こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

『ラブライブ!サンシャイン!!』放送直前に思うこと


【番宣PV】TVアニメ「ラブライブ!サンシャイン!!」番宣PV

 

 いま、2016年7月2日の21時49分にこの文章を書き始めている。

 ついにあと三十分でアニメ『ラブライブ!サンシャイン!!』の放送が始まる。

 幸運なことに、ぼくは今年の1月に行われたAqours初のイベントに参加できた。
 その時、Aqoursの9人には幾度も輝く瞬間が訪れていたのだけれど、群を抜いて印象に残ったのは、演者たちがあるシチュエーションを設定され、各キャラクターのセリフを自分で考えて演じる、というコーナーにおける伊波杏樹の演技だった。彼女の演技が終わったとき、会場にはどよめきが起きた。それほどに彼女の演技は、言葉は、μ'sにあこがれてスクールアイドルを目指す沼津の少女、高海千歌の真髄を捉えていたのだ。
 あの瞬間、ぼくは伊波杏樹という人がこのまま高海千歌を演じる限り、『ラブライブ!サンシャイン!!』は大丈夫だ、と思った。

 イベント後半で行われたライブシーンのころになると、その直感は安心に変わっていた。Aqoursはμ'sと同様に素晴らしい歌とダンスを披露し、輝いていた。スクールアイドルという虚構を背負って、現実の世界でみごとに輝いていた。

 

 アニメ化の発表以降、セカンドシングル、各種イベント、そしてユニット別シングルとAqoursの活動はテンポよく様々な展開をみせていった。メディア露出も増え、また特に楽曲のクオリティが高いことから、世間の評価も徐々に上がっていったように感じる。
 ぼくはといえば、当初注目していた国木田花丸(高槻かなこ)に加え、松浦果南(諏訪ななか)、津島善子(小林愛香)と好きな人が三人に増えて困惑している。こんなに好きになるつもりはなかったんですけど。
 要するに、Aqoursはアイドルとしてすでに成功している。少なくともぼくのなかでは。

 

 そもそも、異常な成功をおさめたμ'sに続くチームとして招集され、たった一年でアニメ化を迎えるという無茶な境遇に置かれているのだから、Aqoursに一定の人気が集まるのは当然のことなのだ。アイドルとは、その実力そのものの値ではなく、さまざまなギャップの表れ(逆境に負けず頑張る、とか、実力を越えて魅力を打ち出す、とか)こそ愛されるのだから。判官贔屓と言ったっていい。
 なお、そういう無茶な戦場に放り出される異能者集団としてぼくは勝手にAqoursは『スーサイド・スクワッド』であり伊波杏樹マーゴット・ロビーであるという直感を得ているのですけどまあそれは本当にたわごとなので省略します。

 

 『ラブライブ!サンシャイン!!』がアニメで問われるのは、Aqoursの「スクールアイドルの物語」としての価値だと思う。
 Aqoursの人たちは、ステージ上にスクールアイドルとしてのAqoursを一時的に召喚することはできるけれども、真にスクールアイドルとして生きることはできない。だから、その物語は、アニメでしか語りえない*1

 スクールアイドルの物語として、μ'sの『ラブライブ!』を振り返るとき、たとえば一期一話、『ススメ→トゥモロウ』の直前でμ'sの9人の「いったいどうすれば?」という言葉を経て穂乃果が歌い出す瞬間であるとか、映画の『Sunny Day Song』においてスクールアイドルたちが歌う情景であるとか、スクールアイドルの物語でしか表現しえない感動のポイントが幾度も思い出される。
 かような感動を、『ラブライブ!サンシャイン!!』では、何度味わえるだろうか。
 できることなら何度も味わいたい。けれど、贅沢は言わない。たった一度でもいいのだ。ぼくはその瞬間を心待ちにしている。

 あと二十分で、物語の幕が開く。

*1:公野櫻子による物語はすでに公野櫻子が書いているという時点で合格している。

『そして夢みるものたちは』 序.六月の映画館

 『ラブライブ! The School Idol Movie』公開一周年記念。

 一週間遅れたし途中ですが。

 小説です。連作短編です。

 未完とはいえたいへん長いので、ここではさらにその一部だけ載せました。

 全文はpixivに載せました。

www.pixiv.net

 

 また、以下にてこの続きを含むepubファイルを公開しています。

https://drive.google.com/open?id=0BzrrvYn0CvL5U2YtelpLSzZJV1U

 

 完結は2016年夏の予定です。

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もう三角形はみえない/Trident ラストライブ 「Thank you for your "BLUE"」レポート

www.hmv.co.jp

 

 他人を理解するのは難しい。
 片目をつぶってものを見ると遠近感が失われてしまうように、一人だけで他人と向き合っていても、お互いの心の距離や、相手の感情の細部がつかめない。
 二人だけではなくて、三人いれば事情が変わる。A地点までの距離を、BとCから見たときの角度の違いをつかって正確に測る三角測量法のように、Aさんのことを、Bさんと、Cすなわちわたしから見たときののイメージの違いを比べる。
 他人と一対一で相対するのは難しくても、もう一人他人を増やすのだ。そしてその他人の目を借りる。Bの目を通して見たAの話を聞く。もちろんB-C間のコミュニケーションが失敗することもあるけれど、A-C間だけで全部を済ますよりはまだましだ。
 そうして、二つの心で眺めることで、他人の心が立体的に浮かび上がってくる。複雑な互いの心のありさまを、より細かく把握していく。互いの心がどれだけ離れ、どれだけ近づいているかを、もう一人の目を借りて確認して、より近づこうと一歩を踏み出すことができる。

 一人ではできないこと、一人と一人ではできないことが、三人ならばできる。一人の能力が増えたわけではなく、厄介な要素である他人の数が増えただけなのに。
 他人がひたすら増えていったものが社会と呼ばれるものなのだろうと思う。三人はその原型だ。原型だから覚束ないけれど、いったん完成されてしまえば強い。そしてその構図の美点がはっきり見えるようになる。

 

 Tridentは、渕上舞沼倉愛美、山村響の三人で構成されたユニットである(であった)。
 実際のところ、彼女たちの関係がどのようにして解散時の状態まで出来上がっていったのか、一ファンに過ぎないぼくには想像することしかできない。ましてや、おおよそこの一年強という短い間しか追いかけなかった身としては。
 けれどもその輝きはあまりに強く、三人の関係は見事に過ぎて、だからぼくはその構図に特別なものを見出そうとしてしまう。冒頭に述べたのはそういう妄想の一部だ。心の三角測量法、とか呼んでいる。ぼんやり『蒼き鋼のアルペジオ アルス・ノヴァ Cadenza』でのイオナとムサシとヤマトのことを考えていて思いついた*1。わたしと他人、ではなくてわたしと他人と他人。三人だからこそできる心の交流の形式。
 まあこれはぼくの妄想だけれども、きっと、Tridentの三人のあいだにはぼくの想像もできないようなマジカルなものがあったに違いないのだ。ぼくはライブやラジオやアニメを通して、そのマジカルななにかを垣間見て、心をゆさぶられてきた。


 4月3日、Tridentのラストライブが行われた。会場は幕張メッセ・ホール8。とてもとても大きな会場だ。
 ぼくはフロアの中央よりやや後ろ、花道の突端を右斜め前方に見るあたりの席だった。ステージ上のTridentを肉眼で見ることは叶わないと思えたが、ライブ冒頭、Tridentはステージ上からさらに上に構築されたところから登場した。ステージの上にさらに小さなステージが作られていた、と表現すればわかりやすいだろうか。
 さらにそのステージ上ステージを中心に、上下左右の全面をディスプレイ*2が映しだす映像が彩る。
 会場の後ろ側からも見やすいうえに、視界の全面でTridentを中心とした映像表現が展開するため、没入感も高い演出となっていた。映像が、ほんらい『蒼き鋼のアルペジオ』が舞台とする海よりも、宇宙のイメージを多く扱う印象だったのもよい。海を舞台にしつつ、重力を操る未知の生命体と人類の対話という、ファーストコンタクトSFでもある作品の印象を再確認させ、そして原作の今後の展開を妄想させもする*3、楽しい演出だった。


 三人そろって登場したTridentは、やがて二人組になる。渕上さんと山村さん、渕上さんと沼倉さん、沼倉さんと山村さん。それぞれの組み合わせで歌われたキャラソンのパートだ。
 曲と曲のあいだのトークのなかで、お互いへの自分の気持ちを言い合う、というようなくだりがあった。どの組み合わせでも、ふたりがひたすら褒め合っているような雰囲気なのが楽しかった。にぎやかで、親密で濃密な楽しさがあふれていた。パフォーマンスも、どんどん熱を帯びていく。
 そして二人組は一人になる。ソロパートでは、いっそう雰囲気が高まっていった。三人が三人ともに、たったひとりでステージに立ち、そこにはいない、各自が演じたキャラクターたちのために歌う。不在の誰かを呼び、そして別れを告げる。彼岸とやりとりする祭事のようなおごそかささえ感じた。
 渕上舞さんは投影映像で架空の「青い鳥」を自分の傍らに呼び込んだ。明言はされなかったが、これには明らかに、昨年5月に亡くなった渕上さんの愛鳥チェルシーを悼む意味が込められていたはずだ。終始ほがらかな雰囲気なものの、とても親密で、切実な、観るものの心を打つ演出だったように思う。
 暖色系の照明のなか、『またあした』を歌った沼倉愛美さんは、極めて堂々として見えた。一際高くなる歓声のなか、それが聞こえてはいても動じてはいない、と思わされるような凛とした姿だった。しかし、この人はなんて強さを持っているのだろう、と感嘆していると、声のなかにふいにはかない響きがあったりして、これまた感嘆させられるのだった。
 山村響さんが歌った『Words』は、未知の感情に揺さぶられる痛み、苦しみをあつかった曲だけれども、この日のパフォーマンスは、一瞬だけ、そんな未知の感情に揺さぶられる喜びをも表現していた。ファーストライブ・セカンドライブ・そして今回と、変化した『Words』のパフォーマンスは、キャラクター・ハルナだけでなく、山村さんの変化をも表していたのだろう。
 そしてソロパート最後の『Yellow Carpet』。これまでキャラクターと自分が歩いてきた道のりに模した花道を、山村さんが一人でゆく。たった一人だけれども、その傍らには確かにハルナがいたし、劇中でハルナと共に生きていく蒔絵とキリシマがいた*4
 一人一人の声優が、キャラクターと対話をするようなソロパートは、とても濃密なパフォーマンスばかりだったけれども、それは各キャラクターにいったん別れを告げる儀式でもあって、声優がたった一人になっていくさまを見せつけられる時間でもあった。ついに、『蒼き鋼のアルペジオ アルス・ノヴァ』という作品が終わりを迎える、という悲しみも増してゆく。


 けれども、続く展開がその悲しみと寂しさを吹き飛ばす。先ほどまでステージに一人で立っていた山村さんに、わたしたちがいるじゃん!とばかりに、登場する渕上さんと沼倉さん。そして歌われるのは、『Blue Sky』!
 "Can I go with you?"と互いに呼びかけ、そして観客も一体となって「You! You!」とコールして、「あなた」とともにある喜びを高らかに歌う。
 このとき、Tridentは花道とステージ上手・下手の三ヶ所に分かれて立っていた。それは、その日形づくられた最も大きな三角形だった。
 ぼくの席からは、花道の突端にいる山村さんと、その向こうのステージ上手(向かって右側)の渕上さん*5が一直線上に並んで見えた。二人の距離は遠く、けれど交わし合う視線や表情が二人の近さをはっきり物語っていた。それは下手にいた沼倉さんとの間だって同じだったはずだ。すでにTridentは、ステージ中央に隣り合っていなくても、遠く離れていても、大丈夫なのだ。三人のつくった大きな三角形は、そんな確信を抱かせてくれた。


 『Blue Sky』の演出で客席に撒かれた銀テープには、Tridentからのメッセージが書かれていた。ぼくの右側のお客さんが、二本拾ったからどうぞ、と差し出してくれた。それをもらったぼくの左側のお客さんがメッセージに気づいて、すげえ!すごいっすね!と声を交わしあった。おこがましいけれど、われわれ観客も、Tridentの大きな三角形にプラスアルファの一点として参加できていたのかもしれない、という喜びもそこにはあった。
 そして続いたのは新曲だ。このタイミングで誰も予期していなかった新曲*6だ。しかも新PVつき! なんというサプライズ。Tridentの音楽プロデューサー西辺誠氏や、ついさっき、ライブ開始直前まで物販スペースで自らパンフレットを売っていた南健プロデューサー*7、サンジゲン・松浦裕暁氏といった、この仕掛けに関わったであろう『蒼き鋼のアルペジオ』の裏方たちのほくそ笑む姿が目に浮かんだ。
 そしてそして続いて登場するのが、中年の星ことBlue Steels!
 そう、Tridentのこれまでの活躍は、Tridentとともに全力で併走する他のキャストやスタッフがいたからこそ、より一層輝いて見えたのだった。すばらしいTridentの歌にふさわしいアニメ本編、そしてライブに登場するたび彼女たちを凌駕するほどの喝采を集めるBlue Steels。Tridentという三角形の外側を、さらにたくさんの図形が取り囲んで、輝きを反射させ、増幅させてきた。そのことをもう一度強く強く思い知らされる演出と展開。


 あとはもう一気呵成だった。最終的にライブは5時間に及び、アンコール前後では終電の都合なのか会場をあとにする人々が続出したが、多くの人がとても悔しそうだったのが印象的だった。ぼくの左隣にいた青年も、すごく申し訳なさそうに、残念そうにぼくの前を横切って退出していった。ライブあとに感想を交わしたかったのだけれども。


 ライブの終盤、渕上さんが、Tridentが解散すると自分の居場所が一つなくなってしまうような気がして嫌だった、ということを仰っていた。いやいや、大洗女子学園もあるじゃないですか――とも思いつつ、それほどにユニットや作品のことを強く想ってくれていることを、Tridentの中心にいる渕上さん本人が口にしてくれたのは、なんだか嬉しかった。それは、われわれファンが、解散の悲しみを分かちあう拠り所にもなるのだから。
 渕上さんは、嫌だと思いつつも、三人で集まったときにそれぞれが新たに関わる仕事や作品の話を聞いて、みな新しいステージに踏み出しているんだ、と感じて解散を受け入れることができたと語る。
 ラストライブにおいて、三人の今後が示されるようなことは当然ないわけだけれども、あの日あのステージを目にした人なら、Tridentが解散して離れても、目に見えないつながりはずっと続くのだと確信できたのじゃないかと思う。
 ライブの最後、アンコール曲として『ブルー・フィールド』を歌い終わったTridentは、長い挨拶のあとゆっくりと去っていった。最後にもう一度ぎゅっと固まって、観客には聞こえない言葉を交わし合って、それから三方向に分かれて舞台裏へ消えた。


 三人はそれぞれ別の道をゆく。さまざまな仕事のなかで、あるいはプライベートにおいて、時折彼女たちは再会するだろう。でもそれは個人としてであって、Tridentとしてではない。だからもうTridentという三角形をぼくが目にすることはない。
 それでも、あの三人が、かつて形作った三角形をぼくは忘れられない。そして時折、それぞれ別のところにいる輝く彼女たちの間に線を引いて、大きく広がった三角を想像する。冬の夜空に、大三角を見つけようとするように。


 ライブのあと、ぼくは前々からTwitter上でやり取りをしていた道人さんと落ち会った。何度もTridentのライブでニアミスしていたのだけれど、今回ようやく初めてお会いすることができたのだった。
 ぼくと道人さんの席はだいぶ離れていて、ライブの見え方もずいぶん違ったようだった。それぞれの視点で見たライブの感想、感動した場面のことなどを語り合うのは大層楽しかった。帰り道の途中でお別れするまで、時間は大した長さではなかったけれども、ライブのこと、Tridentのこと、それ以外のおたく的な話題も色々話した。
 Tridentのファーストライブに参加した昨年の三月から、この四月まで、Trident以外のものも含めてぼくは何度かライブに参加してきた。いずれも単独行だったから、そうして他人の言葉を、ライブ直後に直接聞くのは初めてのことだった。
 過去のブログでTridentのことを語るとき、コミュニケーションの難しさだとか、周りの観客のネガティブなところだとかをこだわって俎上にあげてきたことからわかる通り、ぼくは偏屈な人間であり、人付き合いがうまいほうではない。一人でいたほうが気楽でいいや、といつも思っている。
 でもその夜は、人と一緒にいれてよかった、自分じゃない他人の目から見たTridentの姿を知れてよかった、と思った。記憶のなかのTridentの姿が、より鮮やかになったように思えたから。


 Tridentという三角形はもう見えない。
 しかしぼくの記憶のなかにそれは残っている。また、音楽を聴けば、ライブ映像を観れば、そこにあの三角形の残像はある。
 そしてまた、自分が不似合いにも、他人と話すのっていいなあ、なんて思ったりすること自体も、あの輝ける三角形が残してくれたまばゆい光の小さな名残りなのだった。

 


Trident 「ブルー・フィールド〜Finale〜」MUSIC CLIP


*過去のライブレポート、キャラソンレビューをまとめておきます。

 あのすばらしいファーストライブに参加して、それまであまり熱心でなかったライブへの参加ががぜん楽しくなったのだった。

 

tegi.hatenablog.com

 

 

 Trident以外のキャラソンも大好き。自分の、キャラソン文化への見方もだいぶ変わりました。

 

tegi.hatenablog.com

 

 

 セカンドライブのときはちょっと大人気なかったなーとか思っている。 

tegi.hatenablog.com

 

 解散の報を受け止めるのは辛かった。

 

tegi.hatenablog.com

 

 で、最後まで強がってこんなことを書きました。

 

tegi.hatenablog.com

 


 またそのうち、山村響さんのライブレポートも書こうと思います。ぜひ読んでくださいね!

*1:劇中、イオナは過去の事件をムサシ・ヤマトふたりの視点から眺める。

*2:プロジェクションマッピングだったかもしれない。

*3:といってもこの「きっと霧の艦隊は地球外生命体由来のものに違いない」という妄想には根拠がほとんどないんですけど。

*4:そしてもっと言えば、昨年山村さんが演じたもう一人のYellowな人、天ノ川きららもその花道/ランウェイを歩いていたはずだ。

*5:もしかしたら山村さんと渕上さんの位置は逆だったかもしれないし、渕上さんじゃなくて沼倉さんだったかもしれない……。記憶力がなくてすみません。

*6:このとき流されたPV映像を製作したのが、遊技機向け映像の制作会社としてウルトラスーパーピクチャーズとサミーが共同で設立したギャラクシーグラフィックスなので、いつか『蒼き鋼のアルペジオ』が遊技機化されたときには正式にリリースされるのかもしれない。製作元情報は松浦裕暁氏のツイートに拠る。https://twitter.com/MatsuuraHiroaki/status/716632340970086400

*7:マジびっくりしたが、テキ屋のおじさんよろしく長蛇の列をさばいていく姿がかっこよかったのだった。

「最高」だったあのときのことを考え続けている/「ラブライブ!μ's Final LoveLive! μ'sic Forever!」ライブビューイングレポート

 今回取り上げるμ'sのラストライブ、そしてその直後に行われたTridentのラストライブから、すでに一ヶ月が経ちました。その間、仕事がすごく忙しいうえに風邪で数日寝こんだりしていて、もう遠い昔のような感覚がします。

 それでも、あの二つのライブについては書いておかねばならないことがたくさんあります。
 今日はまず、μ'sについて。たいへん長い上に抽象的で個人的なことばかり書きました。


 4月2日、TOHOシネマズ府中・スペシャルビューイング*1にて鑑賞しました。
 昨年のライブ時も府中のライブビューイングに参加しましたが、その時より、やや年齢層が高めで20代中心といった印象。あとカップルが多かった気もする。ライブ当日が平日でしたから、土曜に開催されたスペシャルビューイングは社会人が多かったのでしょう。
 そのせいか、コールはややおとなしめ。いや、それでも、ほかのスクリーンで映画を観ている観客に迷惑がかかっていないか心配になる熱狂ぶりではありましたが。


 ライブとしては、とてもコンパクトだったという印象があります。約5時間に及ぶものであり、途中で何度も幕間映像(主にキャストのインタビュー)を挟む構成でありながら、全体が緊密で「この構成でしかありえない」と思わせるシンプルな印象がありました。
 おおむねμ'sの歴史に沿った曲順であること、かつ「最後のライブならばこの曲をやっておかなくてはいけない」という曲を着実に演奏していく選曲が、そうした印象を産んだのだと思います。
 だから、次にどんな演出がくるのか、全体の構成がどういったものか、ある程度予測できてしまうわけです。ユニットに分かれて、盛り上がって、それで終わりが見えてきて…といったふうに。でも、それは退屈には繋がらない。なぜなら、あらかじめわかってしまう構成が、μ'sの終わりを示すひとつのメッセージになっているから*2。μ'sの側から「これが終わりだよ」ときちんと差し出してくれているのですから、ファンたる自分はそれを胸を張って受け取らなければならない。μ'sが差し出す一つ一つの曲に、ファンは、そうだよね、と頷きを返す。そんな雰囲気のあるライブだったように思います。


 でも、「終わりを受け取らなければならないんだ」と頭でわかったからといって、心がそれに100%従えるわけではありませんでした。
 終盤で『Sunny Day Song』の衣装を着たμ'sが登場したとき、ぼくは、その日いちばんの辛さ、悲しみ、そして虚無感に襲われました。μ'sのだれも口に出していないけれど、もうはっきりとそこには「これで終わりだよ」というメッセージがあったから。
 崩れそうになる膝に力を込め、嗚咽が漏れそうな口をおさえ、キンブレを振り歓声をあげたときの苦しさは、とうぶん忘れられそうにありません。


 なぜμ'sの終わりが辛いのか。
 二度と彼女たちのパフォーマンスが観られなくなるから。それが前提ではあるものの、加えてぼくには、「置いていかないでくれ」という、自分勝手な気持ちがあったのです。
 この二年くらい、ぼくはμ'sに強く惹かれて日々を過ごしたのだけれども、その根底にあるのは、「μ'sになりたい」という願望でした。……自分で書いていても超きもいしドン引きしているのですが、真実なので我慢して書きます。我慢して読んでほしいけど無理はしなくていいです。
 自分が高校生のころに、μ'sのように輝く青春を生きていたかった、という、過去の話ではありません。いま、たったいま、会社員として働いているいまの自分が、μ'sのようになりたい。そういう、現在の問題なのです。愚かしく、狂人のように思われるだろうけれども、その気持ちは否定しようがない。
 ぼくはμ'sになりたい。
 仲間を牽引していく強さが欲しい。お互いに委ねあえる信頼が欲しい。逆境を乗り越える能力が欲しい。
 ふつうの働く人が、スティーブ・ジョブズの立志伝やGoogleの企業風土に憧れる感情と、さほど差はないのだと思います。
 μ'sのように生きたい。ともに働く人たちにも、μ'sのように楽しく生きてほしい。そういう場を作り出せる人間になりたい、けれど、できない。
 『ラブライブ!』という物語のなかできらめくμ'sの輝きを見るたび、その輝きに欠けた自分の不甲斐なさがおもわれて、一層やるせなさが高まるのです。
 μ'sの、そして『ラブライブ!』の恐ろしいところは、その輝きがフィクション内に留まらず、現実での成功をも伴っていたことです。オタク史、いや日本のアイドル史に残りうる、独特かつ正統的な成功を収めたコンテンツだと言ってさしつかえないでしょう。それは、作り手たちの「仕事」の成果でもある。μ'sのすばらしい活躍の舞台裏では、多くのスタッフたちが、すばらしい仕事をしていたはずです。だから、「あれは嘘の物語だから」なんて言い訳が通じない。実際にゼロから初めて、ドームまでの道を走り切った人たちがいるのだから。
 こうして、フィクションの輝きと、現実の輝きが、二つ揃ってぼくの目を射る。もちろんそれに励まされることもあるけれど、4月のあの日のぼくはその輝きを受け止める気力も覚悟もなかった。打ちのめされてばかりでした。
 そしてμ'sは、そんな不甲斐ないままの自分を置いて去っていってしまう。
 『Sunny Day Song』の衣装を見たとき、あんなにも辛かったのは、そうした気持ちが最も大きくなっていたからなのでしょう。


 ライブの最後の曲は『僕たちはひとつの光』でした。
 「今が最高」というフレーズを、μ'sも、観客も、ぼくも、繰り返し歌いました。
 前述のとおり、観ているぼくは「最高」じゃなかった。それでも「今が最高」だと歌っていた。
 そこには現実逃避と欺瞞がある。
 でも、そういうことをずっと考えながら観ていたライブにおいて、「今が最高」という言葉を発していた瞬間、もっとも自分の現在とかけ離れた言葉を大声で発したあの瞬間に、ぼくは確かに解放されたように感じたのでした。


 あの瞬間、μ'sと観客と演出と、これまでのμ'sの歴史と、μ'sをめぐるすべてのものごとが噛み合って、真に「最高」なものが現れていた。ぼくは最高じゃないし、これからも最高になれるかどうかわからない。けれども今確かに目の前に最高な瞬間が現れていて、ぼくもその一端を、ほんのほんのごく一部だけれども、担っている。
 世の中に「最高」は存在しうるし、自分がその一部になることもできる。ならば、いつか自分が「最高」になることも、決して不可能ではないのではないか? ならば、そのために走っていくことに意味はあるはずだ。
 ――そのように、自分が信じ直すに足るだけの「最高」なものがあの瞬間にはあった。だからぼくはほっとしたのだと思う。


 翌日、Tridentのライブに行く途中、ぼくはニコライ堂*3神田明神に立ち寄りました。とくに神田明神には、ラブライバーの姿が多く見られました。みんな和やかで穏やかな笑顔だった。
 ニコライ堂で参拝を終えて、敷地の外側から建物の写真を撮っていたところ、初老の女性に話しかけられました。ぼくが観光で通りかかったのだと勘違いして、堂内の参詣をすすめようとしてくれたらしい。絢瀬絵里のことを身近に感じたくて――とまでは言わなかったものの、ニコライ堂と正教徒に関心があって立ち寄り、すでに堂内も見学した旨を明かすと、彼女も親近感をもってくれたらしく話が弾み、小一時間ほどの長い立ち話をしました。
 ぼくは特定の宗教を信じる人間ではないけれども、ニコライ堂にも神田明神にも、あるいは他の寺社仏閣にもなにかよきものを感じるのだ、という話をすると、いわく、「人の祈りが積み重なった場所には、共通のなにかが生じるのよ。それは正教もプロテスタントも、仏教でも同じだわ」。
 内心ぼくは、「それは二次元でもアイドルでも同じだ」と思いました。神田明神はもともと平将門を祀った社だけれども、ラブライバーはそこでμ'sを想う。強引で勝手な上書きではあるが、そこに積み重なっていくのは確かにある種の「祈り」です。もしかしたら、その祈りは、普遍のなにかを生み出しているのかもしれない。
 彼女はまた、自分が正教徒になろうと決めたときのことも話してくれました。多分に個人的なエピソードだったので詳述は控えますが、いわば彼女はそこで、正教の信仰対象たるイイスス・ハリストスという理想の存在の一端に触れて解放されたのでした。
 その話を聞いていたときには全く気づかなかったのですが、いま振り返ると、彼女の体験はそのままぼくがμ'sのライブで感じたことに重なると言えそうです。
 理想を叶えることは難しい。だから、理想を宗教やアイドルといったかたちでこの世の中に現出させる。理想の者それ自身になることはできないけれども、その一端に触れることで人は癒され、励まされる。
 ハリストスもμ'sも、人が作り出した理想という意味では同じです。正教徒にもラブライバーにも、あんなものと一緒にするなと怒られるかもしれませんが、時代も文化もまったくことなる人の営みが、共通のよきことを生み出していることに、ぼくは穏やかな感動を覚えたのでした。


 正教徒の女性は、近々、東欧をめぐる長い旅行に出るのだ、と話してくれました。宗教と政治によって数多くの血が流されてきた土地です。荒廃しているところもあるが、各地の教会に宿を借りながら移動し、復活祭はコソボで迎える、という。
 悲惨な争いが行われた土地で、それでも神のことを想う。よき世の到来を願う。
 彼女いわく、人は不完全だから、人間の行いを見ていると、信仰を失いそうになってしまう。だから、神のことを考え続けるのが大事なのよ、と。


 ぼくも、μ'sのことを考え続けようと思います。

*1:生中継ではなく、ライブ翌日に録画を放映したものバージョン

*2:だから、すごく儀式的だと思いました。極端な言葉を使ってしまえば、あれはμ'sという存在をいったん彼岸へ送り出す葬儀だったのだと思う。

*3:神田明神に比べてラブライバーの注目度は低いですが、『School Idol Diary』で描かれる通り、絢瀬絵里が幼少時に通い、穂乃果・海未と初めて出会ったとされる重要な場所です。