こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

Tridentが解散したって悲しくなんかない

 

BLUE(初回限定盤)(Blu-ray Disc付)

BLUE(初回限定盤)(Blu-ray Disc付)

 

 

 いよいよTridentのラストライブ*1まであと一週間となりました。
 まったくの偶然ですけど、Trident同様にぼくが愛するμ'sもまたあと数日でラストライブを迎えます。なんたる符合。偶然ではありますが、あと数日で自分の好きなものの終わりが二つもやってくるかと思うと、その欠落に自分が耐えられるのか不安になってきます。いや、きっと自分のなかでなにか大きな変化が起こるのだけれども、大きすぎて予測ができない。そんな気分です。

 でも、Tridentにせよμ'sにせよ、当の本人たちからは、悲壮感みたいなものはあまり伝わってきません。ライブという大きな仕事を前にしているのですから、悲しむ暇なんてない、ということもあるのでしょう。大人が仕事として準備をしているのですから、当然です。
 ですが同時に、ことTridentについては、Trident自身もファンも、こうした「終わり」を迎え入れる準備はあらかじめできていたのではないか、という気がします。
 別れを前にしても、悲しみに暮れなくてよいのだ、とみな頭でわかっている。
 Tridentを産んだ『蒼き鋼のアルペジオ アルス・ノヴァ』という作品が、そのことを示しているからです。

 

 『蒼き鋼のアルペジオ アルス・ノヴァ』の主人公であるイオナ*2は、自分が超越的な存在・ヤマトによって恣意的に創りだされたかりそめの存在であることに悩みます。世界の危機を回避するために、彼女は自分のなかにバックアップ保管されていた創造者たるヤマトを解放しなければならない。ヤマトを解放したとき、おそらく自分の自己同一性は保たれず、ひとつの終わりを迎える。自分の生は他者のためのものであっただけでなく、終着点までもあらかじめ決められていたのです。
 彼女は恐怖に怯えます。仲間の危機を前にしても、自分を失う恐怖から、何もできないでいる。
 そんな彼女の背中を押すのは、かつて自分の愛するものを失った悲しみにとらわれ暴走するも、イオナによって救いを得たコンゴウでした。

消えるわけがないだろう
お前の存在はずっと私の中にある
お前がこれからどうなろうと
私が覚えている限り
お前がいたという事実は消えはしない*3

 すでに愛したものを失ったコンゴウが口にするこの言葉には、とても説得力があります。とはいえ、容易に頷くことは難しい、とても厳しい言葉でもある。
 他者の記憶という不確か極まりないものにしか、自分を託すことはできない。そんなことを信じて自分を投げ出せるのか。
 そもそも、イオナの生は他者によって定められたものでした。そのような生を、自分だけのものとして認め、誰かに認めてもらうことができるのでしょうか。
 自分の生に、他者に託せるほどの意味はあったのだろうか? もしぼくが彼女の立場になっても、そのように怖気づくはずです。
 もちろんぼくを操るヤマトのような超越者はいません。ですが、身体や能力によって、ぼくのできることはとても小さく限られている。自分が歩める狭い狭い道だけをなぞっていく己の生が、ときおりひどく虚しく思えてしまう。思い悩むイオナに、ぼくは強く共感します。

 

 が、それでもイオナは、自分のなかのヤマトを復活させることを選びとります。
 あらかじめ定まったルートを通ったのだとしても、
それでも世界は複雑さに満ちていて、そこから自らの大切なものを選びとることはできる。
 たとえ自分の記憶がなくなり、アイデンティティーが消え去っても、それを誰かに引き継いでもらうことは可能だ。
 そこに意味は必ず生じる。
 イオナの選択は、そのような信念に基づいているのだ、とぼくは思います。

 

 人の生は、運命を超えて意味を得ることができる。
 そのようなことを考えるとき、ぼくは、2015年3月のTridentファーストライブにおける『Innocent Blue』歌唱中の一場面を思い出します。
 ハルナ役・山村響さんとタカオ役・沼倉愛美さんの間に立って、ひとりソロパートを歌おうとするイオナ役の渕上舞さん。その背中に、左右から沼倉さんと山村さんの手がそっと添えられます。感極まった渕上さんは、思わず声をつまらせます。こぼれる涙。いたわりあうように、互いの感情を交換させるように、寄り添うTridentの三人。
 渕上さんの背中に手を添える振付は、事前に沼倉さんによって考案されていたものでした。ですが、落涙というアクシデントによって、その動作は、渕上さんをいたわる二人の心の現れとして見えるようになった。
 大げさですが、あらかじめ定まっていたはずの振付という運命を超えて、新たな意味が生じたのです*4

 

 より大きくTridentの活動を見渡すと、Trident自体も、あらかじめ定まっていた運命のなかで、意味を見出していくことを実践したのだと言えるように思います。本人たちの自主的な希望でも、自然発生的なものでもなく、アニメ放映前から段取りされた、作品の利益のために組まされたユニット。それがTridentでした。
 Tridentがその活動初期に「不仲」というキーワードをもって世間から誹謗を受けたのも、作品内ユニットという存在の向こうに透けて見える「大人の事情」が忌避されたからかもしれません。ファンタジーであるはずのアニメ作品が、好きでもない仕事を声優たちに強いている。そんな歪んだ現実は、オタクたちの見たいものではないのだから。
 しかしいま、彼女たちの歌に、ラジオでのトークに、そしてステージでの姿には、そのような定められた運命を窮屈にこなす不自由さは感じられません。作品の終わりと同時に活動を終えさせられる、そんな運命を辿らされている真っ最中だというのに。

 

 決められたことをこなすなかでも、自分にとってかけがえのない意味を見出すことができる。
 Tridentの、そして『蒼き鋼のアルペジオ アルス・ノヴァ』の発するそんなメッセージに、この最近のぼくはずっと勇気づけられてきました。
 Tridentは、規定された活動のなかで、規定以上の輝きを見せてくれました。ならば自分のような人間も、日々の、どうしようもなく平凡に規定された人生を、意味あるものにできるのではないか。そう信じさせてくれたのです。

 

 ぼくにそんなことを信じさせる力をくれた人たちの、最後の道のりが、このラストライブです。ならば、悲しみに暮れることはない。Tridentの姿を心に焼き付けて、ラストライブのあとも、ぼくはまた大いに語って語って語り倒します。
 そしてコンゴウのように、「大丈夫だ/私がお前を忘れはしない」、そう口にしてみせるのです。

私に世界を、世界との繋がりを与えてくれたのはお前だ
そのお前が自分を否定するようになってしまっては
私も立つ瀬がないではないか
大丈夫だ
私がお前を忘れはしない
私たちは、繋がっているのだろう?

 Tridentが解散したって、悲しくなんかない。
 そこで悲しんでいたら、自分のなかに何かを残してくれたTridentの、「立つ瀬がない」ですから。

 

 ライブのチケットはまだ一般発売中のようです。
 今からでも遅くはありません。あなたも、Tridentの航跡を目にしてみませんか。
 幾多の運命と偶然を越えて活躍してきた彼女たちの最後の舞台に、一人でも多くの人が、それまでの人生のルートからちょっとだけ足を踏み出して参加してくれたら、きっと素敵なことになるだろうと思うのです。
 幕張でお会いしましょう*5

*1:4月3日、幕張メッセで開催予定。

*2:美少女アニメというジャンルからすればイオナは「ヒロイン」ですが、ここは「主人公」と呼びます。「主人公」である群像と同じく、戦い、悩み、成長した彼女には「主人公」という名前こそふさわしいと思うからです。

*3:『蒼き鋼のアルペジオ アルス・ノヴァ Cadenza』より、コンゴウのせりふ。以下同。

*4:正直に言えば、ぼくの記憶のなかでは落涙→手を添えるという順番に改変されてすらいました。ブルーレイで確認して順序が逆だったことに気づいた。記憶の曖昧さに苦笑しつつ、それでもやはり、そう思ってしまうのも仕方ない名場面だよな、と思います。

*5:e+のURLはこちらです(笑)。http://sort.eplus.jp/sys/T1U14P0010163P0108P002144333P0050001P006001P0030003

ぼくは「ガルパンはいいぞ」と言わず「ガルパンはおもしろいよ!」と言う/『ガールズ&パンツァー 劇場版』二回目

f:id:tegi:20160313173250j:plain

 立川シネマ・ツーで『ガールズ&パンツァー』(極上爆音上映)を観てきました。二ヶ月ぶり二度目。
 隣のお客さんが初めて劇場版を観たらしく(上映前の会話をぼんやり聞いていた)、最初に砲撃の轟音が劇場内に響いて身体に伝わってきたとき「ふわあ……」みたいな声を思わず漏らしていたのが印象的でした。終了後も「よかった!よかったよー」とか同伴のリピーターさんに興奮して言っていたのもよかった。他のお客さんも、リピーターが初見の友達を連れてくる、というパターンが多かったように思います。

 

 1月に書いた通り、ぼくは『ガールズ&パンツァー』に違和感を抱いています。二度目を観終わった今もその壁は完璧には崩れていません。

 戦車道において、少女たちは決して傷つかない。「特殊なカーボンコーティング」という設定を超えてその傷つかなさは過剰に思える。そしてその、「どんなときでも少女たちは傷つかない」という物語には、世のオタクたちの、女性への暴力を過小評価しがちな傾向*1通底するものがあるのではないか? ぼくの違和感をざっくり言うとこんな感じです。
 書いた直後も今も思いますが、我ながら、なかなか過敏な感想です。それに、萌え文化、セカイ系文化、さらに広げて言えばハードボイルドに冒険小説と、傷つかない女たちがたくさん登場する娯楽をさんざん楽しんできたお前が言うか、とも思う。でもそういう文化に浸りきった自分だからこそ、ちょっとでも「なんかいやだな」「違うな」と思ったときは口にしておきたい。特に、前回鑑賞時の1月初旬は「ガルパンはいいぞ」という言葉に非常に勢いがあり、そのうねりによって、欠点を隠したままでガルパンをプッシュしていく空気がありました。そういうノリノリな人たちに「ちょっとここらでゆっくり考えませんか」と言っておきたかった。

 

tegi.hatenablog.com

 


 とはいえ、だいぶぼくの感性によるところが大きい文章だったわけで、そういう説得力の低い話を全面に出した記事にしたのは無粋だったかな、と反省しています*2
 また、最近ガルパンとはまた別種の盛り上がりをみせているアニメ映画『King of Prism』*3や、またぼくが昨年のベスト映画に挙げた『ラブライブ!』において、ぼくがガルパンに感じたようなそれに通じる違和感*4を抱いた人がいることを踏まえると、これはガルパンと男性オタクという問題設定だけでは不足で、狭量な議論になりかねないと思うようになりました。娯楽と現実の関わりについて、より幅広い視点で複数の作品を通じて語っていかないと、なかなか通じにくいし自分でも納得できていない。

 その作品の大ファンとして、インサイダーとして語るときにこぼれおちるもの。一見さんとして、アウトサイダーとして語るときにこぼれおちるもの。
 個人の感覚を文章にしているのだから、何かがこぼれおちることは当然なのですが、こぼれおちていること自体は忘れてはならない。
 今言えるのはそのくらいなようです。
 うーむ。

 

 そういうわけで頭がだいぶ煮詰まっていましたが、『ガールズ&パンツァー』二回目の鑑賞じたいはたいへん楽しかったです。

 今回は事前に二冊の本を読んで臨みました。要は、前述したところの「インサイダー」に自分から積極的になったうえで観た、ということです。

 まず一冊目は、野上武志/鈴木貴昭『リボンの武者』。楯無高校に通う松風鈴は、眉目秀麗な優等生ながら、こと戦いについては鬼気迫る執着をみせる同級生・鶴姫しずかに誘われ、小型戦車のみによる非公式戦「タンカスロン」の世界に足を踏み入れる――という『ガールズ&パンツァー』スピンオフコミックスです。

 

ガールズ&パンツァー リボンの武者 1 (MFコミックス フラッパーシリーズ)

ガールズ&パンツァー リボンの武者 1 (MFコミックス フラッパーシリーズ)

 

 

 鈴にとって、大洗の面々は奇跡的な優勝をなしとげた雲上の人々であり、とくに西住みほは戦いの鬼神として恐れるべき存在として描かれます。もともと、王道の主人公たちの脇で生きるキャラクターに愛着を持ちがちなぼくとしては、こういう距離感にわくわくしてしまいます。
 タンカスロンは非公式なので、戦車道のように、ルールやマナーを管理する公の団体は存在しません。参加者も観客も自己責任で、怪我をしても卑怯な手を使ってもお咎めなし。
 この雰囲気、たとえばF1などの現実のカーレース文化がかつてはそうしたものであったことなどを連想させて、「これはこれでアリ」という気持ちになってきます。
 いやなんかそういうもんでもなくない?実際怪我したら公のトラブルとして社会問題になり、競技/文化そのものが衰退するのでは?…などと思いはすれど、戦車をめぐるガルパン世界のリアリティをつかむ一端として、なかなかにたのしい作品です。
 『リボンの武者』で触れられるそんな背景を手がかりにすると、「戦車の戦いというハイリスクな場でも自己責任が前提となりうる世界なのならば、肉体的破損や物損を極めてローコストで補償できるのではないか。たとえば『エリジウム』のアレ*5みたいに大怪我してもすぐ直せちゃうんではないか」みたいなオタク的妄想力も働いてまいりました。

 

 かように勝手に脳内で設定を補強するとともに、映画を観ているうちにガルパンのリアリティラインを納得できてしまった、ということもありました。というのも、終盤の戦闘時に「これはジョン・ウーではないか」というサトリが頭のなかに生じたのですね。装弾数を超えた銃撃、射線のなかに飛び込んでもバレットプルーフな主人公。そういうものだ、以上!というあのウー学校(((c)ギンティ小林)の校則と同じようなものではないか。
 特に、たがいに大隊長を守るべく大学生チームとナオミたちが繰り広げる流麗な戦闘には、凝縮された数秒のなかでアクロバティックなアクションがめまぐるしく展開する香港アクション的なものを感じてたいへんぐっときました。あのへんはみんな戦車のなかに引っ込んでてさほど危なげもないし。

 要は、自分の中にそれまであった、「傷つかない少女たちを観て癒やされたい」という日本男性オタク的な快楽の追求としてのガルパン像だけでなく、「こんなアクションは面白かろう」そして「そのアクションを成立させるにはこのリアリティラインにしよう」という、アクションの快楽の追求としてのガルパン像が自分のなかに立ち上がってきたのです。補助線が一本から二本に増えて、面白さが増えたという感覚もある。

 

 とはいえ、今回の鑑賞においていちばん強烈な補助線として機能したのは、鑑賞前に読んでいたもう一冊、『ガルパンの秘密』の内容です。

 

 

 アニメを作った主要なスタッフはもちろん、舞台となった大洗の街の人々の声も多数含むインタビュー集で、「それ、アニメの大洗女子学園みたいじゃん!」というエピソードが頻出する。アニメを作る側も、大洗の街も、「どこまでできるかわからないけれど、やれることを最大限やろう」と、各地で奮戦する。成功者による振り返りという、ある程度冷静に読むべきテキストではありますが、「アニメというきっかけがなくなっても、大洗町はそこまで弱い観光地ではありませんよ(笑)」(大洗ホテル・島根隆幸さん)なんてせりふが飛び出すような強さ、開放感、現実主義なざっくばらんさがあって、現実の大洗町、そして『ガールズ&パンツァー』を作った人々への敬意と親近感が湧き上がってきます。
 そういう感情と、それから大洗町東日本大震災津波被害と風評被害を受けたことを踏まえて、よりによって3月12日に映画を観てしまうと、前半のドラマがまったく違ったものにみえてくるわけです。理不尽に学園艦*6を追われる大洗の面々は、福島原発事故で住まいを追われた人々に重なります。
 「学校がなくなったら、バレー部じゃなくなっちゃう」「風紀委員じゃなくなっちゃう」「一年生じゃなくなっちゃう」と各チームのテンプレ的アイデンティティーの喪失を嘆く大洗の連中が、コミカルでありながら、すさまじく切実なものとして迫ってくる。「一年生じゃなくなる」ことを嘆くってどんなアイデンティティーだよ、と思って笑っちゃうわけですけど、いや、五年前、じっさいに高校一年生であったアイデンティティーを奪われた人が大量に生じたはずなのだ……、と絶句せざるをえない。
 ぼくはもともと本作の前半、大洗を追われた面々の疎開生活を描くパートがとても好きだったのですが、そうした目で観ると、疎開先の個々のエピソードやデティール、それから西住みほが実家へと帰り過去を回想する描写への愛おしさがより一層強くなりました。同じく廃校に立ち向かう『ラブライブ!』が「学園生活」を守る物語だとすると、こちらは街・家を含む「生活」全体を守ろうとする物語だ、と言えるのかもしれません。だから、大洗町への聖地巡礼が習慣化し、より密接で深いかかわりを求めたくなるのではないか。
 ぼくはかように東日本大震災に結びつけて考えてはみましたが、しかし映画じたいはあくまで、ポップな萌え文化の極北としてのたたずまいを崩しません。あと半歩踏み出せばそちらへ行けそうだけど、行かない。映画が終わってみれば、劇場にはまずは「楽しかったー!」と顔をほころばせる人がたくさんいる。

 色々な意味で、ガルパンは娯楽映画として「強い」。
 その強さは戦車の履帯のようで、難路を突破して乗務員を救うこともあれば、振り落とされ、鉄の重みに踏み潰される恐怖を生み出すこともある(かもしれない)。
 その両方を考えながら、それでも圧倒的にこちらを揺さぶってくる快感に身を委ねる二時間でした。
 立川の上映が4月以降も続くのならば、また観に行くと思いますが、とりあえず今回の感想は次のような一言で終えたいとおもいます。

 ガルパンはおもしろいよ!

 


ガールズ&パンツァー 劇場本予告

*1:これは、誰かが傷ついたというときに「それは暴力じゃないよ」と否定してしまうような、間接的な暴力の肯定へのハードルの低さ、あるいは自分が直接的な加害者になることへのハードルの低さ、双方を含みます。つい先日も、上坂すみれさんが心ないリプライを多数受けてきたことを理由に、ツイッターを終了するという悲しい出来事がありました。

*2:このあたり、先日元記事にコメントいただいたnoraさん、taskさんとの会話から得るものがとても大きかったです。

*3:http://tegi.hatenablog.com/entry/2016/02/21/225933に書いた通りぼくは『King of Prism』を非常に楽しんだのですが、腐ハウスブログ「キンプリ見てきました」(http://fuhouse.hatenablog.com/entry/2016/02/19/200342)での、同作におけるアイドルを娯楽として消費することの苦さについての指摘にも非常に深く共感しました。

*4:スクールアイドルもラブライブ!運営に搾取されているのではないか問題。これに関してはわたくし、文科省ラブライブ!運営による各学校への補助金制度が存在しているというロジックが自分の中ではすでに出来上がっているので完全に解決済みなんですけど、まあ、アニメ本編だけだとつらいかもしれません。

*5:シャールト・コプリーのごとく顔面大破した西住みほの治癒を「みぽりん、今回は機嫌いいといいなー」とか言いながらぼんやり待ってる大洗の面々、とか想像したくないけど

*6:空母原子力...、ときわめて安易な連想もしてしまいます。

「きょうだいなんだ」/『PREMIUM 3D STAGE 残響のテロル』


舞台「残響のテロル」第1弾CM

 

 『残響のテロル』舞台版を観てきました。
 アニメが大好きなだけに出来が心配でしたが、おおむね杞憂でした。言いたいところもあるけれど、これはこれで一個の作品になっていた。

 

 タイトルにもある通り、背景に映しだされる3D映像がひとつの見ものです。

 個人的には、ほんらい自由で無限の演劇の舞台に、わざわざ一定の枠をつくって映像を映し出すという演出はあまり好きではありません。それが、アニメや映画のような演出をしたい、でもコスト等の物理的な条件からできない、ならば映像だ、ってな方向のものならなおさら。
 ただ、今回はじめて3D映像を使った演出を観て、使い方によってはすごくいいものになるのだ、と思いました。
 たとえば冒頭の核廃棄物処理所のシーン、ナインが壁に赤いスプレーで描く「VON」の文字。ナインが客席に向かってスプレーを使うと、ナインと観客のあいだの宙に「VON」が浮かび上がります。舞台上の俳優と観客のあいだに生まれたその文字は、その二者が生で向かい合う演劇でしか描けない鮮烈さに満ちていました。
 エンディングでの、映画のようにスタッフロールを映し出すなど、凡庸で興ざめする演出もあったものの、そうした鮮烈ないくつかの場面のおかげで、総じて非常におもしろい印象を抱きました。

 

 まあそういう新奇な演出もまずは俳優たちの演技がなければはじまらないわけですが、みな好ましい演技をしていたと思います。

 ぼくの行った6日・18時半からの公演は、終了後にハイタッチ会が開催され、俳優たちの半分くらいと顔を見合わせてハイタッチする、というたいへん貴重な経験をしてきました*1。なので余計に好ましく思えてしまっております。ナインを演じた松村龍之介さんなんか、ぼくが「かっこよかったです!」って言ったら「そうですか..? 自信が持てます」とかおっしゃるわけですよ。いや最初から自信もっていいんだよあなた!こんだけの舞台に立ってたくさんの客を呼んでるんだから。まったくなんて好青年なの…とかうっとりしてしまった*2。ま、そういうおまけは別としても、ナインもツエルブも、アニメをトレースしつつ、舞台版だけの人物を作り上げていてよかったです。

 

 内面としては、リサとハイヴの両ヒロインのほうが、少年たちふたりよりもさらにアニメから離れていたかもしれません。アニメ版と同じく潘めぐみさんが演じるハイヴはもう文句なしのハイヴなわけですけど、各シーンで少しずつ感情をアニメよりも多く吐露しているところに、意外なかわいさをみました。
 ダウナー系のアホの子だったアニメ版に対して、けっこうきゃっきゃと明るい舞台版リサもこれはこれであり。違うと思わせつつも、声のトーンやしゃべり方はアニメ版に非常に近くしていて、演じている桃瀬美咲さん、やるなーと思いました。

 あと、アニメにおけるリサとハイヴって、みょうな色っぽさがあったと思うんですよね。アニメ放映時、ツイッター上とかで、けっこうな数の男オタが盛り上がっていた記憶があるんですけど、舞台版でもちゃんとエロかったから安心しろみんな。なんつーか、細身だけどむちっとしているあの作画がちゃんと三次元になっていてですね……。けっこう前方の席に座れたので、プール際で靴下を脱ぐリサとか、ハイヴの胸元とか、たいへん目の毒でした。いやこんな感想ですみませんほんと。

 

 物語に話を戻します。
 内容としては、全11話のアニメをうまく圧縮し、かつ演劇でならより面白くみせられる場面をふくらませ、となかなかによい脚色がなされていました。
 アニメの持っていたあの温度と湿度の低さは薄まり、登場人物たちが心情をはっきり口にするわかりやすさがありました。饒舌でない愚か者たちが交錯して絡み合っていくアニメの物語の手触りが好きだったもので、物語としてどちらが好きかと言われたらアニメ版だと答えざるを得ないのですが、登場人物により近さを感じたのはこちらの舞台版のほうです。やはり、面と向かい合ってナインに「おれたちのことをおぼえていてほしい」って言われたら、リサじゃなくても心をつかまれてしまうよ。

 

 脚本の改変で個人的に驚きかつ心をつかまれたのは、ナインが原爆を「兄弟」と言うこと。たぶんアニメではそこまで明言していなかったと思います。かつてブログでこういうことを言っていたので、我が意を得たり、と内心大喜びでありました。

 

ナインとツエルブが核爆弾を脅迫に用いたのは、二人をかつてアテネ計画に引きずり込み虐待した日本政府の一派が、同じく手を染めていた秘密計画の産物だったからである。いわば核爆弾は彼らふたりの隠された兄弟だったのだ。

『残響のテロル』覚書 - こづかい三万円の日々


 前半の最後、急激にリサへ近づいていくツエルブに距離を感じてしまうナインをはっきり描くことがアニメとの大きな分岐点になっているように思います。後半、ツエルブ、ハイヴ、そして原爆への感情を踏み込んで口にするナインの姿は新鮮だったし、愛おしく感じられました。

 そういうナインと自分の違いをはじめて認識して、生きていこうとしたツエルブの姿もまた。


 兄弟といえば、アニメと今回の舞台も、同じ脚本家から生み出された兄弟のようなものなのかもしれません。同じところも違うところもそれぞれあって、しかもほんとうの兄弟のようにそれぞれにいいところもあればわるいところもあるのですが――兄の行いをみて学んでいるはずの弟がみな成績優秀とは限らないのが難しいところ――、でも、兄が好きな人はこの弟も気に入るんじゃないかしら、と思います。
 千秋楽の3月6日は、昼・夜公演のニコ生中継も行うようです。今日の客の入りから考えると、現場の当日券だってけっこう出るんじゃないかな、と思う。アニメ『残響のテロル』が好きなみなさん、舞台のうえのナインたちのことも、ぜひ見届けてはいかがでしょうか。

 


PREMIUM 3D STAGE「残響のテロル」【ゲネプロ】

 

 

tegi.hatenablog.com

 

tegi.hatenablog.com

 

*1:2.5次元演劇界ではけっこうよくあるイベントです。超緊張する。ツエルブ役の石渡真修さんはかつてミュージカル『テニスの王子様』で桃城武役を演じていた方なので、そのきょろっとした大きな目をあらためてハイタッチの際に目にして「も、桃ちゃんせんぱいだ…!」と一瞬固まってしまいました。へんな間ができたので石渡さんも不思議な顔をされていたように思います。すみません…。

*2:あととうぜん潘めぐみさんとハイタッチしたときは心底うっとりしました。潘さんも「ハイヴ最高でした」って言ったら「わーいうれしいです」と返してくれてこっちのほうこそうれしかった..。会場の外出て冷静になったらとたんに手が震えたね。

世界は輝いている/『KING OF PRISM by Pretty Rhythm』

f:id:tegi:20160221225249j:plain

 いや~、キンプリ、すごかったです。評判通り。
 自分の使ったことのない感覚器官をことごとく決め打ちされていく感覚、というか。いや、個々の要素――「二次元アイドル」「謎スポーツ」「BL」など――に反応する器官はそれぞれ普段からそれなりに使い慣れてるはずなんですけど、その器官が今まで刺激されたことのない方法で斬新に過剰に打ちのめされていく、というか…。一回観ただけだと、そのキンプリ的な過剰さの部分に対しては「なんかよくわからんがすごかった…尊い…」程度の感想しか出ません。

 そういうわけで、基本的には、TL上とかで漏れ聞こえてきたイロモノ的で過剰な部分(例えば「尻から蜂蜜」とか)を、微笑みながら&爆笑しながら観てたんですけど、わたし、クライマックスには思わず落涙してしまったのですね。ずっと珍味を食べてたはずが、メインディッシュが何年も食べてなかった馴染みの店の定食だった、みたいな。極めて真っ当に感動いたしました。
 なお、「イロモノ的な過剰な部分」だけでもぼくはこの映画が大好きです。超おいしい珍味だった。「真っ当に感動した」からいい映画だって言うわけじゃないです。ここからあとは、極めて個人的な感覚の報告です(というかぼくのブログは毎回そうですね)。

 どういうことか。
 この映画の中心にあるのは、絶大な人気を誇るアイドルグループの(ひとまずの)終焉と、新たなアイドルの誕生です。
 さんざんブログでもツイッターでも語っている通り、わたしはそこそこに重度なμ'sとTridentのファンです。そして両者はともにこの4月にラストライブを迎えます。毎日毎日、家でも職場でも、μ'sとTridentが終わりを迎えるまであと数十日しかないんだ、というようなことばかり考えている。
 そんなところに、どストレートに「アイドルの終わりと始まり」を描く映画を観ちゃったもんですから、これは刺さらないはずがない。

 新たなスタァ・一条シンくんは、初めてプリズムショーを観たときのときめきを観客の心に蘇らせます。自分自身も、プリズムショーを初めて観た日からずっと、世界がきらきら輝いて見えるんだ、と笑う。
 そうなのです。アイドルは自分自身が輝くだけじゃない。世界すべてを輝かせてくれる。これほどまでに輝くひとを生み出したのならば、きっとこの世界だって輝いているのだ、と信じさせてくれる。
 シンくんがプリズムショーを初めて観たときのときめきを語っているとき、スクリーンには次々と『プリティーリズム』シリーズの過去の映像が映しだされます。ぼくは2011年の『プリティーリズム・オーロラドリーム』放送開始時に最初の数話を観ていただけのプリリズ素人なので、個々の映像の意味はわからないのだけれど、でも11年当時のことを思い出しました。『プリキュア』シリーズにはまって数年、徐々に女児アニメもかじりつつ、一方では『アイドルマスター』で二次元アイドルへの感情を醸成し、んでもって数年後、『プリキュア』『プリティーリズム』の3DCGダンスを経由して『ラブライブ!』にたどり着いて、ラブライバーになるに至った自分もまた、シンくんが言う、世界が輝いて見えた瞬間をかつて経験したのだ、と気づいて、心の底が熱くなったのです。ここで、「そもそも『プリティーリズム』の菱田正和監督と『ラブライブ!』の京極尚彦監督は師弟関係なわけで*1――」みたいな事実を持ち出すまでもなく、シンくんの語るプリズムショーと世界の輝きについての言葉は、恐らく、すべてのアイドルに普遍的に通用する真理です。少なくともぼくにとってはそうです。
 そして、これはぼくの勝手な見立てですが、そんな彼が歌う曲が『Over the Sunshine!』という……。泣くしかねえだろ!

 一本の映画として観たときには、「「輝き」はああいうわかりやすいエフェクト以外でも表現してほしかったなァ」とか、表現の面で多少言いたいこともあるんですけど、その一方で、ぼくが大好物の、「主にミュージカルシーンに行われる時間・場所の唐突な移動」がたくさん観れたので充分満腹です。
 上映時間が59分なだけあって、色々な不十分さはあるのだけれど、他の過剰さで充分カバーしているんですよね。そのへん、受け手が打ち込んでほしいところに、豪速球のみを投げ込んでいく精神が見て取れて面白かったです。取捨選択の結果がはっきりわかる映画って観てて楽しい。

 そういうわけで、超楽しかったっす。応援上映行くかもしんない。


劇場版「KING OF PRISM by PrettyRhythm」トレーラー(本編ver.)


声援OK!コスプレOK!アフレコOK!劇場版「KING OF PRISM」プリズムスタァ応援上映PV

*1:今回の映画もプリズムショー演出は京極尚彦