やイベントで積み上げてきたのに対して、酒井監督が途中から参加して台無しにした、というような批判をしていた人たちがいましたが、キャスト決定にも酒井監督の意向が多かれ少なかれ含まれていたことになるわけで、彼らの批判はまったくもって的外れだったことがわかる。各コンテンツの発表時期でだけ考えるから生じる誤解であって、製作期間を踏まえれば自明のことなのでですが。批判をするなら最低限こういう事実を押さえておくべきです。

*6:正確な統計を取ったわけではないですけど、イベント等の風景を見る限り、断言しても差し支えないでしょう。

*7:もちろん現実のアイドル業界にあっては、そうならないことも多々ある――というか、そうならないことのほうが多い。でも、引退や、いつの間にかの活動休止だって、変化には変わりない。アイドルの変化すべてに、ファンは「アイドルに追い越された」という感慨を抱きうるのではないか、とわたしは思っています。

*8:小林愛香さんが津島善子ヨハネに対して「わたしも、ヨハネになりたいけど、/なんだか...なりたいとかじゃなくて...ちがくて...」と語るのと対照的です。小林さん/善子/ヨハネについては、先週の記事で詳述しました。『「迷う人」津島善子ヨハネのこと/『ラブライブ!サンシャイン!!』とAqoursを考える・その5』 http://tegi.hatenablog.com/entry/2017/02/12/232252

*9:『電撃G's Magazine』2016年11月号小宮有紗インタビュー

*10:『School Idol Diary 黒澤ダイヤ 箱入り娘の未来。』

*11:細かい話になるんですけど、ぼくは降幡愛さんがたまに聴かせてくれる落ち着いた声が大好きです。『浦の星学園Radio!!!』で、グッズ発売等の案内や、提供紹介をするときの声と口調が、むちゃくちゃいいんだよなあ…。いやそんな大人びた素敵な声出せるの?という驚き。

「迷う人」津島善子&ヨハネのこと/『ラブライブ!サンシャイン!!』とAqoursを考える・その5

ふたつの善子/ヨハネ

 アニメ『ラブライブ!サンシャイン!!』をすべて観終わったあと、改めてアニメ以前の津島善子ヨハネの人物像を振り返ると、そこには大きな変化があることがわかります。
 2015年10月発売のファーストシングルにおさめられた、各キャストが自己紹介する「はじめてのごあいさつ」では、津島善子ヨハネを演じる小林愛香さんは、高めできゅるきゅるとした甘い声を出しています。そのシングル発売イベントにおいても小林さんは、善子/ヨハネを甘い声を出す小悪魔のイメージで演じている。


 甘い小悪魔キャラは、プロジェクト開始からシングル発売までの時期、いわば公野櫻子の筆によって『ラブライブ!サンシャイン!!』の世界が構築されていた時期においては、書かれたキャラクターの個性を素直に汲み取った正確なものでした。
 G's Magazine誌上などで断片的に描かれる善子/ヨハネの小悪魔的ネットアイドルふうの姿は、「中二」的痛さや、アイドル文化にしばしば現れる子供っぽさを存分に打ち出したものではありますが、書き手の公野櫻子*1がそれをよしとする限り、作品世界のなかではアリになる。変わったキャラだなーと微苦笑しつつも、あからさまにネガティブな反応をする読者はそう多くはなかったのではないでしょうか。


 そんな善子/ヨハネ像に決定的な変化がもたらされたのは、2016年1月のファーストシングル発売記念イベントが契機だったのではないか、と思われます*2
 Aqoursのキャストたちが、それぞれの演じる人物を二つの言葉で紹介する、という冒頭のコーナー、その一番手として小林愛香さんは善子/ヨハネを象徴するキーワードとして「堕天使」「かわいすぎる」の二語を示します。
 その時の司会役は、キャラクター的にも声優本人としても、ざっくばらんに率直に自分の考えを表に出す黒澤ダイヤ/小宮有紗さんでした。彼女は、中二的キーワードと、そんな自分を「かわいすぎる」と紹介する善子/ヨハネ小林愛香に、ユーモラスな渋い顔をつくって驚愕と呆れの反応を示してみせる。さらに、高海千歌伊波杏樹が「(かわいすぎて堕天しちゃうなら)Aqoursは全員堕天使になっちゃうよね~」と、絶妙に間の抜けた、マジなのかバカにしているのかわからない口調で追い打ちをかけます。
 この後、他のコーナーにおいても、善子/ヨハネの小悪魔キャラは、他のキャストによって笑いあるいは呆れの対象として扱われていきます。公野櫻子自身が執筆した台本を朗読するコーナーでもそういう雰囲気があった。
 公野櫻子の世界観を盲信しがちな自分としては、当時、かなりヒヤヒヤしたことを覚えています。「ええっ、畏れ多くもGOD御大の御言葉に対してこんなふうにあからさまに笑っていいんすか…」とか思っていた。
 でも、たぶんこれは仕方のないことだった。公野櫻子が書き、読者が読む、というほぼ一方通行のやり取りだけで成立するキャラクターと、他のキャストやスタッフ、観客たちとのやり取りのなかで形づくられていくキャラクターには、なにがしかの変化が求められるものです。特に『ラブライブ!』は、様々な人によって形づくられていく作品であることを前提としているのですから。
 このとき、小林愛香さんが、ヨハネのキャラクターをやり通していたら、また違ったことになっていたかもしれません。ツッコミを入れられたとき、それを上回る質の高い中二感やかわいさで乗り切れていれば、そのキャラクターが維持できたかもしれない。
 ですがわたしは、それができなかったのは、小林さんにとっても、善子/ヨハネにとってもよかったのだと思っています。その理由はのちほど。

「私は声優の仕事自体が初めての経験で、いろいろ悩んだんですけど。
(中略)
特にヨハネの声は、テレビアニメになる前のドラマCDなんかではもっとかわいくやっていて、テレビアニメになるときにもっと中二成分を増やそうとなったので難しくて。低音でローテンションで一定に話す感じって言ったらいいのかな。あとは、回を重ねるごとにヨハネをつかんでいった感じです。」

 

 小林愛香(『日経エンタテインメント!アニメスペシャル 声優バイブル2017』Guilty Kissインタビュー)


 演技プランの変更が厳密にいつ、誰によって確定されたのか明らかではありませんが、もしかしたら、この1月のイベントのときのキャストやファンの反応が、影響を与えていたのかもしれません。テレビアニメの製作自体はもっと前から進められていたと思われますが、キャストがテレビアニメの製作を知らされたのはこの1月のイベントの夜であり、その直後からアフレコ作業が開始されていったからと推測されるからです。


 かくしてテレビアニメの善子/ヨハネは、より中二な雰囲気をまとった、低めの声を出すことになった。アニメ第1話、彼女の初登場シーンでその低い声が披露されます。このシーンは、アニメの動きと台詞がやや馴染んでおらず、またそもそも「奇っ怪な振る舞いをしている」というシーンなので、色々な意味での違和感を強く感じるつくりではありました。
 ですが、不思議と心配にはならなかったし、それまでの小悪魔キャラとの乖離に不満を感じることもなかった。なぜならアニメに先立つ6月、ユニットシングル『Strawberry Trapper』において善子/ヨハネ小林愛香は、すでにその見事なボーカルを披露していたからです。低く芯のあるその声は、聴くものがもつ従来のヨハネ/善子像を更新し納得させるに十分な魅力をもっていたのです。

 

 

 さらに言えば、2011年に発売されている小林さんのデビューシングル『君を守りたい』では、彼女の低い声が存分に活かされています。彼女を昔から知るファンや、スタッフにとっては、善子/ヨハネのキャラ造形に大きな変更が加えられたとしても、小林さんの声の魅力が聴くものの心を離さずにいる、ということは自明のことだったのかもしれません。

 

 

「好き」だけじゃ足りない

 アニメ第5話を詳しくみてみましょう。
 ここでは冒頭から、ヨハネ/善子自身による自分へのツッコミがなされます。彼女の物語は、堕天使・ヨハネとしてのあり方の否定からスタートする。

もう高校生でしょ、津島善子
いいかげん卒業するの!
そう、この世界はもっとリアル!リアルこそ正義!リア充にわたしはなる!

*3

 入学式当日の大失敗から不登校になっていた善子/ヨハネは、幼馴染の花丸の助けもあり、登校を再開するようになります。しかし、普通の少女らしく振る舞おうとしつつも、占いを頼まれたことをきっかけに、初対面に等しいクラスメイトたちに向けてフルスロットルで趣味を開陳してしまう。
 占いでコミュニケーションを取る、といえば言うまでもなく東條希を思い出し*4ますが、占いを使って転校先の人々と適度に仲良くなっていた希のような器用さは善子にはありません。
 希にとってスピリチュアルな能力は生来のものですが、占いは人付き合いのためのツールに過ぎませんでした。彼女がμ'sのなかで変化していくにつれ、占いという行為の意味も変わっていきました*5
 善子にとって占いは、自ら選んだものです。堕天使という自分の妄想を強化するための行為であって、それは彼女の自意識に直結する。うかつに肯定的な態度で触れられれば暴走してしまうし、普通の高校生になるのだ、と決意しているくせに、占い道具を学校に持参しないと「わたしはわたしでいられない」と不安になってしまう。
 好きなものと現実との間で右往左往する彼女の姿はユーモラスですが、視聴者の多くは、『ラブライブ!』という、毀誉褒貶半ばする、決してメインカルチャーではないけったいな作品を愛するような人間たちなわけで、笑いながらも身につまされ、そして大きな親しみを抱いたはずです。


 善子/ヨハネの好きなことをめぐって、千歌はポジティブに反応し、梨子やダイヤはネガティブに反応する。自分の起こした騒動を経て、善子/ヨハネAqoursから身を引き、さらにはヨハネとしての自分をも捨てることを決意します。
 5話終盤、衣装一式を片付けようとする善子の前に、Aqoursの面々が現れ、「好きなこと」を存分にやりきることこそ、μ'sのような輝きに繋がるのだ、と伝える。
 千歌は言います。

いいんだよ、堕天使で! 自分が好きならそれでいいんだよ!
だから善子ちゃんは捨てちゃだめなんだよ。自分が堕天使を好きな限り!

 行き場をなくした善子の「好きなこと」を、Aqoursが受け止めようとする。感動的な展開です。
 しかし、第5話の冒頭を思い返してみましょう。冒頭、彼女は儀式めいたパフォーマンスをネットで中継していました。ニコニコ生放送らしきその画面には視聴者からのコメントが多数踊っていて、彼女がある程度の人気を持つ生主であることが察せられる。
 彼女は確かに「リアル」では不登校だったけれど、堕天使キャラを喜んで迎え入れてくれるコミュニティがネット上にはあったわけです。Aqours以前にも、ヨハネを歓迎する場を獲得していた。Aqoursへの正式参加以降*6もネット中継を行い続けていることが示すとおり、そこは彼女にとって大切な場所なのです。
 では、なぜAqoursが必要なのか。なぜ善子はAqoursに参加するのか?


 思うに、このとき千歌たちが受け入れたのは、堕天使ヨハネだけではなかった。そして、ただの15歳の運の悪い女の子・津島善子だけでもなかった。ヨハネと善子、二人両方だったのです。彼女が本当に必要としていた場所とは、自分の好きなことをひたすらに通せる場所ではなく、好きなことと現実とのあいだで迷うことを許された場所、なのです。


 彼女は6話以降、ころころと善子とヨハネの間を行き来します。

切り替えの瞬間は私もまだちょっと謎なんです。花丸ちゃんに羽を刺されるといきなりヨハネになったり(笑)。

前掲『声優バイブル2017』より

  ヨハネ/善子は、ふたつの自分のあいだで右往左往する。

 もう堕天使ヨハネとしては生きていけない。けれど、運の悪いただの人、津島善子としての人生なんて受け入れられない。

丸、わかる気がします。ずっと、普通だったと思うんです。わたしたちと同じで、あまり目立たなくて。そういうとき、思いませんか。これが、本当の自分なのかな、って。

もともとは、天使みたいにキラキラしてて、なにかのはずみで、こうなっちゃってるんじゃないか、って

  国木田花丸が共感するように、それは、ひとつのあり方に自分を固定できない、十代の自意識の普遍的なありようそのものです。

 そんなふうに迷うヨハネ/善子を受け止めてくれる場所。それこそがAqoursでした。そしておそらくは、スクールアイドルという文化もまたそういう場所だった。高校生でアイドルという、本来相容れないあり方を同時に行ってしまう、多義的で、未分化で、ごちゃまぜな輝きが重ね合わされた状態こそ、スクールアイドルの魅力なのだから。


 テレビアニメ以前の段階で、小林愛香さんがもし、かわいい小悪魔としてのヨハネを圧倒的な存在感で演じきることが出来ていたとしたら、このような、迷うヨハネ/善子は見られなかったかもしれません。
 でももしそうなったら、ヨハネ/善子が獲得していた人気のありかたも、今とは違っていたものになっていたように思います。いまの彼女の人気は、右往左往する自意識の不甲斐なさとかわいさへの共感によって成り立っていて、だからこそ、同世代のティーンエイジャーや、同じく風変わりな趣味をもつオタクたちからの支持が、強固になっているようにわたしには思われるからです。

 

彼女のなかのふたりの彼女

 これから善子はどんな高校生活を送っていくのでしょうか。
 彼女はまだヨハネからの「卒業」を目指しているかもしれませんが、わたしは無理をすることはないと思います。
 すでにヨハネという人格は、彼女が現実から逃避し隠れるための鎧としてだけではなく、現実や他者と触れ合うための媒介にもなっているからです。
 東京のライブ後に中二的な言葉でみなのフォローをしようとした場面や、地区予選直前にぎこちなく感謝の言葉を口にした場面を思い出しましょう。あれは、善子が、ヨハネというキャラを通じてこそ取ることの出来たコミュニケーションだった。そのようなときの彼女が放つ人間的な魅力は、二つの自分を抱えるからこそのものでした。
 かように、ヨハネ/善子がふたつの自分のあいだで迷い、輝く姿を見るにつけ、わたしは小林愛香さんがたどってきた道のりにも思いを馳せてしまいます。

 

やっぱりわたしは
歌いたいよ踊りたい。


小林愛香 ブログ Aikyandys. 2011年10月4日更新「sy」 *7

 

 『君を守りたい』でデビューしてから約半年後、小林さんは自身のブログで*8、歌も踊りも両方やりたい、という自分の夢と、それに対する厳しい反応について綴っています。両方ともやりたい、というのは甘えかもしれない、プロに言わせれば厳しいかもしれない、と迷いつつも、彼女はその二つを諦めないことを選ぶ。

 

でもいまなんか分かった。

わたしに出来ないことは
ないんだってね!!!

やってやるから。

 

 そうして彼女はいま、まさに二つの夢の両方をかなえている。歌と踊りと両方が必要とされる、『ラブライブ!サンシャイン!!』という稀有な作品のなかで。


 シンガーとダンサーというふたつの自分をもつ小林さんが、ヨハネと善子という、ふたつの自分をかかえる女の子を演じる。そのように重なり合った彼女たちの姿に、わたしは彼女たちにしか持ち得ない、豊かな輝きをみる。

 ひとつのぶれない人格に、あるいはひとつだけの道を極めた芸能人に、なれればそれはそれですばらしいかもしれない。けれども、なにかのあいだでさまよう人でしか描けないものもあるとわたしは思う。

 善子/ヨハネ小林愛香はしばらくのあいだ、ころころとそれぞれの表情を見せていくに違いありません。そのように迷い、共に歩いて行く姿。それもまた、二次元と三次元のキャラ/キャストが平行に存在し、時に融和する『ラブライブ!サンシャイン!!』という作品にふさわしい、すばらしい情景なのではないでしょうか?

 

わたしも、ヨハネになりたいけど、
なんだか...なりたいとかじゃなくて...ちがくて...
ヨハネの背中を追いかけつつ、憧れつつ。
時には手をとりあって
いろんなことを来年もヨハネと共にしたい!


小林愛香、2016年12月28日更新Instagram*9

 

 

 

*1:実際にG's magazine誌上のテキストをどれだけ公野櫻子先生本人が書いているのかは不明ですが、ここでは公野先生がその大半を書いていると判断してこのように記載します。

*2:実際には、15年10月から12月にかけて日本各地のショップで行われたリリースイベントにおいても、同様の変化が起きていた可能性が高いのですが、それらに全く足を運べていなかったわたしには把握できていません。当時の現場を知る人の話をぜひ聞きたいものです。

*3:ラブライブ!サンシャイン!!』第5話より。以下注のない引用は同様。

*4:てわたしは滂沱の涙を流し

*5:詳しくは、一昨年に書いた記事『「見る人」東條希のこと』 http://tegi.hatenablog.com/entry/20150704/1435979385 を読んでいただけると嬉しいです。

*6:第8話

*7:http://ameblo.jp/aikyaiky/archive12-201110.html

*8:なお現在はLINE BLOGに移行されています。http://lineblog.me/kobayashi_aika/

*9:https://www.instagram.com/aikyan_/?hl=ja なおこの発言は、この日行われたシングル発売イベントでの、降幡愛による「ルビィになりたい」という趣旨の発言が影響してのものと思われる…っていうのは考え過ぎですかね?意味読み取りすぎですかね?きもい?(きもい)

「可能性の人」松浦果南のこと/『ラブライブ!サンシャイン!!』とAqoursを考える・その4

果南のカは可能性のカ

 最初に妄想なんですけど、二年前、東京のイベントで果南たち旧Aqoursが歌えなかった曲ってなんだったんでしょうか。
 『未熟Dreamer』はイベント後の花火大会用に製作中だった楽曲のようですから、違う。じゃあ果南たちが作り、かついまだアニメ本編中では歌われていない他のオリジナル曲だろうと思われるわけですが、ここでは妄想を飛躍させて、μ'sの楽曲をカバーしていたと考えてみます。ラブライブ参加の条件はオリジナル曲ですが、「東京のイベント」がそうだったとは限りませんからね。
 果南が歌い出さないことで、パフォーマンス全体が止まってしまうような楽曲ということは、曲がセンターのソロで始まるということです。
 条件にあてはまる曲はいくらでもありそうですが、わたしはそれは『ススメ→トゥモロウ』だったのではないか、と妄想しています。
 言うまでもないですけど、同曲の歌い出しは「だって可能性感じたんだ/そうだ...ススメ!」です。しかしそこで果南が歌い、鞠莉がパフォーマンスすることは、鞠莉の「可能性」を閉じてしまいかねない。痛めた足で踊って怪我をするだけでなく、浦の星でスクールアイドルを続け留学や海外での生活を諦めれば、彼女の人生自体が狭まってしまうわけです。自分たちの内にある「可能性」を賛美する『ススメ→トゥモロウ』が、逆説的に、鞠莉の可能性を断ってしまう……。だからこそ、果南は歌えなかったのではないか。
 鞠莉の足のことがあったとはいえ、果南がライブで歌を故意に歌わない、ということにはかなり大きな理由が必要だったはずです。他ならぬμ'sの歌詞が、愛する鞠莉の人生を傷つけかねない自分の行動を暗示しているとなれば、彼女にそんな無茶な行動をとらせる理由になり得るのではないか。
 その後二年間にわたって果南は鞠莉に対して冷たい態度を取り続けるわけですが、その根底には鞠莉への愛情があった。素直に好きって言えばいいじゃん、と思うけれども、一度μ'sの歌、あるいはスクールアイドル活動という自分たちが大好きなものが鞠莉の人生を狭めてしまうということに気づいた彼女であればこそ、素直に自分のなかの好きという感情をそのまま差し出せなかったんじゃないか、と思うんですね。「好き」が人を傷つけることもあるんだ、と気づいたから、好きだって言えないんじゃないか、と。
 ま、完全に勝手な妄想なんですけど。

 

ススメ→トゥモロウ/START:DASH!!

ススメ→トゥモロウ/START:DASH!!

 

 


果南のカは過去のカ

 アニメ『ラブライブ!サンシャイン!!』は、物語が描く場所と時間が前作『ラブライブ!』に比べ大きく広がっています。
 原因のひとつは、舞台を沼津市内浦にしたことです。秋葉原を舞台としていた『ラブライブ!』は、秋葉原とその周辺だけで物語が完結していました。μ'sは合宿のために海や山へ出かけますが、それらの場所はほとんど個別の意味をもたない抽象的な「海」であり「山」です。劇場版で描かれる「あの街」も同様です*1
 『ラブライブ!サンシャイン!!』も、内浦だけを舞台に描くことはできたでしょうが、μ'sとの関わりや全国大会への挑戦を描いているために、東京も物語の舞台とせざるを得なくなっています。全13話中、東京を舞台とする回は3回あり、それ以外の回においても登場人物の一部が東京に出かけていたり、過去に東京で起きたエピソードが描写されたりします。千歌の母親に至っては、おそらくは13話に至るまで東京で生活していたようです*2。この東京は、「あの街」のように抽象化されておらず、内浦や沼津と同じように具体性をもった場所として描かれています*3


 前作とμ'sの存在は、物語が描く時間の幅も広げました。
 千歌たちがAqoursを結成させたのは、A-RISEが優勝をおさめ、μ'sが参加を諦めた「ラブライブ」第一回大会から5年後と思われます*4
 μ'sの活躍していた5年前、松浦果南たちが初代Aqoursを結成した2年前、そして千歌たちがAqoursを結成した現在、とAqoursにとって重要な時間のポイントが三つ、作品のなかに存在しています。
 さらに、千歌と果南、千歌と曜、花丸と善子、花丸とルビィ、果南・鞠莉・ダイヤという古くからの友人関係、ダイヤとルビィという血縁関係、と複数の長期にわたる人間関係も存在するため、作品が描く時間帯は大きく広がりました*5
 もちろん、『ラブライブ!』においても、μ'sの九人の過去を描く部分は複数存在します。ただ、絵里のバレエ、凛のスカート、にことアイドル研究部...と、そのいずれもが彼女たち個人にとって重要な過去なのであって、複数のメンバーの関係にまつわる過去の描写はそう多くありません*6


 広がった時間と場所を存分に使って、Aqoursの物語は描かれます。特に、本来は結びつかない、時間・空間の隔たったポイントをつなげて描くことで、『ラブライブ!サンシャイン!!』は物語としての輝きを増しています。
 空間的に離れたものを結びつける表現の代表例は、前回の記事*7で取り上げた、11話のクライマックスです。梨子のいる東京と、千歌たち残りのメンバーがいる静岡とをひとつのステージのように描いて、たとえ離れていても強く結びつくAqoursを表現していました。
 そして、時間的に離れたものを結びつける表現として強くわたしの印象に残っているのが、9話『未熟Dreamer』Bパートにおける果南の「ハグ」シーンです。
 果南は、二年前にスクールアイドルを辞めて以来、鞠莉と距離を置き、自分のなかに閉じこもっています。過去にとらわれたままの彼女が、いかに現在に繋がるか。これが9話の核になります。


 9話において、離れたふたつの時間を明確な区切りなく描く表現は三回用いられます。
 一回目は、Aパート、千歌が果南との思い出を回想するシーンです。千歌は自分の実家でAqoursのメンバーと花火大会でのステージについて話し合っているうち、幼いころの経験を思い出します。
 桟橋の上から飛び込むのを躊躇する千歌を、果南が励まします。スクールアイドルを諦めた現在の果南とは大いに異なり、人を励ます、まっすぐな前向きさが伝わってきます。
 回想の直後のカットで、千歌たちは現在の桟橋近くに移動しています。画面の手前側にいる千歌は、物理的に少し離れた桟橋を眺めています。まるでそこに自分たちの過去があるかのように。桟橋は近いようで、しかし確実に離れたところにあります。桟橋に千歌の手がすぐ届かないように、果南にも手が届かなくなっていることが暗に示されます。


 9話での千歌は、不甲斐ない三年生たちを痛罵しつつも、基本的に少し離れたところから哀しみを抱いて眺めている、という印象があります。そういう寂寥感や儚さをわずかにたたえたときの千歌を演じる伊波杏樹さんの演技には素晴らしいものがあるし、眉尻を下げて少し困ったような顔をする千歌はとても魅力的で、とくにその出色は黒澤家でみなより先にことの真相を悟った瞬間、声にならない息を漏らしているかのように見える短い一瞬のカットなのですが、それは本題ではないので措いておきましょう。
 千歌たちのまえで、ついにダイヤは二年前の真相を語ります。ここで、過去と現在を繋げる二回目の表現がおこなわれます。東京でのイベント、学校での日常、といった過去の風景と、現在の黒澤家における鞠莉が交互に描かれる。ただしここでは、現在の鞠莉の目元が隠されていたり、過去と現在のカットの構図が大きく異なったりしており、過去と現在を分かちがたく結びつけるような映像表現は用いられません。
 ダイヤの語る真相を、鞠莉はすぐに受け入れることができません。むしろ不可解に感じ、苛立たしく思っている。ここでは、鞠莉(現在)と果南(過去)との距離を埋め難いものとして描いているということなのでしょう。
 やがて鞠莉は黒澤家を飛び出します。雨の中、彼女は走っていく。果南に会いに行くのだろうと想像はできるものの、具体的な場所や果南との約束は描かれません。どこともしれず走ってゆく彼女は、場所だけでなく、決して遡れない時間をも越えていこうとしているようにも思えます。


過去と未来を抱きしめる

 雨上がりの夕方、鞠莉に呼び出された果南は部室にやってきます。彼女に鞠莉は本音をぶつける。

将来なんかいまはどうでもいいの。
留学?まったく興味なかった。
当たり前じゃない!
だって、果南が歌えなかったんだよ。
放っておけるはずない!

 将来はどうでもいい。鞠莉は現在の、そして過去の果南を取り戻そうとしています。8話で彼女が語った通り。

わたしはあきらめない。
必ず取り戻すの、あのときを!
果南とダイヤと失ったあのときを。
わたしにとって宝物だったあのときを。

 ここで注意すべきは、鞠莉は決して過去の果南そのものを求めているわけではないだろう、ということです。「将来なんてどうでもいい」という台詞はあくまで、自分個人の将来はどうでもいい、ということでしょう。
 鞠莉は、自分が居心地のよかった果南・ダイヤとの仲良し関係を復活させたいと思っているわけではない。もしそれだけなら、彼女はここまで、学校を救うこと、スクールアイドルとして活動することに拘泥しないはずです。単に仲良くなりたいのなら、スクールアイドル活動はせず、友達として付き合えばよい。
 鞠莉が求めているのは、一年生のころ、学校を救うために何かをしようと可能性を探っていた果南のありようです。それが内浦の未来を拓き、果南の未来をも拓く。そう鞠莉は信じてきた。


 これに対して、果南が守りたかったのも、鞠莉の可能性です。浦の星女学院や内浦にとらわれず、彼女の能力が活かされる世界に出ていくべきだと考えて、スクールアイドルの途を否定した。

 けっきょく果南と鞠莉は、お互いの可能性を守ろうとして、それぞれ違うところを向いていただけなのでしょう。お互いの未来を見つめすぎて、現在ではすれ違ってしまう。


 9話のクライマックス、本音をぶつけ、さらには平手打ちまでした鞠莉は、果南に向けて頬を差し出して、自分を打つようにいいます。予期される痛みに身を固めて、彼女は目をつむる。手をあげる果南。
 画面が暗転し、声が聞こえてきます。遠い過去、三人が小学生だったときの声です。まずはダイヤの声、果南の声、そして鞠莉の声。
 夕暮れのホテルオハラの中庭で、鞠莉と果南は一瞬見つめ合い、そして果南が「ハグ…」と言いながら手をひらく。その姿に現在の果南が重なり、「しよ」と、言葉も重なる。
 過去と現在の果南がまっすぐに繋がり、と同時に果南は閉ざしていた自分を開いて鞠莉を受け入れる。

 人種間や文化間のヘイトに対する抗議パフォーマンスとしてのフリーハグなどにみられるとおり、ハグという行為には、自分とは異なる誰かの多様性を受け入れるという意味もみてとることができます。ここで行われるハグの意味は、単に鞠莉ひとりを受け入れるというだけではない。鞠莉のもつ、スクールアイドル活動によって浦の星を変えていこうという考え方や、Aqoursがもたらすであろう未知のものをも受け入れる、ということにほかなりません。
 過去と現在が区別なく繋がり、そして未来へとふたりの可能性がひらかれることも示す、この描写は、アニメ全13話を通しても特に美しい屈指のシーンであるといえるでしょう。
 そして、過去と現在を接続する描写は、9話ラストの『未熟Dreamer』における演出によって、さらに三年生の外へと広げられていきます。三年が歌い出し、一・ニ年が引き継ぐ。その後ろから、新しい衣装をまとった三年生が現れる。何か新しいことを始めた人間が、その力を周囲に伝播させていく。ひとつの可能性が、多くの可能性を生じさせていくことを示す一連の演出は、シリーズ全体、あるいは『ラブライブ!』とスクールアイドルというものが示すよきものの根幹に直結することに成功していると言ってよいと思います。


 9話で回想される初めてのハグは、6話の冒頭でも描かれています。そこでは、現在の鞠莉が過去の鞠莉と見つめ合っているかのようなかたちで、過去と現在が接続されていました。あのときの鞠莉はハグされていた自分を見つめるだけでしたが、4話ぶんの時間を越えて、彼女はようやく果南にハグされる。
 物語内の時間だけでなく、作品としての時間もさかのぼることで、果南たちのハグはより一層深い感動を観るものに与えてくれます。
 9話も6話も、絵コンテは酒井和男監督によるものです。なんと見事な構成!

  

 

 

果南の果は……

 果南の果という字は、穂乃果の果です。
 他のAqoursメンバーの名前のなかにも、μ'sメンバーの字を継いでいるものはいますが*8、なにしろ「南」の「果」です。明らかに、秋葉原からみた「南」方である内浦における穂乃「果」だってことじゃないですか*9。じっさい、二年前のAqoursは彼女がリーダーだったようだし。
 でも果南は穂乃果のような立ち位置にはいません*10。あのように、無からなにもかもを生み出すような圧倒的な輝きを持つ人ではない。


 かなん、という名前の音から、わたしは古代の地名としての「カナン」を想起します。百科事典によれば、カナンというのはこういう都市でした。

カナン (Canaan
 パレスティナおよび南シリアの古代の呼称。イスラエルの民は,エジプトを脱出した後シナイやネゲブの荒野を彷徨していたころ,神から約束されていながらまだ手にしていない〈乳と蜜の流れる地〉としてあこがれた。...


世界大百科事典』(改訂新版)


 神からのいまだ叶えられぬ約束。
 流浪と迫害を経験してきたユダヤ民族にとってのキーワードをオタクの妄想にもちいるのも少々申し訳ない気がしますが、このようなことばの歴史的背景から、カナンという音には、到達できない輝かしいもの、憧れると同時に寂寥感を抱かされるもの、といったイメージがあります*11
 叶えられない約束は絶望と希望との両方をもたらします。いま叶っていないのなら、永遠に叶わないかもしれない。そう考えれば絶望せざるをえない。約束はされている。いつかはきっと叶うはず。そう考えれば、希望になります。


 果南は、かつて浦の星でスクールアイドルとしてある程度の成功をおさめた希望の生き証人であると同時に、東京で大失敗をおかした絶望の証拠でもあります。
 失敗した過去については、例えばSaint Snowの二人がその事実を知ったなら、心底怒るにちがいありません。対外的には大きなウィークポイントになりうる*12
 けれども彼女はもう過去に閉じこもったままではありません。ふたたびAqoursに戻ってきた。
 10話以降、果南が物語の中心に立つことはありませんが、劇中のAqoursたちにとっては、彼女はある種の心の拠り所になっているのではないか、と思えます。彼女が元気にスクールアイドル活動にはげんでいる限り、それは、人は失敗を乗り越えられる、何度でも挑戦できる、という生きた証拠になるのですから。
 成功した人だけが、可能性を体現するわけではありません。失敗した人だって、人間の可能性を信じさせてくれるのです。


 というわけで最初の妄想に戻りますけども、やっぱ二年前の果南には『ススメ→トゥモロウ』を歌っていてほしいんだよな~、だって可能性感じちゃうんだもんな~、という話なのでした。

 

 

*1:ただし「あの街」は、徹底して名前と意味を剥ぎ取られながらももあきらかにニューヨークとして描かれており、秋葉原に匹敵する大きな意味をもつ場所として作品内に立ち上がる。これによって、秋葉原の外=μ's/音ノ木坂学院での物語の終わりが印象づけられる。

*2:ところで、旅館の主人であってもおかしくない人物が常に東京にいる理由とはなんでしょうか。旅館が全国チェーンを敷いており、東京の本社につめている…というのは、千歌による実家についての言動などからすると少々難がありそうです。内浦の観光関係者として、東京のアンテナショップやサテライトオフィスのような場所で働いている、といったところでしょうか。ラブライブ世界における教育や観光の行政がぼんやり気になっている身としては、彼女のもつ背景も非常に興味深いです。その背景が、『ラブライブ!』の穂乃果の母や、ことりの母のように、スクールアイドル本人の活動に影響を与えていてもおかしくないのですから。

*3:ラブライブ!』では主人公たちの住む場所=首都だけを描いていればよかったのに、地方を舞台にしたとたん、主人公たちの住む場所以外をも描かなければならないという非対称性は、改めて考えるべきことかもしれません。東京以外の場所は、東京の存在なしに物語を立ち上げることもできないのか、とうがった見方をしたくなる気持ちもないではない。
 ただ、『ラブライブ!サンシャイン!!』の場合、シリーズの前作を踏襲した内容にするために、前作が舞台としていた東京を描かざるをえなかったという理由があります。今後、Aqours以外のスクールアイドルを主人公にした新作が作られるならば、そのとき、この問題にする回答が得られるのかもしれません。またおそらく、『Wake Up Girls!』や『普通の女子校生が【ろこどる】やってみた。』などの諸作にヒントがあるのでしょうが、不勉強ながら未見です。

*4:4話、国木田花丸が読む雑誌の誌面から。この雑誌が、花丸が読んでいる時点から何年も前に刊行されたバックナンバーであるという可能性もなくはないですが、ほぼゼロでしょう。

*5:もちろんこれは、生まれも文化も違う人間が多く集まる東京に対し、古くからの人間関係や共通の文化が個人の生活に色濃く影響する地方、という対比でもあるのでしょう。

*6:なお個人的には、μ'sの過去を描くエピソードのうち、『School Idol Diary 南ことり』所収の「始まりは3人組。」その1・その2が大好きです。確認のために再読してまたじーんときてしまった。

*7:「違うステージに立つ人」桜内梨子のこと」http://tegi.hatenablog.com/entry/2016/12/28/004551

*8:高坂→高海、花陽→花丸、矢澤→黒澤、などなど。

*9:南の果、という漢字からは、日本における南方への信仰(よきものが南から海をわたってやってくる)も連想できますね。

*10:ですから、この文字の一致は偶然であるような気がします。ただしもう一人、穂乃果から字を受け継いだ高海千歌はまさに穂乃果と同じ立場に立っています。「坂」の街・神田から、「海」の町・内浦へ、という転換も含めて、この文字の繋がりは作品の作り手による意図的なものであるように思えます。

*11:なお、マリ(Mari)ってのもシリア東部の古代の都市名でございまして、そちらで出土した文書にカナンに関する記述もあるらしいです。かなまりのカップリングは何千年も前から決まっていたことなんですね(にっこり)。

*12:正直なところを言えば、わたしも最初は、彼女が歌わなかった理由に納得が行きませんでした。8話でダイヤが語ったように、スクールアイドルという文化は巨大化し、苛烈な競争を生み出しました。そこに挑む人々はそれぞれに相当な覚悟を持っているはずです。にも関わらず、果南が「鞠莉を守りたい」という個人的な願望ゆえに挫折をあえて選んだというのは、他のスクールアイドルたちに失礼ではないのか、と。でもその考え方は、「アイドルは個人よりも「アイドル」としてのあり方を優先すべき」という非情な論理に結びつきます。それはおかしい。果南はスクールアイドルとしての自分より、個人としての果南を優先させてよいはずです。考えてみれば、『ラブライブ!サンシャイン!!』は、常にスクールアイドルという文化や、グループ全体よりも、個人個人のことを重視すべきだ、というメッセージを暗に発し続けているような気がします。それが、11話の梨子の単独行動や、12話の曜のためのダンス再構築、13話での浦の星全員によるパフォーマンスといったことの全ての根底にあるような気がします。

物語たち

 すでに人類の多くが死に絶えて、電力供給も電話回線も途絶えたなか、朝目を覚まし、限りなくバッテリーがゼロに近づいたスマートフォンを震える手で操作して、わたしはスクフェスを起動する。ブシモ、と大きく響くμ'sのだれかの声。『HEART to HEART』のイントロ。スキのちからで、と歌声が響き始める。しかし画面は、「通信エラーが発生しました リトライします」というメッセージを表示させたまま動かない。何度もリロードさせる。スマートフォンは永遠に次の画面を表示させない。

 

***

 

 『ザ・ウォーカー』という映画は、デンゼル・ワシントン演じる主人公が人間の死に絶えた街のなかで目を覚まし、大切に持ち歩いている携帯プレーヤーで音楽を聴く、というシーンではじまる。全体に粗いところも多い映画なのだけれども、そうした身につまされる終末描写が印象に残る。
 ソーシャルゲームをするようになって、その場面をたびたび思い出すようになった。しかしソーシャルゲームの場合、文明が滅びてしまえば、起動することすら難しくなる。おそらくは冒頭のように、オープニング画面以降に進むことすらできない。どんなにやりこんでシナリオを解放したとしても、物語はスマートフォンのなかに閉じ込められたままになる。


 わたしがソーシャルゲームの『アイドルコネクト -アスタリスクライブ-』を始めたのは、そのゲームがサービスを終えることが明らかにされてからだった。サービス開始から約三ヶ月しか経過していなかった。
 わたしは、あまりにも短すぎるサービス終了に悲鳴をあげているファンの声をTwitter上で眺めているうちに、どのような作品なのか自分の目で確かめてみたくなったのだった。要は野次馬根性である。
 サービス終了の当日、終了予定時刻の二十分前くらいに、最後にもう少しだけと思ってわたしは『アイドルコネクト』を起動した。基本はリズムゲームだけれども、アイドルの日常を描くシナリオのボリュームがやけに大きいゲームだった。とてもわたしは消化しきれず、まだかなりの未読シナリオを残していたのだった。
 ひとつのシナリオを読み終えて、もう残り数分しかなかったけれども、もうひとつのシナリオを読み始めた。少しずつ、アイドルたちの日常をわたしは信じ始めていた。彼女たちは虚構だったけれども、その虚構のなかで確かに生きているように思えていた。彼女たちの日常がずっと続いていくように思われた。
 そのシナリオを読み終えると、アプリはサーバとの通信ができなくなり、動きを止めた。わたしにとっての『アイドルコネクト』の物語はスマートフォンのなかに閉じ込められたままとなった。


 物語はいつか終わる。
 今年の4月、わたしにとってとても大切なふたつのグループが活動を終えた。Tridentとμ'sである。
 μ'sは映画の物語と同じくドーム公演を行い、Tridentはラストライブで全楽曲を歌いきった。いずれのグループも、その活動の最後にふさわしいかたちで幕を降ろした。やりきれない気持ちはあるけれど、好きなグループががかように美しく活動を終えてくれたことは、本当に幸せな経験だったと思う。
 アイドルあるいは芸能という理不尽と困難の多い分野にあっても、そのような幸せな物語の終わりを目撃できる。そのことをわたしはずっと覚えていようと思う。


 終わる物語があれば続く物語もある。
 μ'sによる『ラブライブ!』が終わったいっぽう、Aqoursによる『ラブライブ!サンシャイン!!』が本格的に始まった。とくに7月から9月にかけてテレビ放映された同作のアニメーションにわたしは毎週一喜一憂した。
 同作の最終話放映直後、ネット上では様々な反応が飛び交った。わたしにとって我慢がならなかったのは、その物語をなかったことにしようとする人々の声だった。『ラブライブ!』という物語もAqoursも好きだがアニメは気に入らないから否定*1して忘れよう、というものである。
 すでにアニメの物語はそこにある。酒井和男監督と、Aqoursによって語られた物語が。
 それは『電撃G's Magazine』誌上で公野櫻子らによって語られてきた物語とは異なるかもしれない。しかし、『ラブライブ!』という作品の面白さの本質とは、そのようにさまざまな人間から少しずつ異なる視点、異なる語り方、異なる内容で同時並行的に、かつ優劣の差なく語られていることではなかったのか。だからこそ「みんなで叶える物語」ではなかったのか。
 『ラブライブ!』という舞台においてすでに語られた物語を、ほかの誰かがなかったことにすることなど許したくない、とわたしは信じた。
 今年の後半、わたしにしては驚異的な頻度と分量でブログを更新しているのはそのような考えによる。ひたすらにあの物語を反芻し、語り直すことで、そうした行為に抵抗したかったのだった。
 物語はその物語があろうとするかぎり、なにものにもおかされずに語られるべきだとわたしは思う。


 とはいえ物語が続けられてしまうことはときに災いをもたらすのだろう、とも思う。
 山田正紀の新作小説『カムパネルラ』は、宮澤賢治の作品群が国家によって歪に駆動されていくさまを描くSFである。MMORPGのように永遠に語られる宮澤賢治の作品世界は、恐ろしくも蠱惑的である。なにせあの宮澤賢治であるから。
 同作の最後に、希望ともいえないような小さく力ないかたちで示されるのは、誰にも知られず望まれず、それでも自分の信じたい物語を語って世に示す人間の姿である。
 カウンターが正しいのではなく、それぞれが信じる物語をそれぞれに語ることが守られることが正しいのだと思う。


 2016年もいつもの年と同様にたくさんの映画とアニメとその他色々の物語をわたしは楽しんだ。来年もそのような印象をもてる年だとうれしい。
 物語がそれぞれの望むかたちで語られていく年であってほしいと思う。


 『アイドルコネクト』はゲームアプリのサービスを終えたが、そのシナリオはいまも、ストリエというサイトで公開され続けている。いったん理不尽に幕を閉められた物語であっても、そのようにふたたび語られはじめることが可能なのだ。

 誰かが語り続けるかぎり。

 

storie.jp

*1:一応付言しておくと、わたしが許せないのは否定であり、批判ではない。