こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

Aqours First LoveLive! 一日目おぼえがき

 いずれきちんと書きたいと思いますが、覚書として。

 南大沢TOHOシネマズにてライブビューイング鑑賞。

 

・構成
 正直なところ、序盤のほうのアニメ(アイコンのキャラクターがしゃべるもの)は、いまいちかなー、と思いながら観ていた。あのアイコンが、実は3Dで作ってあってかなり動いているのはむちゃくちゃかわいいけど、ドラマCDのノリをアニメ本編を模した感動的なライブの場でやられても、という。
 でも、二本目のほうで、強引ながらも沼津と新横浜の接点を見つけ、地方の女の子たちがまた違う地方にやってくることで発見される面白さ、いわば寅さんが全国各地を舞台に毎年作られていたことの意味みたいなものが最後の最後に急速に立ち上がっていて、あっ、やっぱいいですこれ、すごくいいです、という気持ちになった。

・アニメ本編との接続
 アニメ本編をキャストたちが演じ直す、という演出は、予測されたものではあったけれど、よかった。
 個人的に、強く強くこだわりのあった13話の地区予選のパートが、真正面から演じ直されているあいだ、ぼくは打ちのめされて座席から立てなかった。
 それは「アニメが現実に再現されている」ということから生じる喜びでもあったのだけれど、それだけじゃなかった。酒井和男監督がTwitterで、あの演出によってようやく13話が完成したとおっしゃっていて、それは確かにそうだしもう監督大好きだ、と思ったんだけど、いやそもそも13話はきちんと完成していたんだよ、そのうえで今日演じ直されたことでまた新しいものが生じたんだよ、と思う。
 ぼくは13話の寸劇のパートには、人が何かを演じることの尊さみたいなものが込められていると思う。Aqoursはμ'sのあとを追いかけて、μ's的なスクールアイドルを演じている。そのAqoursを、声優さんたちが演じている。劇中で、Aqoursはふつうの浦の星の生徒たちに一緒に輝こうと呼びかける。
 人はなぜ演じるか。いま・ここ・わたしでないなにものかになるためだ。そういう人間のもつ欲というか、希望というか、そういうものが、アニメと現実とがクロスすることで前面にわきあがる、それが13話のあのシーンの価値のひとつなんだとぼくはおもう。
 今日のライブで、Aqoursが演じたことを、ふたたびまたAqoursが演じ直したこと。そしてなにより、その、演じる人々が、確かに演じた対象になっていた(演じきれていた)こと。ファーストシングルの発売イベントで、伊波杏樹はただ一人その「演じきること」のとっかかりまで至れていたとおもう。今日は九人全員が、演じきっていた。
 最終的には、演じられる対象と演じる主体が溶け合って、ただ、たしかにそこに、Aqoursがいる、としか言いようのない空間があった。

 あの演出をもって、じゃあ13話はこのためだけの踏み台なのかよ、という批判もありそうな気がする。でもそういうことじゃないんだ、とあらかじめ言いたい。繰り返しになるけれど、13話は、アニメは、それ単体できちんと完結していたと思っている。だから、欠けたものが埋められたというよりは、また新しいものが生み出された、という文脈で評価したいです。

・衣装について
 意外にも、もっとも美しいと思ったのは『夢で夜空を照らしたい』の衣装だった。演出もふくめ、ただただ美しかった。
 肉体的に美しいと思ったのは(とか書くとずいぶんいやらしい文章にみえるが)小宮有紗さんだった。AZALEAの肩出しとか、各衣装の生足とか、あれ、いかん、いかんよそれは、とか思っていた。ほんとむり、美しすぎた。
 あと、ユニット曲あたりまでの、ブーツがなんだかひどくかわいかった。いや、けっこうシンプルな、黒のブーツだったと思うんだけど、サイズ感がすごくよかった。あんまり甘すぎない感じも。

・パフォーマンスについて
 全員がうまくなっていた。というかまだまだ余裕だったんじゃないすか。確実にみなさん成長されていて、ああ、努力ってすげえなあ、と思った。
 びっくりしたのは、ダンス非経験組で、とくにCYaRon!において、あまり身体を動かせるイメージのない降幡さんが、ダンス&演劇の猛者であるふたりに挟まれながらもいい動きをみせていたさまが印象に残った。
 とはいえ全員が軒並み底上げされているので、斎藤朱夏さんは身体のキレとかは当然として感情を伝えてくるほうに力点がおかれていて、『夜空はなんでも知ってるの』の、センターステージで一人舞う姿は、ぜんぜん別作品で恐縮ですけども、『蒼き鋼のアルペジオ』キャラソン『Word』を歌い踊る山村響さんを思い出してしまった。まさか斉藤さんにあんな方向で感動させられるとは。ダンスってすばらしいなあと改めて思った。ほんと恐ろしい子

・まとめ
 シングルCDから一年経たずにテレビアニメが放送。最初のライブが横浜アリーナ。ぜんぜん「ゼロ」じゃないじゃん、というつっこみには一理ある。あるのだけど、今日ぼくは、そのようなAqoursであっても絶対にゼロにならざるをえない瞬間があるのだ、と思い知らされた。それは、アニメ本編がうつしだされるなか、そのなかに一瞬でもμ'sの姿が含まれたときに客席から圧倒的な感想が巻き起こる瞬間だ。完全になにもないゼロというよりは、プラスにして積み上げたものが、まだまだ先駆者からみれば相対的にごくごく小さいのだ、と突きつけられてしまう意味での、ゼロ。
 Aqoursはどんどん成長し、新しい情景を見せてくれる。見せてくれるのだけれども、やっぱり原点にすさまじく重いものを背負っていること、確かに彼女たちは「ゼロ」から始めているのだ、ということをぼくは忘れないでいたい。Aqoursは決して恵まれてなんかいない。AqoursにはAqoursの大変さがあるのだ。

 というようなことを感じたうえで、最終的には、むっちゃくちゃ楽しいライブでした。0から1へ進まなきゃいけない、という厳しい状況を、朗らかに歌う『Step! Zero to One』という曲の価値をあらためて強く感じる。
 そう、輝くことは楽しむこと。
 歌に踊りに涙に笑いに、全部ぜんぶひっくるめて、それらすべてのプリミティブな楽しさの詰まった3時間半でした。最高。

「オハラ家の人」小原鞠莉のこと/『ラブライブ!サンシャイン!!』とAqoursを考える・その8

 「一匹狼」と鈴木愛奈さんが評する*1通り、小原鞠莉には、一人わが道をゆく、という印象があります。アニメ第1話の謎めいた登場から、彼女と松浦果南黒澤ダイヤの関係が修復される9話まで、彼女は理事長として高海千歌たちから距離を置いた、やや高いところから出来事を俯瞰している。
 彼女の心の奥底には、幼い自分をやさしく受けれいた松浦果南黒澤ダイヤと、彼女たちの暮らす内浦についての美しい記憶がある。アニメの視聴者はその光景の美しさ、尊さを彼女と共有できますが、千歌たちや、学校の他の人々にはそれができません。
 9話の出来事を経て、鞠莉はAqoursに合流します。三年生たちの気持ちや、過去の真相はある程度Aqoursのなかで共有される。けれども、部室でハグし合う果南と鞠莉の姿は誰にも目撃されません(もしかしたらダイヤだけはそれを見ていたかもしれない)。
 グループへの加入が決定的になる瞬間をグループ内で共有できていないということは、強い親密さと引き換えに、ある種の閉鎖性をもAqoursにもたらしている、とも言えるかもしれません。11話でダイヤたちが曜と梨子の加入の順番を勘違いしていたという挿話は象徴的です。だから、曜はシリーズの後半になって一度千歌から離れ、そして関係を結び直すという、Aqoursに加入しなおすような経験を経なければならなかったのかもしれません。
 13話の地区予選で行われるAqoursの過去の再演においても、鞠莉たち三年生の物語はきれいに省略されています。そこには、鞠莉たちの、思い出は自分たちだけのものにしておきたいという欲望すら透けて見えるかもしれない。


 真に大事なものを胸の奥に秘めながらも、いっぽうで、鞠莉は自分の欲望を堂々と露わにします。浦の星女学院を救うために、在学生自身が理事長になるという無茶な方法を取り、学校を私物化する。かつて自分たちが歩んだ道を千歌に辿らせ、スクールアイドル・Aqoursを再び世に出そうとする。千歌たちはほとんどそれに反抗しませんが、見方によってはひどく他人を踏みにじったやりかたでもある、と言えるでしょう。無垢で愚かな人々を操って自分の欲望を達する、ピカレスクロマンの主人公のようでもある。


 ところで小原鞠莉の姓は「小原」ですが、これはO'haraでもありうる。いやいや、公式設定としては父親がイタリア系アメリカ人なんだから、アイルランド系のO'haraってのはないんじゃない?ってのは確かなんですけど。たとえば、鞠莉の父親がこの小説の愛読者で、鞠莉の母親の姓が「小原/オハラ」であることをきっかけに仲良くなった――とか、そういう妄想はありじゃないですか。

 

風と共に去りぬ(一) (岩波文庫)
 

 

 『風と共に去りぬ』は、19世紀のアメリカを舞台にした小説です。書かれたのは20世紀の初めごろ。奴隷制を前提に成り立つ19世紀の白人たちの暮らしを美しく描いたことなど毀誉褒貶も激しい作品ですが、これまた名作と誉れ高い映画とともに、世界中の人たちに親しまれています。
 主人公は、豊かな農園を経営するオハラ家の長女スカーレット。彼女は激しい気性と才覚を武器に、激動の時代を生き抜いていきます。慎ましさこそ美徳とされるような当時の社会に対して、彼女は傲然と言い放つ。

いつか、やりたいこと、言いたいことすべてをやってみせる。気に入られなくたってかまやしない

 そのような人ですから、彼女の人生には多くの波乱が生じます。世間から顰蹙を買ったり、他人を傷つけたりもする。でも自分の欲望の成就のために、彼女はひるまず奮闘します。
 このスカーレット・オハラの姿は、小原鞠莉の姿にそのまま重なります。じつはわたしはまだ『風と共に去りぬ』のごく序盤しか読んでいないので断言できませんが、スカーレットが愛する男たちの姿には、果南とダイヤを重ねられそうな気もします*2

 千歌と梨子の姿にわたしはちょっと『赤毛のアン』を思い出しましたが、もしかしたら鞠莉と三年生たちの造形には、『風と共に去りぬ』が参照されているのかもしれません。(ぼくの推測が当っているかどうかは別として)いつか公野櫻子先生や酒井和男監督が、『ラブライブ!サンシャイン!!』を作るにあたってレファレンス元にしたブックリストやムービーリストを公開してほしいな~と強く思うところです。


 実際に二つの作品に繋がりがあるかどうかはともかく、小原鞠莉は、スカーレット・オハラのごとく、女性ファンの支持を獲得しているようです*3
 そしてそういう彼女たちがみせてくれる痛快さは、もちろん、女性だからわかる・男性だからわからない、というものではない。ままならない世の中で、自分の願いをかなえていく人の物語に勇気づけられたり、応援したくなったりする、という受容は男女問わず行っていることです。女性ファンの支持を獲得するいっぽうで男性ファンの支持はまだまだかなと思われる鞠莉ですが、こうした痛快なキャラクタとしての面に惹かれる人が増えてきたら楽しいし、今後の作品の展開のなかでも、そんなかっこいい鞠莉が見たいなーと思うのです。
 日本のオタク文化における「強い女性」は、現実世界での男女の平等とは切り離されたところで育ってきた歪な概念ではあります。わたしのような男のおたくがぼんやりと「強い女の子っていいよね」とか思ってしまう行為には、非常にたくさんの突っ込みどころが生じてしまう。
 それでも、アニメのなかで活躍する小原鞠莉、そしてそれを演じる鈴木愛奈*4はとてもかっこいいし、もしそのかっこよさを感じている人が他にもいるならその楽しさを共有したい。『ラブライブ!』という作品は、もちろんそのファンの多くは男性ですが、特にμ'sの後期には若い女性のファンが非常に多かったという印象があります。Aqoursもそうであったら楽しかろうし、そこで、Aqoursをめぐって女性も男性も関わりなく、あるいは性差に関わらず個々それぞれの違った視点から、「楽しさ」に関する語りが多数生じたらぜったいに楽しい。鞠莉は、もし彼女が今後さらに活躍してくれたら、そんな語りを次々に生んでいくんじゃないかなあと、そんな期待をもたせてくれるキャラクターだとわたしは思うのです。

 

2018/01/02追記

 久々に『電撃G's Magazine』のバックナンバーを読み返していたら、2016年11月号(16年9月発売)p.22、「マルのヨンコマ」のページ見出しに「気分はスカーレット・オハラな小原家ライフ♡」という一文がありました。

 この記事を書いた段階では目にしていたはずなんですけど、すっかり忘れていたみたいです。G's編集部も小原-O'haraは意識していたんですね。うれしい。

*1:ファーストライブパンフレット、鈴木愛奈インタビューより

*2:この小原鞠莉スカーレット・オハラを繋げて考える妄想にあたっては、次の記事が大いに刺激になりました。未読者が『風と共に去りぬ』に対して持っている思い込みをはらして、「お、おもしろそー!!」と思わせてくれる痛快なエッセイなので、特に男性のかたはぜひ一読ください。:「スカーレット・オハラを全力で擁護する」http://d.hatena.ne.jp/saebou/20090518/p1

*3:『電撃G's magazine』2016年12月号、サードシングル総選挙結果発表より。

*4:とくにステージ上、歌のなかの鈴木さん! かつわたしは、声の演技の好みとしてはAqours伊波杏樹さんの次に鈴木さんが好きです。

「繰り返す人」渡辺曜のこと/『ラブライブ!サンシャイン!!』とAqoursを考える・その7

繰り返しに満ちた物語

 アニメ『ラブライブ!サンシャイン!!』には、繰り返しの要素がたくさん盛り込まれています。

 例えば、渡辺曜は「ヨーソロー」という掛け声を決まり文句として何度も言います。
 三年生たちの幼いころの「ハグ」の記憶は、それぞれの視点から繰り返し思い出される。彼女たちは、その「ハグ」を再び行おうとしてもがきます。小原鞠莉は夜の堤防で一度失敗する。そして、部室で今度は松浦果南によってついに再現される。
 高海千歌たちがAqoursとして辿るのはかつて三年生たち=旧Aqoursが経験したこと(学校を救うための結成、幼馴染二人が外から来た異端者を誘う、東京での挫折)の繰り返しです。そしてそもそも、もとをたどればAqours=『ラブライブ!サンシャイン!!』は、μ's=『ラブライブ!』の繰り返しに他ならない。
 物語の企画自体が人気作の続編=繰り返しとして出発している以上、意識的にせよ無意識にせよ、繰り返しのモチーフが数多く作品のなかに含まれるのは宿命なのかもしれません。
 柳の下のどじょう、模倣、拡大再生産。そういう批判を乗り越えて、繰り返しでありながらいかに差異を生じさせるか。あるいは、あえて同じ道を歩むか。そうした試行錯誤が作品の根幹にあるのが透けて見えるし、登場人物の物語や、ちょっとしたしぐさにすら、その影響は及んでいるように思える。


 アニメ11話で描かれる曜の葛藤の物語は、セカンドシングル『恋になりたいアクアリウム』PVにおける物語の繰り返しです。
 曜が、仲良しのはずの千歌とのあいだに生じてしまった距離を感じて、自分から内にこもる。紆余曲折を経て、二人は再び仲良しに戻る。大まかに言って、そういう物語が繰り返し語られている。
 繰り返されるのは、物語の大枠だけではありません。
 PVの冒頭、まぶしい太陽が照らすなか、曜は自転車を漕いで海沿いの道を走ってきます。方角としては、曜の自宅方面から、千歌の自宅の方へと向かっている。
 アニメ11話では、この道を千歌が逆に辿りました。夜、ダンスの振付を考えるために曜の自宅へと向かう彼女の姿自体は描かれませんが。
 物語のクライマックスで、PVでは千歌が曜に抱きつきます。曜は、うちっちーのきぐるみのなかで苦笑と照れ笑いを浮かべます。アニメでは、曜が千歌に抱きつく。汗だくの千歌が苦笑と照れ笑いを浮かべます*1
 PVの最後に写るのは、部室でスノードームを眺める曜の姿です。千歌が呼ぶ声がして、彼女はどこかへ去っていく。
 アニメ12話の前半、部室で地区予選進出を喜び合うAqoursたちのなかで、曜はPVと同じようにスノードームを眺めています。ここで、PVの曜とアニメの曜はきれいに重なる。同じこと、あるいは似つつも少し違うことを繰り返して、曜は同じ場所に戻る。


 この、アニメ12話でスノードームを眺めていた曜は、ややとらえどころのない表情をしています。心ここにあらず、といった印象。その場にいる他のメンバーとは別の場所にいたような。
 だからわたしはついこんな妄想をしてしまいます。本当にこの瞬間、比喩でなしに、PVの曜とアニメの曜が合流して、ふたりの曜が集約されたのではないか、と。

 

何度も飛び込む人

 アニメの放送時、わたしは「渡辺さんはそれでいいんですか」と題した文章*2を書きました。11話単体で観たとき、曜の葛藤が本当に晴れたのか、わたしには納得がいかなかった。千歌と曜の心は本当に繋がったのか。『想いよひとつになれ』の歌詞がいう「何かをつかむとき/何かをあきらめない」という理想を、曜はかなえられていないのではないか。
 いま改めて11話のことを考えるとき、放送当時に感じられなかったこともあれば、当時と同様の気持ちになる部分もある。曜本人がどう思うかはともかく、わたしはまだ心の底から「これでよい」とは言えない。
 でもその後、笑顔で千歌と接する12話や13話の曜を見るとき、あるいはさかのぼって1話から13話までの曜の変化を見るとき、11話単体では感じられない納得を感じもする。
 そして、繰り返される曜と千歌の物語の原型である、『恋になりたいアクアリウム』のPVを観ると、その納得は一層強くなる。


 曜は高飛び込みの選手です。飛込競技は、飛込台と水面という定められた二点のあいだをいかに飛ぶか、ということを競うものです。そのことは、『ラブライブ!サンシャイン!!』という物語の、そして曜の葛藤が描かれたエピソードの、「繰り返し」という面を強く意識させます。


 高飛び込みというのは、高いところから飛び込むときの恐怖をいかに克服して演技に集中するか、がまず問われるらしいんですね。曜は全日本クラスの選手なのですから、きっともう飛び込むことの恐怖なんか感じたことがなかったんでしょう。
 それはおそらく他人との関係においても同様で、アニメ前半での、千歌の無茶に付き合い、クラスの人々と友好に接して学校内の事情を把握し、扱いづらそうな津島善子ヨハネともフレンドリーに接し…と縦横無尽な活躍の印象にも繋がります。
 けれども、PVの、そして11話の曜というのは、高飛び込みと同じかあるいはもっと昔からずっと接していたはずの千歌に相対することに臆病になってしまう。
 そんな曜が、怖がりながら、千歌のもとへと飛び込んでいく。その「高飛び込み」を最初に描いたのがPVであり、そしてふたたび繰り返し描いたのが11話だった。
 そのように個々のドラマ*3をひとつの「飛び込み」と見立てて、本来はパラレルに存在する別個の曜の物語を、一人の曜が繰り返し繰り返し行なっていると妄想してみる。
 その時、俯瞰とクローズアップの両方の視点で曜の姿を捉えられたときに、わたしの11話放送当時のわだかまりはほどけたように思えるのです。

 

繰り返しの可能性がくれるもの

 曜による繰り返しのなかでも印象的なのは、「やめる?」という千歌への問いかけです。

 その挑発じみた言葉は、やがて千歌に届かなくなり、曜は口にしなくなる。ところが13話で、千歌の母親という実に意外な人物によってその言葉はまた繰り返されました。そのことは、過去に、母だけが知る千歌の挫折があった可能性を示している。その詳細は不明ですが、ともかく、曜の知ることがない場所で、曜以外の人間によって「やめる?」という言葉が繰り返され、かつ千歌によって否定されたのは、どこか曜の「繰り返し」からの解放をも感じさせます。
 だからこれからはもう、曜の千歌に対する葛藤は描かれないかもしれない。千歌と曜は離れず一緒にいられるかもしれない。


 でもぜいたくを言えば、まだまだ何度でも、曜の「飛び込み」を見たいという気もするのです。
 それは千歌に対してでなくてもいい。千歌と関係を結び直した曜が、今度は、Aqoursの他のメンバーと、また異なる関係を築きあげてもいい。特に、エンディングでその関係性が強く示唆された津島善子ヨハネとのあいだには、同じ方面に自宅があること、そして同学年の千歌・梨子、または花丸・ルビィという強い結びつきをもった二人を眺めて過ごしているという共通点があるのですから、もっとドラマがあったっていい。

 11話の物語が当初受け取りづらかったのは、曜があまりに物分りがよすぎる、ということにも一因があったのだと思います。たぶんわたしは、曜がもっと自分勝手になるところも観たかった。彼女はいちおう感情を吐露しはするのだけれども、それでもまだ十分でない気がしてならなかった。いや、そんなの、こっちの勝手ではあるんですけど。

 前述の、曜は千歌との葛藤の物語を何度も繰り返している、というニーチェの「永劫回帰」じみた妄想を抱くことは、彼女がいまの11話とはまた異なる感情を露わにしている情景の可能性を信じられるようになるから、わたしの気持ちは楽になったのだと思う。
 黒澤ダイヤについて書いたこと*4と同様、こうしたメタ的で飛び道具的な読みを際限なく許せば、作品がその作品である意味は薄れてしまいます。わたしは11話を否定したいわけでもないし、今はまだ同人誌をあさって違う物語をたくさん摂取したいともあまり思えない。
 でもここに書いてきたような妄想と、曜がこれから行う新たな「飛び込み」への期待を抱くくらいは、『ラブライブ!サンシャイン!!』という作品は許してくれているように思える。

 わたしは11話放送まで、それほど曜のことを考えていませんでした。むしろ他のキャラクターに比べると、ストレートすぎて立体感が感じられず、あっけらかんとしすぎじゃね?と思っていた。たぶん、彼女の人気の多くは、そのように、尖ったところがなく、自分の感情や理想を投影してもキャラが破綻しない、素体のシンプルさに拠っているのだろうと思います。そういう彼女に、わたしはあまり関心が持てなかった。

 けれどもこうして、彼女のキャラクター同様に、あっけらかんと11話が終わってしまったことで、逆に彼女のことをずっと考え続けざるを得なくなっている。と同時に、「繰り返し」を行うからこそ、そんなあっけらかんとした曜に、独特の陰影が生じているようにも思える。
 …なんというか、まんまと作り手の思惑にしてやられている、という感じもしますね。
 曜がこれからどんな活躍をしていくにせよ、わたしはまたたびたび血相を変えて「渡辺さんはそれでいいんですか!」とか訊くに違いありません。そのような種類のキャラの「伸びしろ」というのも、アリなのかなあ、といまは思っています。

 

 

 


【試聴動画】Aqours 2ndシングル「恋になりたいAQUARIUM」

 

  本当はニーチェがらみで、このへんの作品についても語りたかったんですけども。

 『オール・ユー・ニード・イズ・キル』の評で宇多丸さんが「映画のなかでなにかが繰り返されるということはただそれだけで快楽を生んでしまう」というようなことを言っていて、それは曜の「ヨーソロー」であったり、葛藤の物語の繰り返しであったりによるある種の「楽しさ」にも通じるな、と思っています。

 

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

 

 

 

 

 

 

 

*1:なお、ここで背中を向けて近づく曜は、アニメ1話、千歌と背中合わせの状態で、スクールアイドル部に加入することを告げる曜の姿の繰り返しでもあります。

*2:http://tegi.hatenablog.com/entry/2016/09/17/105525

*3:ここではPVとアニメ本編だけを取り上げましたが、彼女たちを演じる斎藤朱夏伊波杏樹の言動もまた、曜にまつわる「繰り返し」のひとつといっていいでしょう。「浦の星女学院RADIO」のごく初期の放送で、伊波さんが斎藤さんを「いいやつ!」と評していた場面、すごく素敵だったなあ…。

*4:「嘘をつく人 黒澤ダイヤのこと」http://tegi.hatenablog.com/entry/2016/10/30/010357

「覚束ない人」黒澤ルビィのこと/『ラブライブ!サンシャイン!!』とAqoursを考える・その6

 2月19日は降幡愛さんの誕生日だそうです。めでたい!

 これを祝して、今日は彼女と彼女の演じる黒澤ルビィの魅力について語ります。

 

アイドルの一定義

 アイドルとはなにか?

 その定義には色々あると思いますが、ひとつのタイプとして、「全体的に覚束ないんだけどどうしようもなく魅力的な人」、という定義ができるんじゃないかなと思います*1。人間として、また歌手や演技者としては未熟だけれども、それを越える魅力を獲得してしまっている人。
 高校生だけど(=「アイドル」という職種ではなく本分は学生だけれど)アイドル、というスクールアイドルという存在は、学校とアイドルの両方に足を置いているということがこの「覚束なさ」を生み出しているわけですが、『ラブライブ!』のμ'sを考えるとき、特にその後期の活動の印象においては、覚束なさ、幼さの印象はあまり強くありません。これはアニメ二期からファンになったわたしの個人的な記憶によるところも大きいでしょう。アニメなどの劇中で幼さや無邪気さを強調された描かれ方をしていても、彼女たちがすでに成し遂げた偉業*2を考えれば、覚束なさを感じることはそうない。特に、映画『ラブライブ! School Idol Movie』や、2016年4月のファイナルライブを観れば、その尊さに打ちのめされるしかないわけで、観る側が自分よりも覚束ない部分を見出すのは相当に難しいと言わざるをえません。
 ではAqoursはどうかというと、これまた、人の少ない地方で、勝率の低いスクールアイドル活動に挑むという立場から生じるある種の悲壮さ、勇敢さ、諦念をまとっていて、やはり幼さや頼りなさを感じることはあまりありません。

 しかしそんななか、圧倒的な覚束なさでわたしの目を奪うのが黒澤ルビィであり、彼女を演じる降幡愛さんです。

 

覚束ないルビィと降幡愛

 黒澤ルビィは、名家の長女として学校でも地域でも名を馳せる才女・黒澤ダイヤの妹の影にかくれる、「泣き虫で臆病で男性恐怖症」*3という覚束なさの塊のような少女です。不器用だし人前に出るのも苦手ですが、それでもただひたすらにスクールアイドルが大好きであるがゆえに自身もスクールアイドルになろうとしてしまう。
 『ラブライブ!』全体を見渡しても、かように基礎設定として幼く未熟な人間としてのアイドル性を打ち出したキャラクターは珍しいと言えるでしょう。強いて言えば、一番近い印象なのは小泉花陽でしょうか。しかし花陽は『ラブライブ!』アニメ二期で次期部長となりましたから、やはりルビィと並べるのは無理がある。

 

 演じる降幡愛さんも、こんな逸話を残しています。

「最終のスタジオオーディションで、役柄や『ラブライブ!』への想いを語っているうちに感極まって大号泣してしまったんです。酒井(和男)監督が声をかけてくださっても返答ができないくらい。あの時は、”今、ここに立っている自分”が信じられなくて、本当にうれしくて、夢のようで…。でも、泣いてしまったのはプロらしくないかもと思い、ずっと落ち込んでいたんです」

降幡愛*4 

  確かに「プロ」としてはよろしくないですが、アイドルとしては一億点のエピソードでしょう。最終オーディションに残る以上、ある程度の能力を認められている立場なわけですが、そうした自分の能力を追い越して感情が先走っている。そりゃ酒井監督も声をかけたくなるというもの*5

 特にアニメ一期によってスポ根物語としての性格を強くした『ラブライブ!』にあって、弱さ、未成熟さは、強さ(能力の高さ)で越えるべきものとして描かれがちです。ファンのほうも、キャストが発揮するダンスや歌唱の力や、成長の度合いに歓声をあげる。そういうなかにあって、弱さそのものがどうしようもない魅力を放つルビィ/降幡さん、というのは貴重な存在で、作品やグループ全体にとっても重要だと思うのです。
 先日某所で、小学生の女の子たちに黒澤ルビィが人気である、という話を聞きました。高校生であるルビィが小学生に支持されるというのは、おそらくこうした弱さと無縁ではない。それこそ姉のダイヤはそうした支持を得ることは難しいでしょう。

 

 アイドルの弱さに魅力を感じる、というのは、乱暴に言ってしまえば、自分より弱いものを眺め応援することで、庇護欲を満たせるからでしょう。前述の小学生の女の子たちというのは特殊な一部の例で、『ラブライブ!』の主なファンはルビィよりも年長の男性たちです*6。そこにあるのは、年長の男が幼い女を庇護し、その対価として尊敬であったり愛であったりを期待する、というあまり胸の張れない構図です。まあ、それは否定できません。


 じゃあ、弱いアイドルを愛おしむのは虚しく忌むべき行為かといえば、長期的に言えばそうではありません。弱く幼いアイドルも、いつかは変わっていく。ルビィも降幡さんも、いつかどこかの時点で、ファンの庇護欲の閾値を越えるような輝きを獲得する*7
 そのときファンは、今まで応援していたアイドルが自分を越え、変化し、追い抜かれたことを悟ります。たぶんその認識は、ファンをも変える。今度はまた違う弱く幼いアイドルを応援するようになるだけかもしれないけれども、そうなったとしても、まったく変化しないでいるのは無理なはずです。
 成長や変化が絶対あるべきとは言わないけれども、そうした可能性を孕んでいる時点で、幼く弱いアイドルを愛でるという行為は、虚しいものではないでしょう。

 

まだ職人じゃない

 アイドル一般の話がだいぶ長くなってしまいました。
 ルビィ/降幡さんが、そうした決定的な変化を迎えるのはまだ先だと思います。
 降幡さんは、「職人」という仇名で他のAqoursメンバーやファンたちから親しまれていますが、実際のところ、わたしは彼女の言動に「職人」という言葉が本来示す意味を感じることはない。彼女のトークや一発芸はたびたび場を沸かせるし、絵はうまいし、写真で自他の魅力的な瞬間を切り取るのもうまい。でも、それらに「職人」的な技巧や安定性はないようにわたしには思えます。
 むしろそこにあるのは、対象への強く深い感情や、野放図で無邪気な「楽しもう」という気持ちでしょう。降幡さんの言動のはしばしにそういう素直さを見て、わたしはしみじみと「いいなあ」と思ってしまう。

 なぜなら、技術的な「職人」には、技術の修行を積み重ねればなれるけれども、降幡さんが醸し出すようなよさは、そう簡単には手に入らないからです。

 

 ついに開催まで一週間を切ったAqoursのファーストライブに向けて、降幡さんはたびたび「ルビィとしてステージに立ちたい」という趣旨の発言をしています。
 それは降幡さんの、自分の演じるキャラクターへのまっすぐな感情の表れです。幼く弱いルビィを、客観視するのではなく、まっすぐに追い求める*8
 ニコ生等を見ていると、そうした真っ直ぐさが、時として素っ頓狂な失敗を招いてしまうこともあるなあと、苦笑いしつつ心配にもなるのですが、でも、そういう人にしか招けない風景というのもきっとある。
 そして、幼く弱くまっすぐな人が描くものほど、強く大人びてあろうとした人の心を不意打ちするものはないと思う。

「あいあいは「有紗はね、そんなにがんばらなくてもいいんだよ」と私の頭をなでてくれるんです」

 

小宮有紗*9 

 

その日の夜は小さな三日月。
そんな小さな月の明かりは――でも透き通るようにきれいな白色に輝いていて。
なんだか新しい世界を――わたくしに示しているような気がしたわ。
美しいのは空から落ちてきそうに大きな満月だけじゃなく。
どんな夜空にも――美をあることを。

 

黒澤ダイヤ*10 

 

 弱く幼いアイドルを愛でることは庇護欲からくる、と先程書きましたが、このように、そんな幼く弱いものから何かを与え返される瞬間というのは、べつにその活動の終盤でなくとも何度も生じる*11。実は、小刻みに庇護欲を否定され続けることこそそういうアイドルを応援することの核なのかもしれませんけど、でもそういうアイドルは、その次の瞬間にはまた、頼りない姿を見せてこちらを冷や冷やさせてくれる。
 寄せては返す波のように、心休まらない楽しさを与えてくれるアイドル性をもったルビィ/降幡さんを、わたしはまだまだ眺めていたいと思うのでした。

 

 

  降幡さんといえば写ルンです

 

 

 

 

ライムスター宇多丸の「マブ論 CLASSICS」 アイドルソング時評 2000~2008

ライムスター宇多丸の「マブ論 CLASSICS」 アイドルソング時評 2000~2008

 

 

*1:というぼくのアイドル観は多分にライムスター・宇多丸さんのそれの影響を受けています。彼のアイドルの定義は、「魅力が実力を凌駕している存在、それをファンが応援で埋める」(TBSラジオライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』2012年2月18日放送分より)というものです。)

*2:アニメ一期における学校の存続や、アニメ二期におけるラブライブ優勝はもちろん、何よりもコンテンツとして巨大な人気を得るに至らせた声優たちの活躍ぶりが大きい。

*3:ラブライブ!サンシャイン!! FIRST FAN BOOK』

*4:『電撃G's Magazine』2016年10月号 インタビューより

*5:余談ですが、キャスト決定の段階から酒井和男さんが立ち会っていたことを示すこの降幡さんの証言はけっこう重要だと思います。アニメ放送終了後、キャストが歌やイベントで積み上げてきたのに対して、酒井監督が途中から参加して台無しにした、というような批判をしていた人たちがいましたが、キャスト決定にも酒井監督の意向が多かれ少なかれ含まれていたことになるわけで、彼らの批判はまったくもって的外れだったことがわかる。各コンテンツの発表時期でだけ考えるから生じる誤解であって、製作期間を踏まえれば自明のことなのでですが。批判をするなら最低限こういう事実を押さえておくべきです。

*6:正確な統計を取ったわけではないですけど、イベント等の風景を見る限り、断言しても差し支えないでしょう。

*7:もちろん現実のアイドル業界にあっては、そうならないことも多々ある――というか、そうならないことのほうが多い。でも、引退や、いつの間にかの活動休止だって、変化には変わりない。アイドルの変化すべてに、ファンは「アイドルに追い越された」という感慨を抱きうるのではないか、とわたしは思っています。

*8:小林愛香さんが津島善子ヨハネに対して「わたしも、ヨハネになりたいけど、/なんだか...なりたいとかじゃなくて...ちがくて...」と語るのと対照的です。小林さん/善子/ヨハネについては、先週の記事で詳述しました。『「迷う人」津島善子ヨハネのこと/『ラブライブ!サンシャイン!!』とAqoursを考える・その5』 http://tegi.hatenablog.com/entry/2017/02/12/232252

*9:『電撃G's Magazine』2016年11月号小宮有紗インタビュー

*10:『School Idol Diary 黒澤ダイヤ 箱入り娘の未来。』

*11:細かい話になるんですけど、ぼくは降幡愛さんがたまに聴かせてくれる落ち着いた声が大好きです。『浦の星学園Radio!!!』で、グッズ発売等の案内や、提供紹介をするときの声と口調が、むちゃくちゃいいんだよなあ…。いやそんな大人びた素敵な声出せるの?という驚き。