こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

Aqours 4th LoveLive! のこと

ラブライブ!サンシャイン!! Aqours 4th LoveLive! ~Sailing to the Sunshine~』、東京ドームにて一日目・二日目両日参加してきました。

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東京ドーム、1日目終演後の風景。

 内容があっち行ったりこっち行ったりでたいへん長くなってしまったので、適度に区切りました。

 

 

■会場のこと

 一日目はステージ向かって右側に位置する完全見切れ席でじょなぺしさんと、二日目は向かって左側の一部見切れ席で妻と、それぞれ連番参加でした。
 完全見切れ席は、完全とはいえ、会場中央のサブステージと、そこへ向かって伸びていく花道の様子がステージの側から見える席でしたから、サブステージでのパフォーマンス時には全体がよく見えましたし、そうでなくとも常に会場全体が視界に入っていて、「これがステージの上からAqoursが観ている景色なのかも…」なんて想像することもできました。更に、ステージのいちばん脇のすぐ近くでしたから、ゴンドラがステージに発着するときにはキャストがすぐ目の前を通っていきました。
 キャストを肉眼で観る機会は全体の半分以下だったでしょうし、ステージ全体の演出を把握するのも難しかったですけど、時折むちゃ嬉しい思いができる席でもあったので、自分としてはかなりの良席だったという印象です。
 一部見切れ席は、ステージ全体をほぼ真横から観るような位置にありました。あのすばらしい二回目のアンコールのとき、Aqoursのみんなが立っている姿を直接視認することはできないような位置でした。でも、姿が見えなくても、伊波さんの声が小さくもはっきりと響いてきて、それはそれですごく感慨深い聞こえ方でした。離れていても届くんだ、という嬉しさ。
 全体を通して、東京ドームは大きいとは思ったのだけれど、手の届かない巨大さみたいな感触はありませんでした。Aqoursを観たいと思った人が会場いっぱいにいて、まあ全員と気が合うかどうかはわからないけど、でも顔の見えない人々じゃないよな、という安心感。なにせあの二日間は、Aqoursの歴史上もっとも多くのAqoursファンが集まった時間だったのです。彼らの姿を見て嬉しさを感じないわけがないし、多少の親しみは抱いてしまうというものです。
 一日目、隣にいてくれたじょなぺしさんが、ライブの前から終わったあとまで、常にてらいなくAqoursへの好きという気持ちを表に出されていたことも、そういう、会場にいる人々への親近感を加速させてくれました。じょなぺしさん、ありがとうございました。


Aqoursと「繰り返し」

 ライブ、とくに初日を観終わって思ったのは、演出全体に「今のAqoursならここまでできるんだぜ」というメッセージが込められているのではないか、ということです。
 ライブ冒頭に歌われた『君のこころは輝いてるかい?』、『Step! Zero to One』という二曲は、Aqoursの一枚目のシングルに収められた曲であり、Aqoursが初めてファンの前に現れた2016年1月11日のメルパルクホールイベントでパフォーマンスされた曲でした。
 メルパルクホールで私が観たAqoursと、東京ドームで観たAqoursの間には、明確な違いがありました。それは彼女たちの表情です。2016年のAqoursは、ファーストシングルに収められた三曲を演じたのでしたが、ダンスや歌の精度は未熟であったうえに、表情を維持することができていなかった。明るく楽しい楽曲とは裏腹に、彼女たちの表情には余裕はなく、ただ懸命にパフォーマンスを成功させようという必死さが表れていた、と当時の私は思いました。もちろん、それはそれで、あの時点でのAqoursの魅力ではあったのですが。
 今回のライブの冒頭で三曲を立て続けに歌ったAqoursの面々は、パフォーマンス中、常に笑顔でいられる余裕があった。完全見切れ席ゆえに多くの時間を巨大スクリーンに映し出されるAqoursの姿を凝視することで過ごしていたからこそ断言できるのですが、特に一日目のAqoursの余裕ぶりは大したものだったと思います。過去最高に、それらの楽曲を自分たちのものとしている印象があった。
 その勢いで、『恋になりたいAUARIUM』ないしは『HAPPY PARTY TRAIN』という二つのナンバリングシングルを経て、『想いよひとつになれ』に至るアニメ一期を振り返っていく前半部のライブとしての濃密さは、Aqours史上最高のものだったと私は思います。Aqoursが自分たちのパフォーマンスに強い自信をもって、肉体も技術もそれを裏打ちしていて、観客もまたそこに酔いしれていた。
 それらの楽曲は、これまで歌われることのなかったものではありませんでした。いずれも、東京ドームにいたファンの多くが見聞きしたかつてのパフォーマンスの再演だったはずです。それでもそこには、過去のAqoursのライブでは感じることのなかったものがあった。


 まずもってその感覚、努力と成長によって生じた変化の大きさを楽しむ、というアイドル全般に共通する感動ではあります。しかしAqoursの場合、そこにはさらなる意味が加わっていたと思うのです。
 Aqoursは、μ'sの栄光の物語を再演するために作られたグループです。彼女たちの存在自体が「繰り返し」そのものなのです。
 過去の楽曲を再び繰り返し、かつそこに今までになかった魅力を盛り込むということは、Aqours(繰り返し)がμ's(オリジナル)にないものを獲得できる、という証明にもなりうるのです。
 また、アニメ2期13話で、高海千歌はそれまでの自分たちの歩みすべてのなかに「輝き」があった、と言います。それはもちろん、明るく楽しい出来事だけでなく辛い出来事をも肯定するという意味ではあるのですが、同時に、一見、大差なく何度も何度も繰り返されるように見える日常すべてを肯定する、ということでもある。同じことを繰り返しているようであっても、そこには異なる大事なもの――輝き――が宿っている。東京ドームでのパフォーマンスは、そういうアニメ2期のテーマにも説得力を与えるものだったとわたしは思うのです。


 Aqoursのこれまでのライブを振り返ってみても、「繰り返し」は重い意味を持つように思えます。
 Aqoursのライブは、多くの繰り返しの要素からできています。例えば、MCの多くは同じ会場・同じツアー内で共通しています。ライブ前半のMCが「ついてきてくれますか?」のフリで区切られるところなど、これまですべてのライブで共通しているんじゃないでしょうか*1
 もちろん、キャストの自由に任された部分もあるようなのですが、それは限定的です。1stライブ・二日目のあの『想いよ一つになれ』直後ですら、一日目のMCと同じ内容が維持されたのです。

 

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あの、楽曲終了後のMCは、今日聴いた人からすれば、あまりに「台本どおり」という印象で違和感があったかもしれないけれど、逆に昨日一度聴いていた身からすると、逢田さんのために懸命に大勢を立て直そうとするみんなの意思が透けて見える、これまた熱いものに感じられたのです  

  

 同じ台本*2に沿って演じられるパフォーマンスだからこそ、違いを生じさせるものに観客は敏感になる。あの瞬間、Aqoursが台本通りの言葉を言うことでしか伝わらないあり方で、彼女たちが抱くその言葉以外の感情が観客に伝わっていた。


■繰り返しの外へ

 Aqoursがライブで繰り返し行わなければならないのは、MCだけではありません。彼女たちの歌も踊りの多くが、アニメのなかですでにフィクションのAqoursが演じたものを再演するというルールに則っている。
 では、Aqoursのライブは、あらかじめ定められたレール上を走るだけのものなのか。2ndライブと3rdライブの二つの段階を経て、Aqoursのライブはそうした懸念を払拭してきたと思っています。


 2ndライブは、アニメシリーズの1期と2期の間に行われたため、アニメの物語をステージ上で再演するという縛りから解放されていました。さらに、複数の地方会場を巡っていくツアーという形式を取ることで、アニメ内のAqoursにできないことをする、ということにも成功していた。
 一曲一曲の表現はアニメのなかのキャラクターの模倣であっても、ライブツアー全体は、現実のAqoursでしか獲得できないもので、ゆえに、模倣として行われる一曲一曲のパフォーマンスにも、固有の価値が加えられていく。
 ツアーの最後では、ファンたちによってAqoursがふたたびアニメのなかの沼津へと送り出していくという演出まで行われました。結果、2ndライブツアーでのAqoursは、「フィクション内部のAqoursを現実のAqoursが再演する」のではなく、「フィクション内から抜け出てきたAqoursが現実でライブをする」という印象を強めて、新たな魅力を獲得していたのでした。

 

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 3rdライブは、再び1stライブと同様にアニメの物語を繰り返すものでした。
 そもそも、それまでの日々を振り返るという千歌の内省で終わるアニメ2期は、ライブで再現されるのに適した物語だったと言えるでしょう。2期13話のラストで演じられる『Wonderful Stories』では、1期・2期のライブパートを数珠繋ぎに再演していく演出がとられていますから、観る側にも「繰り返されること」=エモーショナルなこと、という共通認識が出来上がっている。3rdライブである楽曲が演じられるとき、そこには「アニメ劇中の再演である」というエモさだけでなく、「やがて『Wonderful Stories』によって再演される」という予感から生じる「エモさ」が付与されてしまう。
 このエモさは、少々危険なものです。「振り返った過去」に価値を見出すことは、「今が最高」であるはずの『ラブライブ!』のテーマから逸脱してしまう。過ぎ去った過去を後から振り返って「輝き」として肯定することは許されても、あらかじめ輝けるものとして期待して「過去」を獲得してはいけない。『ラブライブ!』において讃えられるのは「今」そのものであって、後で愛でるために今を過去として生きてはいけないのです。
 『Wonderful Stories』はそうした過去への感慨を「カゴにはね入れないで/自由に飛ばそう」と歌いますから、言葉のうえでは踏みとどまっています。しかし、ライブという場で実際に生じてしまうエモさの落とし穴から、いかに身をかわせるのか。


 おそらく、2期13話放映当時にわたしが感じていた恐怖感というのは、このあたりに起因することだったのでしょう。当時、この記事を書いたモチベーションはその恐怖感の克服でしたが、概ね失敗していたと思います。


 では、実際の3rdライブで、Aqoursはどのように『WONDERFUL STORIES』を表現したのか。
 そこで過去の時間を表すために用いられていたのは、それまで演じられた各曲の衣装でもなく、また過去の場面を想起させる舞台装置や映像でもなく、ただのライブTシャツでした。
 演者がライブTシャツを着るということは、一般的にライブが最終盤にあることを示すのだけど、でもその感覚はライブをともに過ごしてきた観客でしかわからないことです。ライブを観ていない人にとってはただのTシャツですが、ライブという場と時間を共有した人々にとっては、それはその瞬間瞬間の積み重なりを最も雄弁に語る衣装なのです(特に、同じライブTシャツを着てライブを楽しんでいたファンにとっては)。
 ライブTシャツにそうした意味をもたせられるのは、生のライブそのものしかありません。その衣装を纏って歌われる『WONDERFUL STORIES』は、二期13話の「時間経過を衣装で示す」という演出、「過去のすべてが『輝き』だった」というテーマを、まさしくライブでしかできない形で繰り返したのでした。そこに、今を生きながら今を懐かしんでしまうような自家中毒の入り込む余地は極めて少ない。なぜなら、ファンがライブの一瞬一瞬を全力で楽しまなければ、かれの着ているライブTシャツに意味は生じないからです。
 3rdライブで、(語弊を恐れずに言えば)何の変哲もないただのライブTシャツが、自分にとっては光り輝く衣装に匹敵する「輝き」を放って見えていることを理解したとき、わたしは2期13話を見たときの恐怖感を克服できたのでした。


 このように、3rdライブまでの様々な試みによって、Aqoursのライブにおける「繰り返し」は、もとからあったものをそのまま繰り返していく縮小再生産的な行き止まりの隘路であることを越えて、「繰り返し」でしか得られない価値と意味を獲得したのだ、と私は思います。


■『想いよひとつになれ』再演

 4thライブのなかで、繰り返すことの価値を最も明らかにしていたのは、『想いよひとつになれ』のパフォーマンスでした。
 1stライブ2日目における同曲の演奏の失敗を経て、あの日ピアノを演奏していた逢田梨香子さんにとって、この曲は実に特別なものになっていたはずです。それはAqoursの他のメンバーにとってもそうだろうし、ファンの側にとってもそうでした。あの瞬間が収められた1stライブのブルーレイを未だに直視できないというファンは多いんじゃないでしょうか。私もそうです。
 あの日、逢田さんとAqoursは非常に過酷なコンディションのなかで演奏をやり直し(繰り返し)、一応の成功を掴み取ってはいました。だから、逢田さんのピアノ伴奏で演奏される『想いよひとつになれ』はあの日きちんと幕が降りている、と私は思う。けれども前述の通り、楽曲自体が持ってしまった記憶は、あの日を最後に更新されないままでした。
 4thライブにおいて、『想いよひとつになれ』はピアノの前に座る逢田さんの姿を起点に、あの日と異なる演出で展開されていきました。同じ楽曲を、今度は逢田さんを含む9人によってパフォーマンスする、という基軸です。
 それはアニメ劇中の再現ではないし、1stライブの再現でもない。そこをもって、真に失敗の克服にはならないのではないか、という批判も出てくるかもしれません。しかし、今回の『想いよひとつになれ』が目指したものはそういうことではなかったと私は思うのです。
 辛さを繰り返すことだけが辛さを克服する方法じゃない。
 『想いよひとつになれ』はこう歌います。「なにかをつかむことで/なにかをあきらめない」。
 1stライブの記憶を前提にしたうえで、逢田さん/桜内梨子をまじえた9人全員で、一つの場で楽しく歌い踊る。
 ただそれだけで、Aqoursと逢田さんは『想いよひとつになれ』という楽曲をふたたびつかみ取ったのです。歌とダンスにはそういうことが可能なのだし、そういう歌とダンスを演じられるほどに、Aqoursというグループは「ひとつ」になっているのだ、と私は感じました。


■繰り返しの外で

 繰り返すことがAqoursの表現の中心にあるなら、それが「繰り返し」であることを認識できない観客には、その価値は見えないのではないでしょうか。
 それこそ、『想いよひとつになれ』の演出は、1stライブのことを知らない人には意味がわからないわけです。そうした人たちに、Aqoursのパフォーマンスは届くのか?


 私のなかではこの問題には決着がついていて、回答としては「そんなこと考える前に観てもらうしかない」ということしかないだろうな、と思っています。外側からどう見えるか、内側にいる自分にはわからない。だから、自分の「繰り返し」の見立てみたいなものを取り払ったときのAqoursがどう見えるのか、それはもうその人に任せるしかない。
 4thライブの二日目、初日の感動をなんとかもっと多くの人に知ってほしくて、こんな記事を書きました。

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 結果、数人の人が反応して、ライブビューイングの場に足を運んでくれました。結果をツイートしてくれた方々はそれぞれにちょっと特殊な立場だったので*3その反応を一般化することはできないのですが、それでも、何も伝わらなかったということはなかっただろう、と思っています。
 それに、会場でも、初めてAqoursのライブを観に来たらしい人たちが楽しんでいる姿を多く見かけました。
 二日目のライブに同行してくれた私の妻は、Aqoursのライブへの参加が初めてでしたし、『ラブライブ!サンシャイン!!』という物語へのはまり具合は私に比べるととても薄い人です*4。それでも、衣装やメイク、ダンスといった『ラブライブ!サンシャイン!!』とAqoursの物語の外にあるライブの諸要素を充分に楽しんでいたようです。とても小さく身近なサンプルだけど、あの日、妻と同じような楽しみ方をした人も多くいたんじゃないかな、と私は思いたい。


 もう一つここで書いておきたいのは、今回のライブにおけるアニメの位置づけです。
 ライブ後の感想のなかに、1st・3rdライブのようなアニメの物語の再演を軸としていないことがライブの価値を高めた、というような、遠回しなアニメ批判を見かけました。
 しかし、Aqoursのパフォーマンスの合間に場内で流されていたのは、言うまでもなくテレビアニメの再編集映像でした。
 その映像は、「浦の星交響楽団」と銘打った、作曲家・加藤達也の指揮によるオーケストラが劇伴音楽を演奏するあいだ、会場内のスクリーンに映し出されていました。それはあくまで浦の星交響楽団の奏でる音楽の背景として流されていましたから、1stや3rdでの扱われ方とは大きく異なっていたのは確かです。でもだからこそ、そのときのアニメは、過去のライブでは持ち得なかった魅力を放っていた。
 それは意図的な編集の結果だったと私は思うのですが、当日流されたアニメの場面の多くが、台詞がなく、物語のあらすじを知らなくても、登場人物の感情や性格が見て取れるようなものでした。人物の表情や身体の動きから、楽しさやかわいさ、辛さや喜びが十分に伝わってくるようなシーンがとても多かった。
 笑ってしまったのが、2期3話のみかん畑のくだりを、割合しんみりとした楽曲の演奏中に流していたことです。Aqoursの面々を乗せた運搬車がみかん畑をジェットコースターのごとく突っ走っていき、木々を抜けた花丸が口いっぱいにみかんを頬張っている、という『ラブライブ!サンシャイン!!』のなかでも特にスラップスティックな笑いの連なるシーンです。
 今回のライブは、Aqoursにとって非常に重要なものだったわけですから、そうしたコミカルな場面は排除して、「泣ける」「エモい」シーンだけを繋いでもよかったはずです。Aqoursの熱心なファンなら、そうした場面の数珠繋ぎでも充分にそれらが描く物語の意味を理解できますし、そのほうがファン心を沸かせたのではないか、とも思えます。
 これはあくまで推測ですが、アニメがあのような内容に編集されていたのは、『ラブライブ!サンシャイン!!』の物語に不慣れな観客であっても受け止めやすく、反応しやすいことを目指してのことだったのではないでしょうか。その結果、例えば1期1話の船上の千歌と曜のような、酒井和男監督の手によって『ラブライブ!サンシャイン!!』のはしばしに描かれていた「動く絵」としての気持ちよさ・かわいさに満ちたAqoursの魅力が、際立つことになった。前述のスラップスティックなシーンの楽しさもそうです。
 なめらかに動いていくアニメーションは、一瞬一瞬移り変わっていきもう二度とは戻ってこない絵の連なりでできています。
 アニメーション表現における「動く絵」としての気持ちよさを感じるとき、私は、その「絵」の連なりを目にすることで、移り変わっていくからこそ愛おしいその瞬間の価値を認知することができます。
 書くのも野暮だけれども、そのようにして千歌たちの「輝き」の日々は描かれてきたのだし、4thライブにおいて、台詞なしでただただ魅力的に動いては消えてゆくアニメーションのAqoursを観ることは、『ラブライブ!サンシャイン!!』が指し示そうとする日々の「輝き」に関する作品テーマを、アニメにしかできない方法で受け取ることに繋がっていたのだと私は思います。


■繰り返しの先で

 前述の通り、今回のライブにおける私にとっての「音楽経験として」の最高の時間は、初日の『君のこころは輝いてるかい?』~『想いよひとつになれ』の時間でした。
 では、「Aqoursのファンとして」の最高の時間はいつだったか。最後に、そのことについて書いておきます。


 二日目も半ばになると、いかに記憶力が弱く、セットリストや過去のライブの演出を忘れやすい私とて、残りのライブの展開がおおよそ予測できました。
 『MY 舞☆TONIGHT』から『未熟DREAMER』と続く中盤の山場を過ぎると、浦の星交響楽団の最後のパートが始まります。ピアノ・ソロに始まり、その歴史を終えてゆく浦の星女学院の最後の時間を彩った『ありがとう、そしてサヨナラ』。そして、『起こそうキセキを!』。
 前日はそのあとに、巨大な船のセットに乗ったAqoursが登場し『MIRAI TICKET』を歌いました。二日目、浦の星交響楽団の演奏を聴きながら、前日と同じ構成だとわかりつつ、しかし交響楽団の音はどこか異なるようにも思えた。実際にアレンジが違ったり、浦の星交響楽団の人々が異なる意識で演奏していたのか、それは私にはわかりません。でも私には違うように思えた。『起こそうキセキを!』が流れるなか、スクリーンには「ドーム」へと駆けてゆくAqoursの姿が映し出されます。その先にある曲が昨日とは異なるような気がしてならなかった。


 スクリーンに映し出されていたのは、2期12話、私が今年の3月にテレビで目にしていた映像です。
 2期12話放映当時の私は、Aqoursが駆けてゆくのを「後ろ」から観ていた、と思います。ずっと前からほのかに予想していた、μ'sと同じ「ドーム」でパフォーマンスするAqoursを、未来にあるものとして眺めていた。それは、現実のAqoursがまだドームに立っておらず、劇中のAqoursがそれを先取りしている感覚があったからでもあるし、かように輝ける存在である劇中のAqoursが、ファンたる自分を常に牽引してくれているという気持ちが強かったからでもありました。
 アニメ2期での「ドーム」言及、そして実際に東京ドームで4thライブを開催することが発表されると、μ'sの繰り返しとしてのAqoursの道のりはネット上でいくらかの非難を受けていたように記憶しています。それでも現実のAqoursは4thライブに至るまでの日々を美しく駆け抜けていったし、ファンである私はその姿に励まされて、4thライブ開催までの日々を、Aqoursファンとして恥ずかしくないように生きよう、なんて思いながら生きた。
 その頃もまだ、私はAqoursの「後ろ」を追いかけている、と思っていました。


 そして、4thライブ二日目の『起こそうキセキを!』を聴きながら、「ドーム」へ駆けてゆくAqoursを観て、私は唐突に悟ったのです。今このときだけ、自分は、Aqoursの走る道の「先」にいるのだと。
 一日目と同じく繰り返される『起こそうキセキを!』は、しかし昨日の『MIRAI TICKET』ではなく、「ドーム」で歌われる『WATER BLUE NEW WORLD』へと繋がるものとして響いていた。
 昨日と同じように、これからAqoursは船にのって舞台に表れる。そしておそらくは、あの劇中の決勝戦の再現としての『WATER BLUE NEW WORLD』が歌われる。
 私はそのことをわかったうえで、Aqoursより先にドームの中にいて、彼女たちを待っている。いつも追いかけていたはずの人たちが、今度は自分のいるところへ、自分が走ってきた道をやってくる。Aqoursが自分の道をもう一度走り直してくれている。
 自分が、Aqoursをめぐる「繰り返し」のなかにいる。そして今だけは、「先」にいる。そこにめがけて、Aqoursが笑顔で走り込んできてくれる。
 自分が、Aqoursの先に立っている。
 過去と現在、アニメと現実、Aqoursと自分。反転して、繰り返されていて、でも今その時だけは、Aqoursがこちらに向かって走ってくる。


 Aqoursを追いかけて走ってきたこの三年間が、全部、まるでドミノ倒しのように一瞬で、「それでよかったんだ」と証立てられたような感覚が私を貫きました。
 不遜だとわかっていながら、私はもう、身体をわななかせて涙を流すことを止められなかった。これじゃあ、自分がAqoursを応援してきた数年間の道のりをAqoursが辿ってくれているみたいじゃないか。まるで、私がAqoursをここにやってくる手助けができたみたいじゃないか。そんな大それたことを思うなんて私はちょっとどうかしている。
 でも、少しくらいはそう思っていいんだ、とまで私は思ってしまった。思ってしまえた。そのくらい嬉しくて嬉しくてたまらなかったのです。Aqoursがドームに向かって走ってきてくれていることが。
 2期12話の繰り返しの先に、私がいて、Aqoursが現れた。それは本来最初にあったはずのアニメの物語と、私のいまの居場所を思い切り逆転させた途方もない出来事なのだけれど、その状況は目の前にあまりに力強く演じられていて、疑いようがなかった。


 Aqoursが『WATER BLUE NEW WORLD』を歌っている間、私は涙をぼろぼろこぼして、声が出ないようにタオルを――1stライブのライブビューイング会場で買って以来、繰り返し繰り返し使っているあの青いタオルを――口に押し当てて、泣きながら笑っていた。
 東京ドームで『WATER BLUE NEW WORLD』を聴くのは当然それが初めてのことでしたが、でも、あらかじめその光景を自分は知っていたような、大昔に仔細に渡って結ばれた約束を叶えられているような、そんな気分でした。
 いや、こうやって書いていても、あのときの感覚はまったく言葉にしきれていないと思うのです。なんだったのだろう。なんと書けばいいのだろう。
 そして私は、その、あのときの気持ちをうまく書ききれないことも嬉しい。悔しいけど。あのときのことはあのときの私と、あのときのAqoursのものです。もう二度と繰り返せません。

 

 今あらためて『WATER BLUE NEW WORLD』を聴くと、なんだか、あのときの彼女たちに自慢されているみたいでちょっと悔しい。そしてとても嬉しい。たまらなく嬉しい。


Aqoursだけの繰り返し

 μ'sが成し遂げた偉業のうち、東京ドーム公演を再び成功させたAqoursに残された次のタスクといえば、NHK紅白歌合戦への出場です。ものすごく大雑把に言ってしまえば、それをもって、Aqoursはμ'sの「繰り返し」としての偉業達成を完遂できることになる。
 μ'sの場合、テレビアニメの終了から劇場版の大ヒットを挟んでの出場でした。Aqoursはμ'sとは違い、特別枠での出演になります。1月の映画公開と、春のアジアツアーといった2019年の予定を見ると、それらの活動を通じてより人気が高まってからの正式な出演でもよかったのではないか、とも思います。
 もしこのタイミングでμ'sの偉業の「繰り返し」を二つともこなしてしまうことに理由があるとしたら、それは、Aqoursにはまだまだ先があるから、ということなのかもしれません。
 2期後半の物語を踏まえて、予告編中の台詞から考えると、おそらく劇場版では、ラブライブ優勝と浦の星女学院廃校という大きな山を越えて三年生の引退を経たあと、残された6人が(そして次のステップに進む3人も)どのように生きていくか、というテーマが描かれるのでしょう。そのテーマは、μ'sの繰り返しとしての大きな目標を達成したあとの現実のAqoursとそのファンにとって、これ以上なく切実なものとなります。
 アニメ1期・2期の物語は、劇中のAqoursの姿を通して、現実のAqoursへのエールを送ってきた、と私は思っています。何かを始めるとはどういうことか。μ'sという偉大な先輩の存在をどう考えればいいのか?Aqoursというグループの存在意義はなにか。
 現実のAqoursが遭遇するであろう様々な難題を考えるヒントとして、『ラブライブ!サンシャイン!!』というアニメは作られているのではないか。そのように考えたとき、劇場版で描かれるテーマは、東京ドームと紅白歌合戦出場の両方を終えたあとのAqours(とファン)にこそ届けられるべきだ…そのようなロジックで、これらの活動の順序が組み立てられたのではないか、と私は思ってしまう。
 それは、Aqoursにはそれらのメルクマールとなるようなイベントの「先」があること、Aqoursのような活動の区切りを迎えないこと、を欲する気持ちが私のなかにあるからこその空想ではあるのですが。


 4thライブの最後のあいさつで、複数のメンバーが、再び東京ドームに戻ってくることについて言及していました。
 それはまさしく、μ'sには成し得なかったことです*5。μ'sの繰り返しではなく、Aqours自身の繰り返しとして、次の東京ドーム公演は行われる*6
 その日に至る道は、Aqoursが初めて通る道です。『ラブライブ!』というプロジェクトのなかでは、他に誰も通ったことのない道。それでもそこは、真っ暗な道ではないはずです。それは、4thライブに至るまでにAqours自身の通った道の、繰り返しなのだから。
 今回の4thライブでAqours自身が放った光が、きっとその、再びの東京ドームへの繰り返しの道を照らしている。


 その日まで、私は繰り返し繰り返し、この言葉を書こうと思います。
 私はAqoursが好きだ。

 

*1:一部、後半のMCで使われたときもあったかも。

*2:「演者の自由に話させるべきではないか」という意見もあるでしょう。私も以前はそのように思っていましたが、今は現状のあり方でよい、と考えを変えました。理由の一つは、その演出が、MC以外の演出にも通底する『ラブライブ!サンシャイン!!』という「商品」の方針によると思われること。MCの演出を変えるならばそれは作品(商品)全体の方針にも関わりますし、それは『ラブライブ!サンシャイン!!』のなかの私が良いと思っている部分をも変えてしまうでしょう。理由のもう一つは、「自由に話す」ことと、「話者の心を自由にさせる」ことは必ずしも同じではない、ということです。

*3:そのうちの一人は、近日の解散を控えたWake Up Girls!のファンの方でした。この方には、事前にTwitter上でWUGのファンにとっての見え方について質問を投げてもらえたにも関わらず、自分はWUGの解散のことをすっかり失念しており、無邪気に過ぎる回答を返してしまったのでした。反省しています。それでも観に行っていただけたことには本当に感謝してもしきれないです。そういうわけで、Wake Up Girls!を聴き始めました。『スキノスキル』と、七瀬佳乃(青山吉能)のソロ曲『解放区』がすごく好きです。

*4:Aqoursが嫌いというわけではなく、とにかくμ'sが好きなので、相対的にどうしても温度が低めになってしまう、ということのようです。それでも、札幌でのファンミーティング現地参加、ナンバリングライブのライブビューイング参加の経験はありました。なお推しは黒澤ルビィさんです。

*5:念のために言っておくと、だからAqoursはμ'sより偉大だと言いたいわけではまったくないです。それぞれの背景と事情があり、個性がある、というただそれだけのことです。

*6:――行われる?本当に?言い切る根拠なんてありませんけど、でも、行われるでしょう。やるよ。きっとAqoursは戻ってきてくれる。(そしてすこし思い切って言うと)私たちが戻ってこさせるんだ。