こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

あなたがたには見えないというけれど

 四回目の感想を書く前に、最近話題の論争について触れておきます。
 個人的に、「『ラブライブ!』映画はシャマラン映画と同じフォルダに入れておいたほうがいいかもしれない」*1という気がしてきていたので、むしろ先週くらいまでの絶賛ばかりの雰囲気にびっくりだったんですけども…。

■アイドルはなぜ魅力的なのか? あるいは、劇場版『ラブライブ!』はなぜ失敗作なのか。
http://oriaso.seesaa.net/article/421134088.html

 上記の『ラブライブ!』二期・映画批判がたいへん話題になっています。極論ではあるものの、それなりに説得力のある部分も多く、しかもリアル知人の方らしい人の反論もまた質が高い。

ラブライブ!は美しいーおりあそ氏への反論?…ラブライブ二期の本当の思想
http://hiyamasovieko.hatenablog.jp/entry/2015/06/24/004202

 ぼくはこれだけ『ラブライブ!』に言葉を費やしているので、この批判に対しても自分の思うところを書き残しておきます。

 おりあそさんの批判は、物語あるいはキャラクターが描かれていないというのが主な論旨と思います。
 この批判点、ぼくが『ラブライブ!』を観る前に持っていた先入観とまったく同じです。ぼくは二期アニメから入ったのですが、華やかなビジュアルやファンの雰囲気から、「人間も物語も描けてない浅薄なコンテンツだろ」という視点で観始めていた。けれどもぼくの場合、二期を観て「人間も物語も描けてるじゃん!すげえ!」と思った。このへんの感じ方はもう個人差としか言いようがないのでしょう。
 二期におけるμ'sたちの葛藤は、すでに一期で仲間として出来上がったうえでのものなので、一期に比べると内輪的だし、揺れ幅が小さい。そこに物語を見出すかどうか、それは個人の趣味によって大きく分かれてしまうでしょう。
 でも、それを「物語がない」と片付けてしまうのは傲慢だと思います。少なくとも、批判をするなら、「自分の観たい物語/キャラクターが、自分の観たいスタイルで描かれていなかった」と言うべきではないでしょうか。「失敗作」というタグ付けはあまりにも乱暴にすぎる。

 今回の映画においてはその葛藤の狭さが極まっているので、よけいに物語がない、人間が描けていない、ととられてしまうのも仕方のないことではあります*2
 映画のなかで問題になる「なぜ歌うのか」「なぜμ'sを終わりにするのか」といった葛藤は、実にあいまいで抽象的な問題です。極端に言えば、穂乃果たち自身にしかわからない。穂乃果たちが観客にわかるかたちで言葉にしていく作劇にした場合、それはわかりやすくはなるけれど、その葛藤にふくまれる曖昧模糊としたものは取りこぼされてしまう。おそらく、その部分こそが大事なのに。

 公開一週目にぼくは、この映画の鑑賞後の印象を、終わったけれど終わっていない感じ、観客から離れて宙に浮いているような感触、といったような言葉で表しました。
 今回の論争をみていて、この雰囲気は、そうした穂乃果たちの、細やかで掴み取りづらいけれど、確かにそこにある葛藤とその答えを表現するために、個々のシーンや物語ではなく、映画全体の構造として表現するために行われたしかけによるものではないか、と思うようになりました。
 『SUNNY DAY SONG』や『僕たちはひとつの光』を歌うμ'sの心境は明言されません。けれども、観客はあの歌とダンスの輝きに、逆説的にその心情を読み取ることができる。穂乃果の過去と未来を往還して、運命づけられたように、あるいは全てが未確定で自由でもあるように、彼女たちの来し方行く末を想うことができる。
 そして、その感動は、雑誌連載から小説・漫画・アニメとでそれぞれに培われてきたμ'sたちの物語の蓄積と、声優たちによるライブや今現在行われているファンミーティングといった現実との重ねあわせによって、単にファンが勝手に妄想するのではない、そして一方的に作り手が確定させるのでもない、多様で開かれた豊かな物語群によって裏打ちされている*3

 物語が受け手にもたらしてくれるのは、ただ直線的に展開する事件や、直接的に説明される言葉で示せるものだけではないはずです。
 それまでの背景を全く知らない人ならばともかく、『ラブライブ!』をある程度知っている人が、そうした明言されないなにかを汲み取る姿勢をもたないでいることこそ、件の批判で否定されているような、物語や人間をないがしろにする行為ではないか、とぼくは思います。

 いま『ラブライブ!』と同じく映画館で大ヒットしている『マッドマックス 怒りのデスロード』も、実際には繊細な演出のもと豊かな物語が構築された傑作なのですが、受け手によっては「物語がない」「バカ映画」と断定され、その豊かさを汲み取ることを放棄してしまっている。
 観客や過去作に接続することで豊かさを得た『ラブライブ!』に比べると、『マッドマックス』は映像・演出・物語すべてにゆきとどいた深い思慮と職人的作り込みによって豊かさを得ているので、単純に比較できない――というか単体の映画としては確実に「『マッドマックス』のほうが偉い」のではありますが、その受容における切断処理のされかたは同じで、いずれも非常に寂しい気持ちになります。

 『マッドマックス』と比べたとき、やはり『ラブライブ!』の豊かさはいびつだし不親切ではあるな、と思います。それは仕方ない。もっとうまく見せてよ、という意見には頷いてもいい。
 でも、決して空疎ではない。『ラブライブ!』は、豊かな映画です。ぼくはここ三週間で書いてきた文章でそれを描いてきたつもりですし、もうしばらくは続けていきます。

1度ないことにしてしもたもんは――きっと本当にないことになってまうのかもしれへんな。
ウチは思うん。
みんな、見えないって思うから。
そこにはきっとなにも見えない。*4

 次回はのんたんについて語るよ!

*1:「おれは愛しているしその理由もきちんと説明できるが、他人にはたいていわかってもらえない映画」のフォルダ。シャマラン作品では特に『サイン』『レディ・イン・ザ・ウォーター』が該当します。

*2:ただ、けっこうわかりやすく、各人物の人間性も描かれてはいます。一年生ならば、小泉花陽はスクールアイドル業界の事情や今後を多く語っていて、彼女のアイドル以前にアイドルファンであることを印象づけていますし、凛も真姫もそれぞれにこれまでとは異なる人間に成長している。彼女たちの成長が過程ではなく結果としてしか描かれないから、批判者にはわかりづらいのかもしれません。

*3:穂乃果の足元に舞い落ちる花びら、各人物たちの成長ぶり、などなど。個々に指摘することはしません。

*4:公野櫻子ラブライブ! School Idol Diary 〜東條希〜』