こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

「最高」だったあのときのことを考え続けている/「ラブライブ!μ's Final LoveLive! μ'sic Forever!」ライブビューイングレポート

 今回取り上げるμ'sのラストライブ、そしてその直後に行われたTridentのラストライブから、すでに一ヶ月が経ちました。その間、仕事がすごく忙しいうえに風邪で数日寝こんだりしていて、もう遠い昔のような感覚がします。

 それでも、あの二つのライブについては書いておかねばならないことがたくさんあります。
 今日はまず、μ'sについて。たいへん長い上に抽象的で個人的なことばかり書きました。


 4月2日、TOHOシネマズ府中・スペシャルビューイング*1にて鑑賞しました。
 昨年のライブ時も府中のライブビューイングに参加しましたが、その時より、やや年齢層が高めで20代中心といった印象。あとカップルが多かった気もする。ライブ当日が平日でしたから、土曜に開催されたスペシャルビューイングは社会人が多かったのでしょう。
 そのせいか、コールはややおとなしめ。いや、それでも、ほかのスクリーンで映画を観ている観客に迷惑がかかっていないか心配になる熱狂ぶりではありましたが。


 ライブとしては、とてもコンパクトだったという印象があります。約5時間に及ぶものであり、途中で何度も幕間映像(主にキャストのインタビュー)を挟む構成でありながら、全体が緊密で「この構成でしかありえない」と思わせるシンプルな印象がありました。
 おおむねμ'sの歴史に沿った曲順であること、かつ「最後のライブならばこの曲をやっておかなくてはいけない」という曲を着実に演奏していく選曲が、そうした印象を産んだのだと思います。
 だから、次にどんな演出がくるのか、全体の構成がどういったものか、ある程度予測できてしまうわけです。ユニットに分かれて、盛り上がって、それで終わりが見えてきて…といったふうに。でも、それは退屈には繋がらない。なぜなら、あらかじめわかってしまう構成が、μ'sの終わりを示すひとつのメッセージになっているから*2。μ'sの側から「これが終わりだよ」ときちんと差し出してくれているのですから、ファンたる自分はそれを胸を張って受け取らなければならない。μ'sが差し出す一つ一つの曲に、ファンは、そうだよね、と頷きを返す。そんな雰囲気のあるライブだったように思います。


 でも、「終わりを受け取らなければならないんだ」と頭でわかったからといって、心がそれに100%従えるわけではありませんでした。
 終盤で『Sunny Day Song』の衣装を着たμ'sが登場したとき、ぼくは、その日いちばんの辛さ、悲しみ、そして虚無感に襲われました。μ'sのだれも口に出していないけれど、もうはっきりとそこには「これで終わりだよ」というメッセージがあったから。
 崩れそうになる膝に力を込め、嗚咽が漏れそうな口をおさえ、キンブレを振り歓声をあげたときの苦しさは、とうぶん忘れられそうにありません。


 なぜμ'sの終わりが辛いのか。
 二度と彼女たちのパフォーマンスが観られなくなるから。それが前提ではあるものの、加えてぼくには、「置いていかないでくれ」という、自分勝手な気持ちがあったのです。
 この二年くらい、ぼくはμ'sに強く惹かれて日々を過ごしたのだけれども、その根底にあるのは、「μ'sになりたい」という願望でした。……自分で書いていても超きもいしドン引きしているのですが、真実なので我慢して書きます。我慢して読んでほしいけど無理はしなくていいです。
 自分が高校生のころに、μ'sのように輝く青春を生きていたかった、という、過去の話ではありません。いま、たったいま、会社員として働いているいまの自分が、μ'sのようになりたい。そういう、現在の問題なのです。愚かしく、狂人のように思われるだろうけれども、その気持ちは否定しようがない。
 ぼくはμ'sになりたい。
 仲間を牽引していく強さが欲しい。お互いに委ねあえる信頼が欲しい。逆境を乗り越える能力が欲しい。
 ふつうの働く人が、スティーブ・ジョブズの立志伝やGoogleの企業風土に憧れる感情と、さほど差はないのだと思います。
 μ'sのように生きたい。ともに働く人たちにも、μ'sのように楽しく生きてほしい。そういう場を作り出せる人間になりたい、けれど、できない。
 『ラブライブ!』という物語のなかできらめくμ'sの輝きを見るたび、その輝きに欠けた自分の不甲斐なさがおもわれて、一層やるせなさが高まるのです。
 μ'sの、そして『ラブライブ!』の恐ろしいところは、その輝きがフィクション内に留まらず、現実での成功をも伴っていたことです。オタク史、いや日本のアイドル史に残りうる、独特かつ正統的な成功を収めたコンテンツだと言ってさしつかえないでしょう。それは、作り手たちの「仕事」の成果でもある。μ'sのすばらしい活躍の舞台裏では、多くのスタッフたちが、すばらしい仕事をしていたはずです。だから、「あれは嘘の物語だから」なんて言い訳が通じない。実際にゼロから初めて、ドームまでの道を走り切った人たちがいるのだから。
 こうして、フィクションの輝きと、現実の輝きが、二つ揃ってぼくの目を射る。もちろんそれに励まされることもあるけれど、4月のあの日のぼくはその輝きを受け止める気力も覚悟もなかった。打ちのめされてばかりでした。
 そしてμ'sは、そんな不甲斐ないままの自分を置いて去っていってしまう。
 『Sunny Day Song』の衣装を見たとき、あんなにも辛かったのは、そうした気持ちが最も大きくなっていたからなのでしょう。


 ライブの最後の曲は『僕たちはひとつの光』でした。
 「今が最高」というフレーズを、μ'sも、観客も、ぼくも、繰り返し歌いました。
 前述のとおり、観ているぼくは「最高」じゃなかった。それでも「今が最高」だと歌っていた。
 そこには現実逃避と欺瞞がある。
 でも、そういうことをずっと考えながら観ていたライブにおいて、「今が最高」という言葉を発していた瞬間、もっとも自分の現在とかけ離れた言葉を大声で発したあの瞬間に、ぼくは確かに解放されたように感じたのでした。


 あの瞬間、μ'sと観客と演出と、これまでのμ'sの歴史と、μ'sをめぐるすべてのものごとが噛み合って、真に「最高」なものが現れていた。ぼくは最高じゃないし、これからも最高になれるかどうかわからない。けれども今確かに目の前に最高な瞬間が現れていて、ぼくもその一端を、ほんのほんのごく一部だけれども、担っている。
 世の中に「最高」は存在しうるし、自分がその一部になることもできる。ならば、いつか自分が「最高」になることも、決して不可能ではないのではないか? ならば、そのために走っていくことに意味はあるはずだ。
 ――そのように、自分が信じ直すに足るだけの「最高」なものがあの瞬間にはあった。だからぼくはほっとしたのだと思う。


 翌日、Tridentのライブに行く途中、ぼくはニコライ堂*3神田明神に立ち寄りました。とくに神田明神には、ラブライバーの姿が多く見られました。みんな和やかで穏やかな笑顔だった。
 ニコライ堂で参拝を終えて、敷地の外側から建物の写真を撮っていたところ、初老の女性に話しかけられました。ぼくが観光で通りかかったのだと勘違いして、堂内の参詣をすすめようとしてくれたらしい。絢瀬絵里のことを身近に感じたくて――とまでは言わなかったものの、ニコライ堂と正教徒に関心があって立ち寄り、すでに堂内も見学した旨を明かすと、彼女も親近感をもってくれたらしく話が弾み、小一時間ほどの長い立ち話をしました。
 ぼくは特定の宗教を信じる人間ではないけれども、ニコライ堂にも神田明神にも、あるいは他の寺社仏閣にもなにかよきものを感じるのだ、という話をすると、いわく、「人の祈りが積み重なった場所には、共通のなにかが生じるのよ。それは正教もプロテスタントも、仏教でも同じだわ」。
 内心ぼくは、「それは二次元でもアイドルでも同じだ」と思いました。神田明神はもともと平将門を祀った社だけれども、ラブライバーはそこでμ'sを想う。強引で勝手な上書きではあるが、そこに積み重なっていくのは確かにある種の「祈り」です。もしかしたら、その祈りは、普遍のなにかを生み出しているのかもしれない。
 彼女はまた、自分が正教徒になろうと決めたときのことも話してくれました。多分に個人的なエピソードだったので詳述は控えますが、いわば彼女はそこで、正教の信仰対象たるイイスス・ハリストスという理想の存在の一端に触れて解放されたのでした。
 その話を聞いていたときには全く気づかなかったのですが、いま振り返ると、彼女の体験はそのままぼくがμ'sのライブで感じたことに重なると言えそうです。
 理想を叶えることは難しい。だから、理想を宗教やアイドルといったかたちでこの世の中に現出させる。理想の者それ自身になることはできないけれども、その一端に触れることで人は癒され、励まされる。
 ハリストスもμ'sも、人が作り出した理想という意味では同じです。正教徒にもラブライバーにも、あんなものと一緒にするなと怒られるかもしれませんが、時代も文化もまったくことなる人の営みが、共通のよきことを生み出していることに、ぼくは穏やかな感動を覚えたのでした。


 正教徒の女性は、近々、東欧をめぐる長い旅行に出るのだ、と話してくれました。宗教と政治によって数多くの血が流されてきた土地です。荒廃しているところもあるが、各地の教会に宿を借りながら移動し、復活祭はコソボで迎える、という。
 悲惨な争いが行われた土地で、それでも神のことを想う。よき世の到来を願う。
 彼女いわく、人は不完全だから、人間の行いを見ていると、信仰を失いそうになってしまう。だから、神のことを考え続けるのが大事なのよ、と。


 ぼくも、μ'sのことを考え続けようと思います。

*1:生中継ではなく、ライブ翌日に録画を放映したものバージョン

*2:だから、すごく儀式的だと思いました。極端な言葉を使ってしまえば、あれはμ'sという存在をいったん彼岸へ送り出す葬儀だったのだと思う。

*3:神田明神に比べてラブライバーの注目度は低いですが、『School Idol Diary』で描かれる通り、絢瀬絵里が幼少時に通い、穂乃果・海未と初めて出会ったとされる重要な場所です。

新人アニメーター寮のクラウドファンディングに参加した

 この一ヶ月、μ'sとTridentのラストライブ以降、あまりのショックに身体を壊し――というわけではないんだけど、まあ更新が途絶えております。二つのライブのことについて書いては消し書いては消しの繰り返しです。
 で、あんまり間があくのもなんなので、表記の件についての記事をアップしておきます。自分用メモですが、関心持ったかたがいたら嬉しい。あと誤認とかあったら教えてください。

新人アニメーター寮とはなにか

 「新人アニメーター寮」とは、NPO法人アニメーター支援機構という団体が運営する寮のこと。収入が低いにも関わらず、都内の家賃が高いエリアで生活しなければならない新人アニメーターを支援するための安価な寮なんだそうです。

 

animator.main.jp

readyfor.jp

 

 寮が最初に開設されたのが2014年で、ぼくは昨年行われたクラウドファンディングをきっかけに知りました。そのとき支援したかどうかは忘れた。

 「アニメーター支援機構」でぐぐると、ネガティブな情報も散見されます。

matome.naver.jp

matome.naver.jp

 どうも当初は、著名な作家のイラストをもちいたチャリティで資金を集めようとしていたらしい。確かにそれはどうかと思う。

togetter.com

 アニメーター支援機構が行う講習会について、北久保弘之氏が質問をぶつけた際のまとめ。
 このやり取りを見ると、支援機構は情報の示し方があまりうまくなく、それで誤解や反発を受けてしまうことがあったようだ。

 2015年のクラウドファンディングの際には、(あくまでぼくの観測範囲内だが)ネット上で大きな反発が起きるようなことはなかったと思う。二回行われた募集がいずれも目標達成できていることも、支援機構の活動が軌道に乗っており、また世間にも認知されつつあることの証左だろう。
 チャリティという、ものの売買を間に介した方法ではなく、直接出資を求めるというスタイルにしたのもよかったのだと思う。

 現在の寮のようすは、寮生が更新するFacebookが一番参考になる。

 

Facebook - 新人アニメーター寮

https://www.facebook.com/AnimatorDormitory/

 

 寮生の方々が、寮で行っている活動や、自分の仕事の様子、はたまた折々の日常生活などをかなり頻繁にアップしている。

 簡単にまとまったものとしては、2014年の下記のまとめがわかりやすい。

togetter.com

 Twitterで「新人アニメーター寮」で検索すれば、現在居住している人のアカウントを見つけることもできる。

  総合的に判断して、現在、新人アニメーター寮は信頼に値する運営がなされているように思える。むろん、100%確かなことはないし、ここで支援されたアニメーターさんたちがこれからどんな生き方をするかは全くわからない。たとえば寮を出た途端にアニメーターを辞めてしまうかもしれない。

 けれど、まあ、そのくらいのリスクは気にしない。そもそもそこまでの大金をつっこむつもりはない。そんな余裕はぼくにもない。

 

で、結局支援は必要なのか

 一般的な事実として、東京で暮らすにはとてもお金がかかる。部屋を借りるには、最初に敷金・礼金として一ヶ月分の家賃と同額あるいは倍額の金を支払う必要がある。さらに、二年ごとに更新費用として一ヶ月分の家賃を支払わなければならない。
 空き部屋がごろごろある地方から考えると異様に思えるが、とにかく東京の賃貸業者は強気なのだ。
 そのような住居環境で、賃金の安い業界に飛び込む若い人が引き受けなければならない負荷はとてつもなく大きい。
 もちろん、やりたい仕事のためには死にものぐるいでやれ、という意見もあるだろう。だが、リスクがあるよりはないほうがマシだ。辛い道と楽な道、どちらを通っても成果が同じなのならば、楽な道ばかりになったほうがいい。

 個々の支援より、業界全体の構造改革が必要だという意見もあろう。しかし大きな変化には長い年月が必要だ。今なら故郷を飛び出すことのできる若者が、数年後には家庭の事情や社会情勢の変化から、そうできなくなるかもしれない。

 アニメーターの懐を潤すなら、ソフトやグッズを買えばいいのではないか? それはもちろんそうだ。アニメ業界の人たちのことを思いながら、自分の欲しいものを買う、それだけでも充分だとは思う*1
 しかし、どうもぼくは業界全体というよりは、個人を応援したいという気持ちのほうが強いらしい。声優や監督といった表舞台に立ちやすい人たちならば、ソフトの購入が彼らへの「支援」になると思う。しかし、まだまだ無名の若手アニメーターの場合は、ソフトの購入だけでは厳しいだろう。

 と、いうわけで、ごくごく低額ではあるが、ぼくは新人アニメーター寮のクラウドファンディングに参加したのだった。
 締切は5月31日。クラウドファンディングなので、これまでに目標が達成されなければ、ファンディング企画全体が失敗ということになる。成立すればいいなあと思います。

readyfor.jp

*1:というかそもそもふつうの人は娯楽としてアニメを享受しているだけでよい。作る側が設定する対価を支払っているかぎり、そんなマジメなことを考える義務はない。それは大前提ではある。

Tridentが解散したって悲しくなんかない

 

BLUE(初回限定盤)(Blu-ray Disc付)

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 いよいよTridentのラストライブ*1まであと一週間となりました。
 まったくの偶然ですけど、Trident同様にぼくが愛するμ'sもまたあと数日でラストライブを迎えます。なんたる符合。偶然ではありますが、あと数日で自分の好きなものの終わりが二つもやってくるかと思うと、その欠落に自分が耐えられるのか不安になってきます。いや、きっと自分のなかでなにか大きな変化が起こるのだけれども、大きすぎて予測ができない。そんな気分です。

 でも、Tridentにせよμ'sにせよ、当の本人たちからは、悲壮感みたいなものはあまり伝わってきません。ライブという大きな仕事を前にしているのですから、悲しむ暇なんてない、ということもあるのでしょう。大人が仕事として準備をしているのですから、当然です。
 ですが同時に、ことTridentについては、Trident自身もファンも、こうした「終わり」を迎え入れる準備はあらかじめできていたのではないか、という気がします。
 別れを前にしても、悲しみに暮れなくてよいのだ、とみな頭でわかっている。
 Tridentを産んだ『蒼き鋼のアルペジオ アルス・ノヴァ』という作品が、そのことを示しているからです。

 

 『蒼き鋼のアルペジオ アルス・ノヴァ』の主人公であるイオナ*2は、自分が超越的な存在・ヤマトによって恣意的に創りだされたかりそめの存在であることに悩みます。世界の危機を回避するために、彼女は自分のなかにバックアップ保管されていた創造者たるヤマトを解放しなければならない。ヤマトを解放したとき、おそらく自分の自己同一性は保たれず、ひとつの終わりを迎える。自分の生は他者のためのものであっただけでなく、終着点までもあらかじめ決められていたのです。
 彼女は恐怖に怯えます。仲間の危機を前にしても、自分を失う恐怖から、何もできないでいる。
 そんな彼女の背中を押すのは、かつて自分の愛するものを失った悲しみにとらわれ暴走するも、イオナによって救いを得たコンゴウでした。

消えるわけがないだろう
お前の存在はずっと私の中にある
お前がこれからどうなろうと
私が覚えている限り
お前がいたという事実は消えはしない*3

 すでに愛したものを失ったコンゴウが口にするこの言葉には、とても説得力があります。とはいえ、容易に頷くことは難しい、とても厳しい言葉でもある。
 他者の記憶という不確か極まりないものにしか、自分を託すことはできない。そんなことを信じて自分を投げ出せるのか。
 そもそも、イオナの生は他者によって定められたものでした。そのような生を、自分だけのものとして認め、誰かに認めてもらうことができるのでしょうか。
 自分の生に、他者に託せるほどの意味はあったのだろうか? もしぼくが彼女の立場になっても、そのように怖気づくはずです。
 もちろんぼくを操るヤマトのような超越者はいません。ですが、身体や能力によって、ぼくのできることはとても小さく限られている。自分が歩める狭い狭い道だけをなぞっていく己の生が、ときおりひどく虚しく思えてしまう。思い悩むイオナに、ぼくは強く共感します。

 

 が、それでもイオナは、自分のなかのヤマトを復活させることを選びとります。
 あらかじめ定まったルートを通ったのだとしても、
それでも世界は複雑さに満ちていて、そこから自らの大切なものを選びとることはできる。
 たとえ自分の記憶がなくなり、アイデンティティーが消え去っても、それを誰かに引き継いでもらうことは可能だ。
 そこに意味は必ず生じる。
 イオナの選択は、そのような信念に基づいているのだ、とぼくは思います。

 

 人の生は、運命を超えて意味を得ることができる。
 そのようなことを考えるとき、ぼくは、2015年3月のTridentファーストライブにおける『Innocent Blue』歌唱中の一場面を思い出します。
 ハルナ役・山村響さんとタカオ役・沼倉愛美さんの間に立って、ひとりソロパートを歌おうとするイオナ役の渕上舞さん。その背中に、左右から沼倉さんと山村さんの手がそっと添えられます。感極まった渕上さんは、思わず声をつまらせます。こぼれる涙。いたわりあうように、互いの感情を交換させるように、寄り添うTridentの三人。
 渕上さんの背中に手を添える振付は、事前に沼倉さんによって考案されていたものでした。ですが、落涙というアクシデントによって、その動作は、渕上さんをいたわる二人の心の現れとして見えるようになった。
 大げさですが、あらかじめ定まっていたはずの振付という運命を超えて、新たな意味が生じたのです*4

 

 より大きくTridentの活動を見渡すと、Trident自体も、あらかじめ定まっていた運命のなかで、意味を見出していくことを実践したのだと言えるように思います。本人たちの自主的な希望でも、自然発生的なものでもなく、アニメ放映前から段取りされた、作品の利益のために組まされたユニット。それがTridentでした。
 Tridentがその活動初期に「不仲」というキーワードをもって世間から誹謗を受けたのも、作品内ユニットという存在の向こうに透けて見える「大人の事情」が忌避されたからかもしれません。ファンタジーであるはずのアニメ作品が、好きでもない仕事を声優たちに強いている。そんな歪んだ現実は、オタクたちの見たいものではないのだから。
 しかしいま、彼女たちの歌に、ラジオでのトークに、そしてステージでの姿には、そのような定められた運命を窮屈にこなす不自由さは感じられません。作品の終わりと同時に活動を終えさせられる、そんな運命を辿らされている真っ最中だというのに。

 

 決められたことをこなすなかでも、自分にとってかけがえのない意味を見出すことができる。
 Tridentの、そして『蒼き鋼のアルペジオ アルス・ノヴァ』の発するそんなメッセージに、この最近のぼくはずっと勇気づけられてきました。
 Tridentは、規定された活動のなかで、規定以上の輝きを見せてくれました。ならば自分のような人間も、日々の、どうしようもなく平凡に規定された人生を、意味あるものにできるのではないか。そう信じさせてくれたのです。

 

 ぼくにそんなことを信じさせる力をくれた人たちの、最後の道のりが、このラストライブです。ならば、悲しみに暮れることはない。Tridentの姿を心に焼き付けて、ラストライブのあとも、ぼくはまた大いに語って語って語り倒します。
 そしてコンゴウのように、「大丈夫だ/私がお前を忘れはしない」、そう口にしてみせるのです。

私に世界を、世界との繋がりを与えてくれたのはお前だ
そのお前が自分を否定するようになってしまっては
私も立つ瀬がないではないか
大丈夫だ
私がお前を忘れはしない
私たちは、繋がっているのだろう?

 Tridentが解散したって、悲しくなんかない。
 そこで悲しんでいたら、自分のなかに何かを残してくれたTridentの、「立つ瀬がない」ですから。

 

 ライブのチケットはまだ一般発売中のようです。
 今からでも遅くはありません。あなたも、Tridentの航跡を目にしてみませんか。
 幾多の運命と偶然を越えて活躍してきた彼女たちの最後の舞台に、一人でも多くの人が、それまでの人生のルートからちょっとだけ足を踏み出して参加してくれたら、きっと素敵なことになるだろうと思うのです。
 幕張でお会いしましょう*5

*1:4月3日、幕張メッセで開催予定。

*2:美少女アニメというジャンルからすればイオナは「ヒロイン」ですが、ここは「主人公」と呼びます。「主人公」である群像と同じく、戦い、悩み、成長した彼女には「主人公」という名前こそふさわしいと思うからです。

*3:『蒼き鋼のアルペジオ アルス・ノヴァ Cadenza』より、コンゴウのせりふ。以下同。

*4:正直に言えば、ぼくの記憶のなかでは落涙→手を添えるという順番に改変されてすらいました。ブルーレイで確認して順序が逆だったことに気づいた。記憶の曖昧さに苦笑しつつ、それでもやはり、そう思ってしまうのも仕方ない名場面だよな、と思います。

*5:e+のURLはこちらです(笑)。http://sort.eplus.jp/sys/T1U14P0010163P0108P002144333P0050001P006001P0030003

ぼくは「ガルパンはいいぞ」と言わず「ガルパンはおもしろいよ!」と言う/『ガールズ&パンツァー 劇場版』二回目

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 立川シネマ・ツーで『ガールズ&パンツァー』(極上爆音上映)を観てきました。二ヶ月ぶり二度目。
 隣のお客さんが初めて劇場版を観たらしく(上映前の会話をぼんやり聞いていた)、最初に砲撃の轟音が劇場内に響いて身体に伝わってきたとき「ふわあ……」みたいな声を思わず漏らしていたのが印象的でした。終了後も「よかった!よかったよー」とか同伴のリピーターさんに興奮して言っていたのもよかった。他のお客さんも、リピーターが初見の友達を連れてくる、というパターンが多かったように思います。

 

 1月に書いた通り、ぼくは『ガールズ&パンツァー』に違和感を抱いています。二度目を観終わった今もその壁は完璧には崩れていません。

 戦車道において、少女たちは決して傷つかない。「特殊なカーボンコーティング」という設定を超えてその傷つかなさは過剰に思える。そしてその、「どんなときでも少女たちは傷つかない」という物語には、世のオタクたちの、女性への暴力を過小評価しがちな傾向*1通底するものがあるのではないか? ぼくの違和感をざっくり言うとこんな感じです。
 書いた直後も今も思いますが、我ながら、なかなか過敏な感想です。それに、萌え文化、セカイ系文化、さらに広げて言えばハードボイルドに冒険小説と、傷つかない女たちがたくさん登場する娯楽をさんざん楽しんできたお前が言うか、とも思う。でもそういう文化に浸りきった自分だからこそ、ちょっとでも「なんかいやだな」「違うな」と思ったときは口にしておきたい。特に、前回鑑賞時の1月初旬は「ガルパンはいいぞ」という言葉に非常に勢いがあり、そのうねりによって、欠点を隠したままでガルパンをプッシュしていく空気がありました。そういうノリノリな人たちに「ちょっとここらでゆっくり考えませんか」と言っておきたかった。

 

tegi.hatenablog.com

 


 とはいえ、だいぶぼくの感性によるところが大きい文章だったわけで、そういう説得力の低い話を全面に出した記事にしたのは無粋だったかな、と反省しています*2
 また、最近ガルパンとはまた別種の盛り上がりをみせているアニメ映画『King of Prism』*3や、またぼくが昨年のベスト映画に挙げた『ラブライブ!』において、ぼくがガルパンに感じたようなそれに通じる違和感*4を抱いた人がいることを踏まえると、これはガルパンと男性オタクという問題設定だけでは不足で、狭量な議論になりかねないと思うようになりました。娯楽と現実の関わりについて、より幅広い視点で複数の作品を通じて語っていかないと、なかなか通じにくいし自分でも納得できていない。

 その作品の大ファンとして、インサイダーとして語るときにこぼれおちるもの。一見さんとして、アウトサイダーとして語るときにこぼれおちるもの。
 個人の感覚を文章にしているのだから、何かがこぼれおちることは当然なのですが、こぼれおちていること自体は忘れてはならない。
 今言えるのはそのくらいなようです。
 うーむ。

 

 そういうわけで頭がだいぶ煮詰まっていましたが、『ガールズ&パンツァー』二回目の鑑賞じたいはたいへん楽しかったです。

 今回は事前に二冊の本を読んで臨みました。要は、前述したところの「インサイダー」に自分から積極的になったうえで観た、ということです。

 まず一冊目は、野上武志/鈴木貴昭『リボンの武者』。楯無高校に通う松風鈴は、眉目秀麗な優等生ながら、こと戦いについては鬼気迫る執着をみせる同級生・鶴姫しずかに誘われ、小型戦車のみによる非公式戦「タンカスロン」の世界に足を踏み入れる――という『ガールズ&パンツァー』スピンオフコミックスです。

 

ガールズ&パンツァー リボンの武者 1 (MFコミックス フラッパーシリーズ)

ガールズ&パンツァー リボンの武者 1 (MFコミックス フラッパーシリーズ)

 

 

 鈴にとって、大洗の面々は奇跡的な優勝をなしとげた雲上の人々であり、とくに西住みほは戦いの鬼神として恐れるべき存在として描かれます。もともと、王道の主人公たちの脇で生きるキャラクターに愛着を持ちがちなぼくとしては、こういう距離感にわくわくしてしまいます。
 タンカスロンは非公式なので、戦車道のように、ルールやマナーを管理する公の団体は存在しません。参加者も観客も自己責任で、怪我をしても卑怯な手を使ってもお咎めなし。
 この雰囲気、たとえばF1などの現実のカーレース文化がかつてはそうしたものであったことなどを連想させて、「これはこれでアリ」という気持ちになってきます。
 いやなんかそういうもんでもなくない?実際怪我したら公のトラブルとして社会問題になり、競技/文化そのものが衰退するのでは?…などと思いはすれど、戦車をめぐるガルパン世界のリアリティをつかむ一端として、なかなかにたのしい作品です。
 『リボンの武者』で触れられるそんな背景を手がかりにすると、「戦車の戦いというハイリスクな場でも自己責任が前提となりうる世界なのならば、肉体的破損や物損を極めてローコストで補償できるのではないか。たとえば『エリジウム』のアレ*5みたいに大怪我してもすぐ直せちゃうんではないか」みたいなオタク的妄想力も働いてまいりました。

 

 かように勝手に脳内で設定を補強するとともに、映画を観ているうちにガルパンのリアリティラインを納得できてしまった、ということもありました。というのも、終盤の戦闘時に「これはジョン・ウーではないか」というサトリが頭のなかに生じたのですね。装弾数を超えた銃撃、射線のなかに飛び込んでもバレットプルーフな主人公。そういうものだ、以上!というあのウー学校(((c)ギンティ小林)の校則と同じようなものではないか。
 特に、たがいに大隊長を守るべく大学生チームとナオミたちが繰り広げる流麗な戦闘には、凝縮された数秒のなかでアクロバティックなアクションがめまぐるしく展開する香港アクション的なものを感じてたいへんぐっときました。あのへんはみんな戦車のなかに引っ込んでてさほど危なげもないし。

 要は、自分の中にそれまであった、「傷つかない少女たちを観て癒やされたい」という日本男性オタク的な快楽の追求としてのガルパン像だけでなく、「こんなアクションは面白かろう」そして「そのアクションを成立させるにはこのリアリティラインにしよう」という、アクションの快楽の追求としてのガルパン像が自分のなかに立ち上がってきたのです。補助線が一本から二本に増えて、面白さが増えたという感覚もある。

 

 とはいえ、今回の鑑賞においていちばん強烈な補助線として機能したのは、鑑賞前に読んでいたもう一冊、『ガルパンの秘密』の内容です。

 

 

 アニメを作った主要なスタッフはもちろん、舞台となった大洗の街の人々の声も多数含むインタビュー集で、「それ、アニメの大洗女子学園みたいじゃん!」というエピソードが頻出する。アニメを作る側も、大洗の街も、「どこまでできるかわからないけれど、やれることを最大限やろう」と、各地で奮戦する。成功者による振り返りという、ある程度冷静に読むべきテキストではありますが、「アニメというきっかけがなくなっても、大洗町はそこまで弱い観光地ではありませんよ(笑)」(大洗ホテル・島根隆幸さん)なんてせりふが飛び出すような強さ、開放感、現実主義なざっくばらんさがあって、現実の大洗町、そして『ガールズ&パンツァー』を作った人々への敬意と親近感が湧き上がってきます。
 そういう感情と、それから大洗町東日本大震災津波被害と風評被害を受けたことを踏まえて、よりによって3月12日に映画を観てしまうと、前半のドラマがまったく違ったものにみえてくるわけです。理不尽に学園艦*6を追われる大洗の面々は、福島原発事故で住まいを追われた人々に重なります。
 「学校がなくなったら、バレー部じゃなくなっちゃう」「風紀委員じゃなくなっちゃう」「一年生じゃなくなっちゃう」と各チームのテンプレ的アイデンティティーの喪失を嘆く大洗の連中が、コミカルでありながら、すさまじく切実なものとして迫ってくる。「一年生じゃなくなる」ことを嘆くってどんなアイデンティティーだよ、と思って笑っちゃうわけですけど、いや、五年前、じっさいに高校一年生であったアイデンティティーを奪われた人が大量に生じたはずなのだ……、と絶句せざるをえない。
 ぼくはもともと本作の前半、大洗を追われた面々の疎開生活を描くパートがとても好きだったのですが、そうした目で観ると、疎開先の個々のエピソードやデティール、それから西住みほが実家へと帰り過去を回想する描写への愛おしさがより一層強くなりました。同じく廃校に立ち向かう『ラブライブ!』が「学園生活」を守る物語だとすると、こちらは街・家を含む「生活」全体を守ろうとする物語だ、と言えるのかもしれません。だから、大洗町への聖地巡礼が習慣化し、より密接で深いかかわりを求めたくなるのではないか。
 ぼくはかように東日本大震災に結びつけて考えてはみましたが、しかし映画じたいはあくまで、ポップな萌え文化の極北としてのたたずまいを崩しません。あと半歩踏み出せばそちらへ行けそうだけど、行かない。映画が終わってみれば、劇場にはまずは「楽しかったー!」と顔をほころばせる人がたくさんいる。

 色々な意味で、ガルパンは娯楽映画として「強い」。
 その強さは戦車の履帯のようで、難路を突破して乗務員を救うこともあれば、振り落とされ、鉄の重みに踏み潰される恐怖を生み出すこともある(かもしれない)。
 その両方を考えながら、それでも圧倒的にこちらを揺さぶってくる快感に身を委ねる二時間でした。
 立川の上映が4月以降も続くのならば、また観に行くと思いますが、とりあえず今回の感想は次のような一言で終えたいとおもいます。

 ガルパンはおもしろいよ!

 


ガールズ&パンツァー 劇場本予告

*1:これは、誰かが傷ついたというときに「それは暴力じゃないよ」と否定してしまうような、間接的な暴力の肯定へのハードルの低さ、あるいは自分が直接的な加害者になることへのハードルの低さ、双方を含みます。つい先日も、上坂すみれさんが心ないリプライを多数受けてきたことを理由に、ツイッターを終了するという悲しい出来事がありました。

*2:このあたり、先日元記事にコメントいただいたnoraさん、taskさんとの会話から得るものがとても大きかったです。

*3:http://tegi.hatenablog.com/entry/2016/02/21/225933に書いた通りぼくは『King of Prism』を非常に楽しんだのですが、腐ハウスブログ「キンプリ見てきました」(http://fuhouse.hatenablog.com/entry/2016/02/19/200342)での、同作におけるアイドルを娯楽として消費することの苦さについての指摘にも非常に深く共感しました。

*4:スクールアイドルもラブライブ!運営に搾取されているのではないか問題。これに関してはわたくし、文科省ラブライブ!運営による各学校への補助金制度が存在しているというロジックが自分の中ではすでに出来上がっているので完全に解決済みなんですけど、まあ、アニメ本編だけだとつらいかもしれません。

*5:シャールト・コプリーのごとく顔面大破した西住みほの治癒を「みぽりん、今回は機嫌いいといいなー」とか言いながらぼんやり待ってる大洗の面々、とか想像したくないけど

*6:空母原子力...、ときわめて安易な連想もしてしまいます。